『どこまでも亀』(ジョン・グリーン)

どこまでも亀 (STAMP BOOKS)

どこまでも亀 (STAMP BOOKS)

謎めいたタイトルが目を引きます。ここでの亀は平面世界を支える巨大な亀のことです。亀の下には亀がいて、その下にも亀がいて、どこまでも亀が続いていきます。
では、亀とはなんかのか。児童文学の見地からこの問題に答えを出すのならば、亀をもっとも愛した偉大な作家ミヒャエル・エンデを参照すべきでしょう。エンデによれば、「カメというものは歩く頭蓋」*1です。それならばこの物語は、そして世界のすべては、頭蓋骨の中の楽園であるということになります。
闇の考古学―画家エトガー・エンデを語る

闇の考古学―画家エトガー・エンデを語る

アメリカの人気YA作家ジョン・グリーンの邦訳最新作。詐欺や収賄の疑いをかけられたある大富豪が失踪。彼には10万ドルもの懸賞金がかけられます。16歳のアーザはたまたま大富豪の息子のデイヴィスと知りあいだったため、親友のデイジーにデイヴィスと接触して大富豪の行方の手がかりを探るようにけしかけられます。
人気作家だけあって、設定・キャラクター造形・ストーリー運びのうまさは安定しています。デイジーは頭の回転が速く行動力もある、アーザの最高の相棒です。彼女の趣味はスター・ウォーズのファンフィクション(チューバッカとレイが恋人になるやつ)を書くこと。スター・ウォーズの話題のときになぜ過去形で語るのかと問われると「なぜなら、これたはすべて『遠い昔、はるか彼方の銀河系で』起こったことだからだよ、ホームジースター・ウォーズについて話すとき、人はみな過去形で話す。当たり前じゃん」と答えるタイプのめんどくさいオタクです。デイヴィスも文学通で家族思いの好青年で、アーザの恋人候補になります。
主要登場人物は好感度の高い子ばかりですが、なかでも注目すべきなのははやはり主人公のアーザです。デイジーによると「主要な恐怖症のほとんどをカバーしている」ということで、専門医にかかり抗鬱剤も服用しています。いつも細菌や寄生虫のことを考えていて、キスをすると相手のバクテリアが自分の身体を作りかえてしまうと恐れています。

わたしは思う。この痛みは永遠に消えない。
わたしは思う。自分の考えを選ぶのは自分じゃない。
わたしは思う。死にかけている。体のなかにいる虫が皮膚を食い破って出てくる。
わたしは思う、思う、思う。
(p99)

また、自分の存在にも不安を持っていて、物語の1行目にして「自分はフィクションかもしれない」と気づいてしまいます。

「わたしには何ひとつ決められない。外の力がそれを決める。わたしは、外の力が語る物語なんです。わたしは自分が決定できない要素で構成されている存在なんです」
(p173-174)

アーザは異常なのでしょうか。作品はアーザのぐるぐるめぐる思考を克明に追っていきます。読者はそれに引きずられ、むしろ世界に不安を持たない「普通」の側の方がおかしいのではないかと思わされるようになります。

*1:「かりに頭蓋が自立して、世界を歩きまわれるようになれば、それがカメなのです。(中略)そしておもしろいことに、すべての神秘的な流派において、頭蓋と星空にはつながりがあります。人間において頭蓋であるもの、つまりミクロコスモスにおいて頭蓋であるもの、それがじっさいマクロコスモスにおいては宇宙であり、星空なのです。そしてその星空をカメはこの世で、より小さなミクロコスモスとして背負って歩き、その代理人となっているのです。」丘沢静也訳『闇の考古学』(1988・岩波書店)より

『ぼくがゆびをぱちんとならして、きみがおとなになるまえの詩集』(斉藤倫)

カップめんにお湯を入れていたりレトルトカレーをお湯に沈めていたり、必ず「ぼく」がものを食べようとするタイミングに「きみ」はやってきます。そして、「ぼく」と詩や言葉をめぐる対話をして帰って行きます。
作品の雰囲気の懐かしさは、00年前後の理論社YAの空気を思い出させることによるのでしょう。いしいしんじの『ぶらんこ乗り』や可能涼介の『はじまりのことば』のような、幼年性や少年性を装ってことばや世界についてふわっと考察を深めていくようなタイプの作品群と同じようなにおいが感じられます。小学校高学年や中学生のちょっと知的に背伸びしてみたいという欲求に応える作品はいつの時代も必要ですから、この作品の登場は歓迎したいです。
「ぼく」は、さまざまな名詩を紹介しながらその楽しみ方をことばで解きほぐしていきます。詩に苦手意識を持っている人はとにかく詩はわけのわからないものだという先入観を持っているものなので、こうやって理詰めで解説するアプローチは効果がありそうです。
そして作品は、言葉と文学をめぐる人間の切実な願いに踏みこんでいきます。

「でも、ひとが、もじをつくったのも、こころや、できごとを、のこそうとしたからなんだ。そのおもいが、じぶんといっしょに、ほろびてしまわないように」(p49)

