『放課後のジュラシック 赤い爪の秘密』(森晶麿)

放課後のジュラシック 赤い爪の秘密 (PHPジュニアノベル)

放課後のジュラシック 赤い爪の秘密 (PHPジュニアノベル)

2018年にひっそりと創刊された児童文庫レーベル〈PHPジュニアノベル〉に、ミステリ作家森晶麿によるユニークな冒険ミステリがありました。
ミステリでまず大事なのは、魅力的な謎の提示です。この作品では、昼寝から起きたばかりの竜のような奇妙な形をした臥龍梅と呼ばれる木の根元に真っ赤なつけ爪とハイヒールが放置されているという鮮烈なイメージを与える謎が読者を引きつけてくれます。
主人公の小5女子樹羅野白亜は、恐竜が大嫌い。古今東西のあらゆる恐竜映画を見尽くしていて、あの『REX 恐竜物語』についてすら熱く語ることができるのに、あくまで恐竜は嫌いです。退屈な日常に倦んでいた彼女は、臥龍梅の事件をきっかけにこの世界には人間に擬態した恐竜が無数に生き残っているということを知ってしまいます。退屈な日常はあっけなく崩壊し、危険な恐竜から逃げ回りながら謎を追うことになります。
現代に生き残った恐竜の設定が興味深いです。恐竜たちは、人間の出す図鑑を見て元の姿を思い出し、自分の姿をそれに近づけようとしています。つまり、恐竜の姿に関わる学説が変われば、現存する恐竜の姿も変わってしまうのです。しかも、古い学説の姿の方が理想的だと思えば新説をしりぞけそっちの姿を採用できるという都合のよさも持っています。人類の知的好奇心とイマジネーションのいかんともしがたさに恐竜が巻き込まれてしまうという構図がひねくれていておもしろいです。
自分勝手で頭がよく他人を利用することに躊躇しない主人公のキャラクターも強烈です。なぜか白亜の家に居候している探偵や白亜に片思いしている「糞に触る系男子」など、脇役も曲者揃いです。
田中寛崇のイラストにも魅力があります。本をめくると目次のページにはカバーイラストの人物だけをシルエットにしたイラストが改めて配置されています。この演出は憎いです。作中のイラストでもっとも怖いのは、異形の怪物が描かれているものではありません。最も重要な謎である臥龍梅とハイヒールのイラストです。風景で恐怖感を煽る技術力にうならされます。
多くのポテンシャルを秘めている作品なので、ぜひシリーズ化してもらって、〈PHPジュニアノベル〉を盛りあげる柱になってもらいたいです。

『ポーン・ロボット』(森川成美)

ポーン・ロボット

ポーン・ロボット

森川成美による上質の娯楽ジュヴナイルSFが登場。田中達之のイラストもかっこよくて、謎めいた雰囲気の良作になっています。
この作品、まず序盤の異常状況の畳み掛けがすごいです。主人公の千明は6月の夕方、ジョギング中に奇妙なランナーを目撃します。全身黒ずくめのタイツ姿で、何より変なのはそのランニングフォーム。上半身はまったく動かさず下半身だけで走っていて、まるで人の形をしたダチョウが走っているような姿でした。次の場面は夏休みの初日。千明は青い髪の人間離れした美少女が時計店で万引きをしようとしているところに出くわします。千明が万引きをやめさせようと念じると、なぜか少女の動きが止まります。念じ続けているうちに千明は意識を失い、家に帰るとなんと家がまるごと消失していて、完全に千明の日常は失われます。ほんの30ページほどで、読者は作品の異常な世界に引きこまれてしまいます。
そして物語は、ロボットテーマのSFに発展していきます。争いごとは起こしたいけど自分の手は汚したくないという人間の欲望とロボットというテクノロジーが結びついたときにどのような問題が起こるのか。興味深いテーマが扱われています。
深刻なテーマは内包しつつ異世界の住人と友情を結んで世界の危機に立ち向かうという流れは、大長編ドラえもんの構造と同様です。つまりこの作品は、われわれの感性にもっともマッチしている極上の娯楽SFだということになります。
出版社のサイトでは、SF界の大御所である新井素子の解説(もちろんあの文体!)が読めます。こちらも必読です。
http://kaiseiweb.kaiseisha.co.jp/a/review/rev1902/

『野生のロボット』(ピーター・ブラウン/作・絵)

野生のロボット (世界傑作童話シリーズ)

野生のロボット (世界傑作童話シリーズ)

