『リマ・トゥジュ・リマ・トゥジュ・トゥジュ』(こまつあやこ)

リマ・トゥジュ・リマ・トゥジュ・トゥジュ

リマ・トゥジュ・リマ・トゥジュ・トゥジュ

第58回講談社児童文学新人賞受賞作品。マレーシアからの帰国子女の沙弥は、悪目立ちしないように息を潜めて生きていました。ところが変わり者で有名な佐藤先輩に拉致され、「ギンコウ」とかいうのに連れ回されて、平穏な中学校生活を乱されてしまいます。
吟行の意味がわからず銀行強盗の片棒担がされるものと勘違いした沙弥は、おびえまくります。緊張のあまり口調も変になり、「短歌って、ゴーゴーゴーシチシチのあれでございますね?」などと、おかしなことばかり口走ります。この主人公の適度なアホさにより、親しみやすい感じで物語はスタートします。
ということで、短歌ものです。先輩の短歌は「だまされるほどガキじゃない 甘口のカレーライスに溶かしたウソに」「当番をサボったって正義です シナモンロールみたいな女子は」と、いかにも現代短歌といった感じのなじみやすいもので、短歌入門としてはまあまあです。
そして、沙弥はマレーシア語との融合短歌を開発します。「ジャランジャラン 願いを込めてもう一度いっしょに歩いてみたい道です(「ジャランジャラン」は散歩の意)」といったようなもの。ちょっとずるいような気もしますが、文学の世界に反則というものはないので、これはこれでありです。リズム感のよさと多くの読者にはわからないマレーシア語の意味の融合により、独特の世界がつくられています。多様性を称えるお説教としても、説得力のある手法となっています。
ここがこうつながるのかという驚きもある作品なので、あらすじについては多くは語りません。察しのいい方は、女子ふたり男子ひとりのカバーイラストをみて、なにかを感じ取っていただければと思います。
はぐれ者の生きる道を軽やかに描いていて、なかなか好感の持てる作品でした。

『続 恐怖のむかし遊び』(にかいどう青)

続 恐怖のむかし遊び (講談社青い鳥文庫)

続 恐怖のむかし遊び (講談社青い鳥文庫)

伝統遊びをテーマにした怪談シリーズの第2弾。堅実な本格ミステリ志向、異様なまでの文学志向、そして百合趣味と、さまざまな方面で1作ごとに信頼感を積み重ねてきているにかいどう青、今回もまた期待以上の成果をみせてくれました。4作の短編が収録されていて、4作通しての仕掛けもありますが、特にインパクトの強かった第1話の「あの子がほしい」と第2話「おさなななななななじみごっこ」を紹介します。
「あの子がほしい」の語り手原田栞には、名前が似ている田原沙織という幼なじみがいました。サオリは美人で文武両道で人望もある完璧超人で、シオリは平凡な女子だったので、シオリはサオリに憎しみと憧れの入り交じった感情を抱いていました。さて、シオリはクラスの秩序を守るために、特異なシステムを構築していました。それは、〈あの子がほしい〉の遊びで犠牲者を決め、その子を一定期間いじめの被害者にするという当番制の仕組みです。

「サオリになりたくて、サオリがほしかった。大好きで大好きで、そして大嫌いだった。ずっと。」

多くの人はこの設定を聞いて、幾原邦彦のアニメ作品『ユリ熊嵐』を連想することでしょう。「あの子がほしい」も、『ユリ熊嵐』に比肩する至高の恋愛物語になっています。ただし、断絶の壁を越えすべてがとけあうというかたちでの恋の成就は、愛し合うふたりからすれば極上のハッピーエンドですが、傍からみればバッドエンドとも解釈できます。
第1話第2話の怪異は主人公に物理的危害を与えず、むしろ利益を与えているようにもみえます。それだけに、怪異が静かに主人公を精神崩壊に追いこむさまが恐怖を誘います。たとえばシオリは、なかなか帰ってこない母親が冷蔵庫の中に入っているのではないかと想像したりします。

お母さんが冷蔵庫の中にいるわけない。そんなに広くない。人間が冷蔵庫に入れるわけない。
ああ、でも、小さくすれば入らないこともない、か。
小さくすれば?
小さくすればって?