作中の人間関係については明確な説明はなされていませんが、「ぼく」の親友が「きみのおとうさん」であり、「きみのおとうさん」は早世の詩人であったという設定になっています。大人の読者であればここで、著者の斉藤倫と親交のあった笹井宏之のことを思い出すのではないでしょうか。そういった予断を持って読むと、最後に「えいえん」ということばがひらがなで祈りのように記述されていることが、なにかのオマージュなのではないかと思われます。ゆびをぱちんとならしているあいだに「きみ」は成長し「ぼく」は年老いて死に、やがて「きみ」も死んでしまう、そんなはかない人生にどんな意味を見出せばいいのかという難問。

えーえんとくちから (ちくま文庫)

えーえんとくちから (ちくま文庫)

もちろんこうした読みは、背景の知識を持たない本来の読者には無関係です。でも、はっきりとは語られない作中の人間関係に想像力を及ぼし、なにかを感じ取ることはあるのではないでしょうか。

『海のコウモリ』(山下明生)

海のコウモリ

海のコウモリ

朝鮮戦争の時代、人の鼻を噛んで殺す〈ハナクイ〉という連続殺人鬼の噂で持ちきりになっている瀬戸内海の島を舞台にした物語です。
主人公の9歳の少年は、〈ハナクイ〉に襲われたと思いこんで逃げているうちに竹のクイに鼻をしたたかぶつけて気絶してしまいます。そこを、聾唖者で島のはぐれ者のヒデヤスに助けられます。ところが、そのことを仲間に話してからからかわれているうちに、こともあろうに〈ハナクイ〉の正体はヒデヤスではないかという疑惑を口にしてしまいます。子どもたちは調子に乗って〈ハナクイ〉退治を計画。それは、伝馬船でヒデヤスのいる洞窟に行って石を投げ、ヒデヤスが出てきたら棒で殴って半殺しにして投げ縄で生け捕りにしようという、残忍きわまりないものでした。
ストーリーを要約すると、「少年が被差別者に冤罪を押し付けた挙げ句リンチまでして、最終的に被差別者は……」という、まったく救いのないものになっています。
〈ハナクイ〉の正体は最後まで明らかになりません。物語の冒頭では、島に伝わる鬼やテングやエンコ(かっぱ)やコートリ(子どもさらい)といった化け物について言及されています。また、〈ハナクイ〉の犯罪のうち女性が被害者になっているものは、米兵による犯罪なのではないかと予想する人物も登場します。そして、子どもの心のなかにも悪は存在します。空想上の化け物も正体不明の殺人鬼も現実に存在する様々な悪も物語の中でとけあって、この世には悪が偏在しているという漠とした不安なイメージが残ります。
島の子どもたちの遊びや島の情景は情緒的に描かれている一方で、子ども間のシビアな力関係などはリアルに描かれています。宇野亜喜良の耽美的なイラストも作品世界を彩っています。情緒面で捉えても現実的に捉えても、どちらにしても濃密な印象を残す作品になっています。

『オーガイおじさんの馬がいく』『ヘルンさんの茶色のかばん』(新冬二)

オーガイおじさんの馬がいく―ぼくの東京ミステリー (PHP創作シリーズ)

オーガイおじさんの馬がいく―ぼくの東京ミステリー (PHP創作シリーズ)

埼玉の団地から谷中のマンションに引っ越してきた小5の少年スギモトキヨシが文豪の亡霊と出会う「ぼくの東京ミステリー」シリーズの第1巻。
キヨシ少年が引っ越してきたマンションは、窓から墓場が見えるというロマンチックなロケーションでした。花冷えの夜に窓から墓場の桜を優雅に眺めていると、咳払いの音が聞こえてきます。気になって外に出ると、1メートルほどの木の柄がついたシャベルのようなものを洗っている不審なおじさんに出会いました、それがモリオーガイおじさんでした。それからキヨシ少年はオーガイおじさんと何度も会って、乗っている馬の馬糞の始末をさせられたり、そのお礼にセイヨウケンでごはんをおごってもらったりします。
変な棒で馬糞を片付けようとするオーガイおじさんに、キヨシがちいさいシャベルを使ったほうがいいと提案すると、即座に「それはちがう」と否定。「やっぱりわたしには、きちんとしたスタイルが必要だ」と、謎のこだわりをみせます。
オーガイおじさんは特に怨念があって化けて出ているわけではなく、かといって少年にありがたいお説教をしてくれるわけでもありません。ただ馬に乗って散歩するだけで、その痕跡は馬糞のみ。死者や過去とのゆるいつながりを感じされてくれる、とても心地よい作品世界になっています。2巻のゲストはヘルンさん、すなわち小泉八雲です。墓場で忍者のような格好の男がヘルンさんのかばんを盗んでいくという、1巻に比べると派手な事件から物語は始まります。ヘルンさんのかばんを取り戻したキヨシの周辺には、怪談めいた出来事が起こるようになり、着物姿の女性から三遊亭圓朝の墓のある全生庵で開かれる琵琶の演奏会に誘われるという、どう考えても逃げた方がよさそうな事態に陥ります。
小泉八雲がゲストなので、1巻よりも作品世界の空気に不穏さが増し、谷中は魔境めいた魅力を見せてくれます。

「わたしには、わたしの時間があるのです」(中略)
「じかん*1には、場所がついているのです。場所のないじかんは、じかんではありません」(中略)
「そうです。かぎられた場所にしか、わたしの時間はない、つまりかぎられた場所にしかわたしはいられない……」

*1:ひらがな表記の「じかん」には傍点がついている

『長浜高校水族館部!』(令丈ヒロ子)

長浜高校水族館部!

