『キミマイ きみの舞 1 お師匠さんは同級生!』(緒川さよ)

キミマイ きみの舞 1 お師匠さんは同級生! (講談社青い鳥文庫)

キミマイ きみの舞 1 お師匠さんは同級生! (講談社青い鳥文庫)

第1回青い鳥文庫小説賞大賞受賞作。このタイミングで青い鳥文庫が公募新人賞を始めると、古参の児童文庫が緑や黄色の新参者に追随しているように受け取られかねません。そうしたプレッシャーのなか、それほど突飛な設定もない児童文学として芯の通った作品に受賞させたことは、老舗としてどっしり構えた姿勢を示したものと思われます。
中学1年生のチャラは中国に転勤する両親についていかず、母親の妹でフリーアナウンサーをしているキョウちゃんとの同居生活を始めます。キョウちゃんの縁で近所にある日舞の教室に通うことになり、同級生の師匠ユッキーの弟子になります。ところがこのユッキーが見た目イケメンなのに本性は乙女男子で、なにかとチャラに甘えて面倒ごとを引きこんでくるようになります。
『キミマイ』とうタイトルが「きみの舞」を意味するというのはミスリードです。このタイトルの真の意味は、「(姉である)きみの妹」です。この作品では姉妹の関係性が重要になっています。チャラの母はまじめ系だったので、チャラはフリーダムな妹のキョウちゃんと外食でハンバーガーを食べるという程度のことで解放感を感じます。ここでの《姉》《妹》とは、長女のプレッシャーでまじめにふるまっている《姉》と、それよりは自由にみえる《妹》という、概念としての《姉》《妹》です。もうひと組、チャラの友だちになる英恵も、《妹》でありながら複雑な家庭環境なので《妹》性と《姉》性に引き裂かれているという問題を抱えています。さらに、ひとりっ子のチャラにも新たに甘ったれな《妹》ができるのです。
そして、こんなにも世の中にはたくさん娯楽が溢れているというのに青い鳥文庫を楽しみにしているような読者も、ここでいうきまじめな《姉》性を持っています。そういった層の読者に、きみも自分のなかの自由な《妹》性を解放してもいいのだと呼びかけているところに、この作品のよさはあります。
キョウちゃんの「面倒くさい」という言葉が、解放のための魔法の呪文です。この作品でもっとも美しい場面は、キョウちゃんのだらしなさに気づいたチャラが「面倒くさい」と言いながらお風呂のカビ取りをするところです。生活するということはこんなにも尊いことなのだということに気づかされます。

『エヴリデイ』(デイヴィッド・レヴィサン)

エヴリデイ (Sunnyside Books)

エヴリデイ (Sunnyside Books)

主人公は精神寄生体のA。Aは物心ついたときから(おそらく生まれたときから)目を覚ますたびに同年代の誰かの体に憑依し、1日だけ体を乗っ取って生活するという日々を送っていました。なんてぶっとんだ設定なんだと思った方は、翻訳家の名前を確認してください。また三辺律子の犯行です。三辺訳の作品だと考えれば、このくらいの設定は通常営業です。
Aは宿主の記憶にアクセスすることができ、そこから得た情報を元にできるだけ宿主の人生に影響を与えないようにおとなしく過ごそうとしていました。しかし、16歳のある日、お世辞にも好感を持てるとは言い難いジャスティンという少年に憑依してからその信念が揺らぎはじめます。Aはジャスティンの彼女のリアノンに本気で恋をしてしまったのです。
寄生体であるAは、人間は肉体に支配されているのだということをよく知っています。重い病気の持ち主に寄生したり、薬物依存者に寄生したりすると、その肉体の影響からは逃れることができません。この設定により、人は他人には理解しがたい多様な困難を抱えているのだということがわかります。精神疾患も気分や性格の問題ではないということをAは知っています。希死念慮を持つ人物に憑依したAがその子を救おうと奔走するエピソードは、1日の物語のなかではもっとも感動的なものになっています。
Aは魂だけのような存在なので、性自認も性指向も超越しています。宿主に恋人がいれば、宿主がシスヘテロであろうがマイノリティであろうが、その恋人を愛することができます。また、自分がどのような姿になってもリアノンを愛することにかわりはありません。このあたりは、多様性を称揚する現代のYAらしい作品のようにみえます。
しかし、この作品はそういった建前だけでは終わりません。「容れ物をみないで。中身を見てほしい」という要求が受け入れられないラインがあるということも描いてしまっています。つまり、性的マイノリティに対する差別よりもルッキズムの方が根深いということです。やはり人類は、テッド・チャンの「顔の美醜について」にある〈カリー〉を受け入れるべきなのでしょうか。
リアノンへの恋の行方が物語の主軸となります。もうひとつ、Aに寄生されたことを悪魔に取り憑かれたのだと思いこんでAの正体を探ろうとする少年との確執も物語のラインとなるので、先を読みたいと思わせる吸引力は高いです。現代的なテーマ・意表をつく斬新な設定・高度な娯楽性、この三拍子そろった作品を多数紹介してくれる三辺律子から目が離せません。