この狂気のエスカレートのさせ方がたまりません。
そういう意味では、第2話の「おさなななななななじみごっこ」はより洗練されています。ひ弱な男子のあっくんと、いつもあっくんを守ってくれる幼なじみのリョウちゃんの物語です。リョウちゃんがイマジナリーな友だちであることはタイトルから明らかなので、そこは恐怖の構成要素としてはあまり重要ではありません。
この作品では会話文がカギ括弧でくくられておらず、その代わりフォントを変えることで会話であることを示しています。それも、話者ごとにフォントを変えるという細かい仕掛けがなされています。この仕掛けにより、読者は否応なく文字というものを意識させられるようになります。そして、リョウちゃんの正体が露見しあっくんの語りが狂い出すと、文字も暴走するのです。
あっくんの耳元で、「うぃいいいぃいいいいいんんんんん」という異音がします。当然それもフォントが変えられています。その『ドグラ・マグラ』を思わせる異音をきっかけにあっくんの内言は壊れたレコードのようになり、同じひらがなが無数に繰り返されるようになります。
もはやここでの文字は、物語を語るための道具としての役割を逸脱しています。仙波龍英がその短歌で「ひら仮名は凄じきかな」と指摘しているように、文字そのものの持つ呪力が恐怖を演出しているのです。これがどれだけ恐ろしいものなのか、未読の方はぜひ本を開いて確認してみてください。
この第2話の文字の暴走を参照したうえで第1話に戻ってみましょう。50ページの文字のかたまりをみてください。やはり、思いをこめて手書きで書いたラブレターは、この上なく尊いものですね。

『ねこのポチ』(岩本敏男)

ねこのポチ (PHP創作シリーズ)

ねこのポチ (PHP創作シリーズ)

1986年刊。小学3年生のますみの家は、両親の仲が冷え切っていてギスギスした空気に支配されていました。家のローンで経済的に厳しくなり会社での出世競争にも敗れた父は酒浸りになってしまいます、母は家計を支えるためにパートに出ようとしますが、妹のかすみが精神不安定になって人を噛むようになってしまったため家から離れることができなくなってしまいます。
描かれる不幸があまりにありふれているため、鬱度の高い作品になっています。ますみの周囲の人間も不幸な人間ばかりで、お隣のまゆちゃんの家は父親がおらず母親は夜の仕事をしていて羽振りはいいのに、やがて夜逃げのように引っ越ししてしまいます。不幸な子どもには友達がいないのがデフォルトで、当然のようにますみには学校に友達はいません。ますみが気になっている転校生の男子岡崎くんにも友達はおらず、いつもクラスの乱暴な男子にいじめられています。ますみが岡崎くんのために乏しいお小遣いからクリスマスプレゼントを買ったのに結局渡せなかったというエピソードが、それはもう泣かせます。

いっとくけど、まだポチがくるまえのことよ。わたしんとこ、なんだかおかしくなってたの。
なにがおかしいって、おとうさんとおかあさんよ。けんかをしているわけではないのに、いつのまにか、くちをきかなくなっていたの。

この冒頭の語り出しを呼んだ瞬間に背筋が凍りました。この語りは、『ねむれなくなる本』に収録されている短編「手紙」の主人公、自分の母親を死に至らしめた女の子の語りとまったく同じなのです*1。ますみの語りは、ところどころおそろしい冷たさが感じられます。しかし、それ以上に冷え切っているのはますみをとりまく世界の方です。『真夜中の理科室』の主人公が幻視した、極寒の吹雪の世界で身を寄せ合うサルの家族。あれこそが、岩本敏男の考える現代の姿だったのでしょうか。
孤独で不幸な人は孤独で不幸な人にしか顧みられないのに、そうした人同士が結びつくことは困難です。この作品の登場人物は孤独で分断された個人の連帯に失敗し続けていますが、成功のかすかな可能性はしっとりと描かれています。