無人島に漂着したロボットが島の動物たちから学びながら生き延びるすべを獲得していくSF童話です。
ラッコが偶然起動ボタンを押したために目覚めたロボットのロズは、はじめは正体不明の異物として動物たちから警戒されます。ロズはナナフシの擬態を見て学習し、体中に泥を塗って木の葉やコケでおおい、「歩くしげみ」に擬態します。とりあえず身の安全は確保されたので、ロズはさらに動物たちの行動を観察して学習を続けます。やがてロズは、孤児となったガンの赤ちゃんを拾います。その母親役を引き受けることによって、だんだん動物たちのなかにとけこんでいきます。
ヒトのいない無人島が舞台なので、作品世界にはある種のポスト・アポカリプスSFの持つような奇妙な優しさが漂っています。ロズが知りあう動物たちは、擬態が得意だったり工作が得意だったり、さまざまな特技と知性を持っています。ロズはヒトの知恵も持っていますが、さまざまな動物たちの持つ知性の前では、それはただ火の扱いが多少得意だという程度のものに相対化されます。ヒトを特別視しない世界のあり方が心地いいです。
ロズがだんだん動物たちと親しくなり、赤ちゃんも大きくなっていって、最後に危機が訪れドッタンバッタン大騒ぎになるという物語の流れも、起伏に富んでいて熱いです。続編が出ているようなので、ぜひこっちも邦訳を出してもらいたいです。
The Wild Robot Escapes (English Edition)

The Wild Robot Escapes (English Edition)

『つくられた心』(佐藤まどか)

つくられた心 (teens’best selection)

つくられた心 (teens’best selection)

「監視カメラや盗聴器、スパイではありません。あくまでも〈防犯カメラ〉、〈防犯用集音マイク〉、〈見守り係〉ですので、お間違えのないように」(p6)

政府の主導する「理想教育モデル校」が舞台となるディストピアSF。その学校では監視カメラや盗聴器で生徒のすべてを監視し、ガードロイドと呼ばれる監視用アンドロイドを生徒にまぎれこませて、安心して学校に通える仕組みが整備していました。生徒がガードロイドを探ることは禁止されていましたが、この場合禁止はどんどんやれと同義です。新入生たちは喜々としてガードロイドの正体暴きの探偵ごっこをはじめます。
人のプライバシーを暴くことは人類にとって至高の娯楽、しかもそれは差別していい相手を暴く正義の活動なのですから、そりゃ楽しいに決まっています。いかにもロボットっぽいやつが怪しいとか、いや逆にそういうやつは怪しくないとか、ガードロイドの家族役は演技ができる人がやっているはずだから親が演劇関係者のやつが怪しいとか、愉快な推理合戦が繰り広げられます。ゲスですばらしい相互監視ディストピア。ということで、こういう設定の話はわたしの大好物のはずなのですが、よくわからないところがあったので以下に疑問点を書いていきます。作品の結末に触れているので未読の方はご了承お願いします。







この作品、あまりにも説明不足で作中のロジックがどのようにつながっているのかがわかりにくいです。疑心暗鬼による相互監視が克服され学校の雰囲気がよくなっている理由がよくわかりません。それが政府の意図通りなのかそうでないのかも判然としません。
監視社会・ロボットの心や人権問題・ロボットによる人類の支配とさまざまな論点が提出されますが、それぞれの論点のつながりもわかりにくいです。作品の最後はロボットが支配する社会への警鐘を鳴らして終わります。これの唐突感が否めません。監視社会は現実と地続きの社会問題ですが、ロボットによる支配に至るまでには何段階か飛躍があります。作品の終盤にあるようにロボットに心があると認めるのであればべつに問題はないはずですし、それを問題にするのであればガードロイドがすでに人類の思惑を超えてなにかをしたというエピソードを気持ち悪く描かなければならないはずです。飛躍はきちんと埋められているのでしょうか。
読者にさまざまなことを考えさせたいという意図はあるのでしょうから、ガードロイドの正体など多少ぼかしているところがあっても欠陥にはなりません*1。ただし、作中の論点や論理展開の整理が粗雑だったのだとすれば、それは読者をいたずらに混乱させるだけです。そのあたりが成功しているのかどうかわたしにはよく読み取れなかったので、きちんと読めている方に解説していただきたいです。

*1:ガードロイドが誰なのかということについては、最終盤にあのような情報を出したことから、あいつを疑えと誘導しているのであろうということは予想できます。

『ねこの小児科医ローベルト』(木地雅映子/作 五十嵐大介/絵)

ねこの小児科医ローベルト

ねこの小児科医ローベルト

木地雅映子の新刊は、『夢界拾遺物語』以来約4年ぶり。五十嵐大介と組んだこの作品は、読者のメンタルを確実にえぐってくるいままでの木地作品とはだいぶ印象の異なるものになっていました。
ユキのおとうとのユウくんが夜中に突然嘔吐し、両親が救急車を呼ぶかどうか悩んでおろおろしていたところ、電話帳に奇跡のように「夜間専門小児科医 松田ローベルト(個人)」という番号が光りました。電話をかけてみると、ふつうサイズの四分の一くらいの大きさのへんてこりんなバイクに乗ったねこのおいしゃさんが往診に来てくれました。
ねこのおいしゃさんは優しくて頼もしい物腰ですが、患者とその家族の不安を解消するためにはなにより理屈での説得を大事にしています。そのあたりは、情より理で世界にアプローチする木地雅映子らしいです。摂取した水分が吐く量を上回っていれば十分水分を補給できるのだから、嘔吐を繰り返したとしても水分をとらせることを怖がってはいけないと、当たり前だけど慌てているときには理解しにくいことを冷静に説いてくれます。ただし、物資や衛生環境に恵まれている日本ではそれぼど危険性のないウィルスであっても、そうでない国では多くの人の命を奪っているということにも踏み込みます。
夜中に子どもが病気になったらどうしていいかわからないという不安に寄り添う、どちらかといえば大人向けのファンタジーであるともいえます。ただし視点人物は子どもであり、弟の病気が治ったあとは子どもたちとねこの関係性を中心にしたメルヘンになります。
なぜかその後ユキ以外は松田先生に関する記憶を失い、ローベルトは昔からうちで飼ってたねこであると家族の記憶が改変されます。この後の展開が短いながら濃密。愛おしく忘れがたい奇跡が描かれた良質な童話になっています。