『ある晴れた夏の朝』(小手鞠るい)

ある晴れた夏の朝

ある晴れた夏の朝

当たり前の話ですが、戦争児童文学は読まれなければ意味がありません。著者の思いが先走りすぎた作品は、それがいかに芸術性や文学性の面では高みに達していたとしても、読者の多くを置き去りにしてはなんにもなりません。いかに読者の興味を引くか、広い意味での娯楽性を獲得するかということが重要になってきます。そういう意味では、この作品は一定の成功を収めた実験作といえそうです。
『ある晴れた夏の朝』は、多様なルーツを持ったアメリカの高校生が広島・長崎への原爆投下の是非をめぐって公開ディベートをするという設定になっています。日本人を主人公とせず、またディベートという競技のルールのもとで議論するという距離の置き方は、効果的です。
不謹慎な言い方になってしまうかもしれませんが、この作品でまず特筆すべきことは、ディベートという競技を娯楽性豊かに描いていることです。ディベートをよく知らない読者でも、ターン制のカードバトルのようなものとして読むことができます。相手があのモンスターカードを出してきたらトラップカードを発動して逆に大ダメージを与えてやれとか、そういうノリで戦略性を楽しむことができるのです。もちろん予想がうまくいくとは限りません。原爆肯定派が日本人の残虐さを印象づけるためのカードとしてアメリカ人に同情されやすいバターン死の行進を出してくるだろうと予想し準備していた否定派が、南京虐殺という予想外のカードを出されて動揺するという展開もあります。このような駆け引きの妙が、読者をもてなしています。
登場人物は高校生ながらいっぱしの詭弁家で、議論の都合によって広島・長崎の人々は無辜の人ではない言ったりやはり罪のない犠牲者だと言ったり、巧みに二枚舌を使い分けます。さらに、観衆のなかにヤジ要員を仕込んだりと、狡猾な場外闘争まで繰り広げるのです。そこに正義はあるのかと問うことに意味はありません。観衆を説得した方が勝ちだという競技のルールに従っているだけなのです。
競技のおもしろさだけではなく、知識を得ること、知識の活用の仕方を考えることも、広い意味での娯楽性となっています。そういった高い娯楽性を持ちつつ、多面的な世界の見方を提示しているところが、この作品の成果です。21世紀に発表された日本の戦争児童文学のなかでは、十指に入るレベルの重要な作品です。
ただし、物語の着地点には疑問が残ります。原爆反対派の切り札であった日本語の人称の問題と、肯定派が競技のルールを逸脱し全面降伏するというラストが、釈然としません。作品の意図としては、人称のあいまいさを出自の違いや差別を乗り越え多様な人々をとけあわせるための道具とし、その効果として原爆を肯定する考えは破綻したということにしたいのであろうということは理解できます。しかし、否定派が試合を放棄したことによって、それまで競技のルールのもとで展開されていたはずのディベートが茶番に見えてしまい、作品自体までが茶番とみなされてしまう危惧が持たれます。また、日本語の人称のあいまいさは責任の所在をあいまいにすることにもつながるという大問題を見過ごしていることも気になります。そこは、戦争をはじめとする日本の諸問題を考えるうえで避けて通ることのできないポイントではないでしょうか。