*1:「このような語りをするような子は自分の母親を殺すような子なのだ」とはあまりにもひどいいいがかりなので、ますみの名誉のために付け加えておくと、テンションが上がると「めちゃくちゃなジャズダンス」をひとりで踊るというお茶目な一面も彼女は持っています。

『花見べんとう』(二宮由紀子・あおきひろえ)

花見べんとう (わくわくえどうわ)

花見べんとう (わくわくえどうわ)

絵童話で落語を語るという試みの、ひとつの完成形といえる作品です。
白米の詰められた弁当箱に次々と新しいおかずが投入されることの繰り返しが、落語調の語りで展開されます。圧倒的多数派である白米たちが新人たちを勝手な理屈で品定めするギャグで、作品は成り立っています。
油べたべたのからあげがやってきたら迷惑がったり、「アイ・アム・サムライボール」と名乗るのが来たら「外国の お人かいな」「どうしょ わしら、国産米や、えいご ようしゃべらん」と困惑した挙げ句、結局ただのタコやきだということがわかり脱力したりと、大騒ぎ。
白米の中には良識派もいて、自分たちの都合で他のおかずを嫌ってはいけない、「わたしら、みな、同じ この星の なかまやないか」と言い出すものも現れます。となると、多様性称揚のお説教のようになってしまいますが、「わ、わ、こら、また ええこという ごはんつぶが 出てきなはったな」というつっこみでいなされます。こういう斜め上からの冷めた視線も、落語っぽい感じがします。
こんな具合に愉快な仲間が増えてきますが、終盤にさしかかると弁当箱が完成した後の彼らの運命を知っている読者は不安になってきます。そこに、そういううまいオチをつけますか。
絵童話としては一般的な工夫ですが、ひとつのセリフは必ず見開きのなかで完結するようになっています。ページをめくるたびに新しいキャラが出てきたり新しい発見があったりと、読者を飽きさせません。ページをめくると楽しいことが起こるんだという、本に対する根本的な信頼感を醸成できる作品になっています。

『春の旅人』(村山早紀)

春の旅人 (立東舎)

春の旅人 (立東舎)

村山早紀の小品集。星空の下、巨大な亀とともに佇む男を描いたカバーイラストが目を引きます。人気イラストレーターげみの挿絵も多数収められた贅沢な本になっています。
表題作「春の旅人」*1は、51年に1度産卵のために地球に訪れる亀型宇宙生物をめぐる物語です。SFとファンタジーの調和した、村山早紀らしい奇想の光る作品です。
初活字化作品となる「花ゲリラの夜」は、公園やよその家の庭などにこっそり花の種や球根を植える〈花ゲリラ〉の物語。学校生活に悩みを抱えている里奈は、自分ちのアパートに下宿している大学生で〈花ゲリラ〉のさゆりさんに憧れていました。しかしさゆりさんは、里奈の憧れは「自分のなりたい姿」を誰かに重ねているもので「幻の姿」なのだと否定します。善意だけでは生き延びるのが難しいこの世界で気高く生きようとする姿勢がすがすがしく描かれていて、これぞ村山早紀の児童文学といった感じです。
ドロップロップ

ドロップロップ

げみのイラストが最も映えているのが、色とりどりのドロップを題材にした詩のような作品「ドロップロップ」です。ページをめくるたびに、光を意識させる鮮やかな色彩が目に飛び込んできます。毎日違うページを開いて部屋に飾っておきたくなるような愛おしさを持っています。

*1:初出は「日本児童文学」1996年4月号。初出時のタイトルは「春の伝説」。

『マネキンさんがきた』(村中李衣)