『がんばれ給食委員長』(中松まるは)

くじ引きでいやいや給食委員長を引き受けさせられてしまった小学5年生の本木ゆうなは、栄養士の先生がトイレで泣いているところを偶然目撃してしまいます。はじめは給食の調理員のおばさんにいじめられているのではないかと疑っていましたが、栄養士に話を聞いてみるともっと深刻な悩みが明らかになります。ゆうなは栄養士の悩みを解決するため他の給食委員を巻きこんで給食の残菜を減らす活動を始めようとしますが、なかなかうまくいきません。
栄養士の悩みは、学校現場に能力給が導入され教職員がランク付けされることで職場環境が悪化しているというものでした。栄養士の場合残菜の量が成果として評価され、成果を出せなければひとりで複数の学校を掛け持ちさせられるという懲罰人事を受けたり、最悪の場合給食の民間委託の口実にされたりすることを心配していました。中松まるは大阪在住の作家です。教育破壊の最前線のひとつである大阪からの報告は、重く受け止めなければなりません。
とはいえ、政治の貧困は大人の責任で、子どもにその尻ぬぐいをさせようというのは筋違いです。作品はそのラインを守り、あくまで子どもにできる範囲での問題解決のための活動を楽しく描いています。スマートフォンの扱いがうまい子が「小学生のすきな給食メニューランキング」を検索したり、料理人の息子が自分がメニューとレシピを考えると名乗りを上げたりして、無能な大人を指導してやろうと盛り上がり、ハンバーグカレーとかラーメン・チャーハン・唐揚げのセットとか、人気の出そうなメニューを提案していきます。もちろん栄養バランスに配慮しなければならない給食でそんなものを出せるはずがありません。現実の壁を知ってから、さらにわいわいと試行錯誤が続きます。
社会問題を鋭く見据え、現実的な方法で変革の道筋を探っている作品です。つまり中松まるはは、少年文学宣言・古田足日直系の社会派児童文学の書き手であるといえます。それでいながら、娯楽性の面で現代的にアップデートされているのが、中松作品の長所です。特にテクノロジーの進歩を肯定的に捉え、子どもたちとテクノロジーの楽しいつきあい方を描いているのは、他の作家ではなかなか見られない特色になっています。それが顕著なのは、『すすめ!ロボットボーイ』『ロボット魔法部はじめます』といったロボット制作をテーマとした作品群です。『がんばれ給食委員長』では、情報機器の使い方にひとつの焦点が当てられています。インターネットで食の情報を検索すると、牛乳有害論のような悪質なトンデモに遭遇する危険性もあります。しかし、適切な調べ方をすれば有益な情報を得られると、肯定的な面を強調しています。
中松まるはは、伝統的な手法を堅実に守りつつ現代的なエンターテインメントを実現している作家です。そのようにみれば、もっと評価されてもいい作家だと思うのですが。

『少女は森からやってきた』(小手鞠るい)

読書好きの小学6年生の美幸が、ニューヨーク州ウッドストックの森からやってきた転校生エリカと仲良くなる話です。あらすじの紹介に、これ以上の言葉を付け加える必要はありません。
この作品は三層の語りによって成り立っています。プロローグとエピローグは、大人になり学校司書になった美幸が語り手となります。美幸が学校図書館でかつての自分とエリカのような少女を見かけたことをきっかけに、過去の物語が始められます。ふたつめは、6年生の美幸による語りです。そしてもうひとつは、エリカから童話を書くようにとプレゼントされたノートに美幸が書いた、かたつむりとこじかの友情の物語です。
子ども時代の美幸の語りは、朴訥としていて率直なものです。その言葉の宛先は、エリカにのみ向いています。
大人の美幸の語りは、「世界中の子どもたちへ」と向けられています。この宛先はあまりにも抽象的で、本当に合っているのかどうか怪しく思えてしまいます。大人の美幸はまず、学校図書館であった少女をエリカそのものであると混同しているかのように語り始めます。このため、読者はエリカは実在する女の子ではなくイマジナリーな妖精のたぐいではないかという疑いを持ちながら読み進めることになります。大人の美幸の語りは大人にしては地に足のついていないものに感じられます。
この浮遊感のある三層の語りにより、ふたりの物語は純化されます。結果、ただひたすら情感に訴えかける作品となっており、破壊力が高いです。