その他今月読んだ児童書

ローズさん (フレーベル館 文学の森)

ローズさん (フレーベル館 文学の森)

デビュー作『赤いペン』の姉妹編。例の文学館の面々が、総合学習で町に伝わる「ローズさん」のと都市伝説を調査することになった中学生の手助けをします。調査を進めるうちに、かつて実在した女性「ローズさん」の人生が明らかになり、それが虚構化される過程も浮かび上がってきます。自由研究の楽しさを味わわせてくれるとともに、物語というものの罪深さというテーマにも踏みこんでいきます。
しかし、この青いカバーのさわやかなこと。おそらく、前作のカバーは怖いとさんざんいわれたので、路線変更したのでしょう。
赤いペン (文学の森)

赤いペン (文学の森)

兄ちゃんは戦国武将! (くもんの児童文学)

兄ちゃんは戦国武将! (くもんの児童文学)

国王の家族の側から『サクラクエスト』の物語を紡げば、このような話になるかもしれません。大学を中退して家出した兄が仙台市をPRするおもてなし隊の「伊達政宗」とやらになってしまったので、弟がそれを連れ戻そうとする話です。自分だけの兄がみんなの「伊達政宗」になってしまったことに屈託を覚える弟がほほえましいです。
サブキャラたちの日本昔話

サブキャラたちの日本昔話

「浦島太郎」「桃太郎」「金太郎」の昔話を、それぞれカメ・イヌ・クマの視点から語り直した本です。語り手は前書きで、昔話の疑問点をいろいろ指摘します。たとえば、浦島のカメは雄だったのか雌だったのかというようなどうでもよさそうなことから出発し、読者を困惑させます。しかしくねくねと屁理屈をこねるうちに、いつの間にか読者を説得してしまいます。この斉藤洋独特の屁理屈芸は、すでに名人芸の域に達しています。若者を不健全文学の沼に沈める罪深い叢書「文豪ノ怪談 ジュニア・セレクション」の第2期がスタート。第1弾のテーマは「影」ということで、ドッペルからの死という鉄板コースの怪談が盛りだくさん。

『ウシクルナ!』(陣崎草子)

ウシクルナ! (飛ぶ教室の本)

ウシクルナ! (飛ぶ教室の本)

小学4年生の四葉四郎は、不幸にあえいでいました。家は貧しく母親は家出し、クリスマスにサンタクロースもやってこないという状況。ところが、クリスマスも過ぎ正月がやってこようというころにサンタクローウシが現れ、名状しがたい海産物をプレゼントしてくれました。関西弁を操るそのウシは、そのまま家に居座ってしまいます。さらに、幼なじみの金持ちお嬢様栃乙女レラミがバズーカで玄関のドアを破壊し、かわりに重たくて開けるのがたいへんな超合金のドアを取り付けてくれるという迷惑行為をやらかしてくれます。なにをいっているのかわからないと思いますが、実際そういう話なのだから仕方ありません。
ウザいくらいに存在感のあるウシがごろごろのたのたどたばたしているだけでもおもしろいのに、そのうえ細部のギャグセンスも光っています。四郎がクリスマスプレゼントにほしがっていたのは「電子深海魚戦隊・ダイオウイカライダー」の変身ベルトで、ベルトが昆布型で中央にはイカの目玉がありその周囲に10本のイカ足が配置されているという代物。ウシはそのおもちゃではなく、ナマモノのイカと昆布を使った本物をプレゼントしてくれます。その戦隊ヒーロー、めっちゃみてみたいし、ウシのくれたモノホンのベルトも拝んでみたいですよね。
四郎がバンドを結成して成り上がるというメインのストーリーラインだけ取り出せば、それほど斬新な作品であるとはいえません。しかしそれは、マネージャー役のお嬢様に「世間を感動させるストーリー」「どん底からはいあがろうとする人を、人は応援したくなるものなの」と、一旦茶化されます。そして、ウシの突進力とお嬢様のマネーパワーと独特のセンスで読者は物語の荒波に飲み込まれ、あれよあれよといううちにベタな物語を受け入れてしまいます。物語自体はありふれたものでも、その料理法は斬新です。
本の作りも凝っています。カバーイラストの吸引力は、今年刊行された児童文学のなかでもトップレベルでしょう。帯には著者の母親(特に有名人というわけではないはず、多分)がコメントを寄せており、しかもそのコメントが「愛と勇気と笑いと努力の物語やな! 知らんけど」という人を食ったもので、遊び心にあふれています。表紙は乳牛のまだら模様になっていて、これまたかわいらしいです。読者をもてなし楽しませようとする姿勢が細部にまで徹底しているのが好ましいです。