マネキンさんがきた

マネキンさんがきた

小学4年生の男子サトシとトオルは、川に流されていたマネキンの頭部を発見します。これを使って担任の先生を驚かすいたずらをたくらみますが、「たたられないように気をつけてね」と言われて怖くなり捨てるに捨てられなくなってしまい、教室でこの首を飼うことにします。
マネキンの頭部というあきらかに不気味なものが学校に持ち込まれる、異様な展開が目を引きます。子どもたちはマネキンに着るものや机や椅子を与え、「マネキンさん」という名前まで与えて、あたかもこの首がクラスの一員であるかのようにふるまいます。あとがきではこの様子を「「異なり」と向き合っていく」と表現しています。ということで、この作品は異質なものとの共生の物語と捉えることができます。
しかし、善意のみで物語は進んでいきません。子どもはかしこいですから、どんなことでもいじめのネタにすることができます。クラスには岡みほこという、いつも服が汚れていて学校ではほとんど話をしない女子がいました。クラス内はみほこはマネキンさんのようだという陰口であふれ、こっそりマネキンさんのことを「みほこ」と呼ぶ男子も出てきます。
このことで先生から怒られたサトシは、「先生は弱いもんの味方ばっかしてずるい」とのたまいます。このようなみもふたもないセリフを描いてしまえるのは、さすが村中李衣です。
クラスでは、おばけをテーマにしたダンスの発表会が行われることになります。クラスの悪意によって、みほこはマネキンさんと一緒に踊る役を押し付けられます。そこから、幻想的な光景により不気味なものが美しく楽しいものに反転していきます。
登場する大人たちは子どもをまっとうに導こうとする姿勢を持っているので、この作品は理想主義的な児童文学として成立しています。それでいながら、なんとも言い難い毒も混入されている得難い作品になっています。
毒といえば、武田美穂のイラストにも触れておく必要があります。一見かわいらしい絵柄の中に強烈な毒を仕込む武田美穂は、この作品にぴったりでした。
村中李衣にとっても武田美穂にとっても新たな代表作となりうる傑作です。ぜひロングセラーになってもらいたいです。

『ある子ども』(ロイス・ローリー)

ある子ども

ある子ども

ディストピア児童文学の伝説的な金字塔『ザ・ギバー』の完結編が、とうとう邦訳されました。原書の第1部は1993年に刊行、完結編第4部は2012年に刊行されています。第3部までの主要な登場人物がみな出演し(二度と顔も見たくなかったあいつも含めて)、舞台も移り変わり、約20年をかけて語られた物語が収束します。
ザ・ギバー―記憶を伝える者 (ユースセレクション)

ザ・ギバー―記憶を伝える者 (ユースセレクション)

物語の発端の舞台は、第1部の舞台だったあのディストピアです。職業やパートナー・子どもまでも委員会に決められ、薬で欲望を抑制される、まったく自由のないあの管理社会で、〈出産母〉という職業に任命されたクレアという少女が、はじめの主人公となります。3年間〈産物〉を生産した後は生涯厳しい労役を課される〈出産母〉は名誉に乏しい職業で、〈イレモノ〉という蔑称さえ与えられていました。生まれた〈産物〉は〈養育センター〉でしばらく育てられてから、委員会の決めた夫婦に配給されます。〈出産母〉は自分の〈産物〉と関係を持ちませんが、なぜかクレアは〈産物〉に執着し、何度も〈養育センター〉に赴きます。その〈養育センター〉の職員の息子はジョナス(掛川恭子訳では「ジョーナス」と表記)。つまり、この〈産物〉は第1部で〈リリース〉されそうになったあの子どもであり、あのジョナスの決断に巻きこまれます。そして、あの運命の日からその後の物語が語り出されます。
物語の構成はシンプルです。それだけに、母と子の物語・善と悪の物語といった普遍的な物語に強度が与えられ、象徴的な悪との戦いの物語に展開していきます。第1部が欲望を消されたディストピアの物語だったのに対し、第4部の悪の化身が人の欲望を増大させる存在であったことは、ちょっと整合性がどうなのかという気はします。が、どちらにしても極端なのはよくないということなのでしょう。
現在形で語られるラストシーンは、よい余韻を残します。完結編の刊行をきっかけに、『ザ・ギバー』の読者がさらに増えてくれれば嬉しいです。