『ふたりはとっても本がすき!』(如月かずさ)

ふたりはとっても本がすき! (おはなしだいすき)

ふたりはとっても本がすき! (おはなしだいすき)

チーターのチッタちゃんとカバのヒッポくんは、どちらもたいへんな読書家でした。ただし読書のスタイルは異なり、チッタちゃんは速読して量をこなすタイプ、ヒッポくんは1冊の本を時間をかけてじっくり読むタイプ。ある日ヒッポくんと読んだ本の感想を話していたチッタちゃんは、ヒッポくんは本の内容をよく覚えていて具体的に感想が言えるのに自分はほとんど内容を覚えていなかったという現実を思い知らされ、逃げ出してしまいます。
わたしもチッタちゃんと同じく、読んですぐ忘れるタイプなので、身につまされるものがありました。チッタちゃんはヒッポくんのまねをしてゆっくり本を読もうとしますが、うまくいかず迷走します。
その後、夏休みの課題で読書感想文を書かされることになり、チッタちゃんもヒッポくんも感想文が苦手だったことがわかります。そして、お互いがお互いの読書スタイルを尊敬しあっていたことも明らかになり、ふたりが無二の読書ともだちになるであろうことをにおわせて物語は幕を閉じます。落としどころとしては妥当なところでしょう。読書のスタイルに優劣はなく、それぞれ好きなように楽しめばよいのです。
基本的に読書はひとりでするものですが。友だちがいれば別の楽しみ方もできます。チッタちゃんは自分が全然覚えていなかった本を読み直して、ヒッポくんの読みを追体験しようとします。好きな人の見ている風景を見ようとするのも、読書の楽しみ方のひとつです。読むことの楽しさを見直させてくれるのが、この作品の美点です。
ただし、ひとつだけ目を背けておいたほうがよさそうな件があります。世の中には、信じられないくらいたくさん本を読んでいて、なおかつ内容をきちんと覚えていて深く理解している人がいくらでもいるんですよね。自分が本の内容を覚えられないのは読むのが早いせいではなく、単に自分に記憶力・理解力がないせいなのではないか……ということは考えないようにしておきましょう。

『わたしが少女型ロボットだったころ』(石川宏千花)

結婚歴なし子持ち45歳と独身33歳が、ろくな将来設計もなくぐだぐだ関係を続けているダメダメな社会人百合。こういうのが平然と児童文学で描かれる時代になりました。時代はよい方向に進歩しています。
中学校卒業間近の多鶴は、朝食のオムレツに箸を入れた瞬間、自分が人間ではなく少女型ロボットであったことを思い出します。であるなら自分には食事は必要ないと、母親に訴えます。母親はかなり年下の彼女の〈いっちゃんさん〉に「多鶴がわけわかんないこと言ってる」と話しかけ、多鶴はもう自分と母親だけの秘密は存在しないのだと悟ります。多鶴はものを食べられなくなり、だんだんやせ衰えていきます。
常識的に考えれば、多鶴の症状はありふれた摂食障害です。しかし多鶴は、自分が少女型ロボットであることを母親が認め適切な操作をすれば問題はないはずだと信じています。
世界は適切にコントロールされているはずだという信念は、幼児的全能感の裏返しでもあります。そのゆがみに混乱させられる思春期の危機を描くための設定として、〈少女型ロボット〉というアイディアは秀逸です。
結末をあのようなかたちにしたことには、冒険心を感じます。ただし、女子を救うのは結局人気のある男子との恋愛であるとしているかのようなところには、女子に無用の呪いをかけているのではないかとの懸念が持たれます。