長浜高校水族館部!

高校生が水族館を運営している愛媛県立長浜高校の水族館部をモデルにした理系青春小説です。のちに部長になる井波あきらの視点で、入部から2年目12月のクリスマスイベントまでの約2年間の出来事が語られます。
理系の学問の魅力をわかりやすく描いているところが、この作品の一番の美点です。たとえば、部員がハタゴイソギンチャクの刺胞射出について語り合う場面。カクレクマノミだけが毒針に刺されない理由を論理的に推論して検証していくさまを実に楽しそうに描いています。想定読者層には聞き慣れないような専門用語は使われていますが、論理の筋道が簡潔に平易に語られているので、おおざっぱな理解は得られそうです。こういう記述の的確なところ、令丈ヒロ子は非常に理知的な作家であると感じさせてくれます。
楽しさだけでなく、厳しい面も描かれています。研究がうまく進まない理由が部員の能力不足でも努力不足でもなく、実験にかかる費用が高いからであるというのは、いかんともしがたいです。活動がうまくいかないと人間関係もこじれてきて、さまざまな問題が起こります。
そこで活躍するのが、主人公の井波あきらです。気配り上手なお父さん系男子、このタイプの男子の魅力を輝かせることができるのも、令丈作品ならではの特色です。
約2年間の物語なので、欲をいえば青い鳥文庫で5,6巻分くらいの分量はほしいところです。が、この作品はプロローグで2年目12月時点のあきらがいままでの出来事を振り返る形式にしているのが巧妙です。振り返ってみれば高校生活のあれやこれやもあっという間のことのように感じられますから、この圧縮度がかえって感傷と感動を高める結果になっています。

『おばあちゃん、わたしを忘れてもいいよ』(緒川さよ)

おばあちゃん、わたしを忘れてもいいよ (朝日小学生新聞の人気連載)

おばあちゃん、わたしを忘れてもいいよ (朝日小学生新聞の人気連載)

朝日学生新聞社児童文学賞第9回受賞作。2018年10月から12月まで朝日小学生新聞で『おばあちゃん、わたしのこと忘れないで』というタイトルで連載されていたものが、改題されて単行本になりました。
小学5年生の辰子の家は、長唄の家元の家系。本来は父の幸輔が家元を継いでいるはずですが、先代家元の祖父が亡くなったとき父はまだ学生だったため当時の一番弟子が一代限りのリリーフの約束で家元になり、ずっとそのままになっています。一家の目下の悩みは、祖母のナヲさんが認知症になったらしいこと。言葉遣いが優しくどこか浮世離れした父(「キミマイ」のユッキーがそのまま大人になった感じ)は頼りなく、出版社で働いている母の理子が仕事を辞めて面倒をみるという案にも「理子ちゃんが仕事辞めちゃったら、困るよぉ。不安だよぉ」と泣きついて問題は先送りになってしまいます。
認知症は最近の児童文学では流行の素材なので、他の作品とどう差別化するかということが問題になってきます。歌舞伎の台詞のかけあいをすることでもとのしっかりした祖母に戻るという設定により、変身ヒーローもののような物語に仕立て上げているのがこの作品の特色になっています。さまざまな問題を長い人生で積み重ねた知識と行動力で解決していく祖母の活躍は爽快です。どこか懐かしさを感じさせるイラストも相まって、ギャグと人情と悲哀の配分がよい往年のユーモア児童文学のような読み味を楽しめます。それでいて、家元継承問題の落としどころには現代性もあるので、安心して読める作品になっています。

『あやかし図書委員会』(羊崎ミサキ)

あやかし図書委員会 (PHPジュニアノベル)

あやかし図書委員会 (PHPジュニアノベル)

新興の児童文庫レーベルPHPジュニアノベルのオリジナル作品。読書感想文が苦手な小5女子羊崎ミサキは、書き方を司書の先生に教われと命じられて学校図書館に行きます。ところがその図書館は座敷童などのあやかしが運営していて、ミサキもあやかし図書委員に任命されてしまうことになります。
あやかし図書委員の役割は物語を食べる紙魚を退治すること。これが空中に浮かぶかなり気味の悪い魚でした。学校図書館には予算がないから霊能力者を雇って対処することができず、ミサキがマジカルはたきでぶったたいて倒すという地道な作業が続きます。世知辛い。ちなみにこの学校図書館は6年担任持ちの司書教諭が仕切っていて、学校司書は配置されていないようです。担任持ちながらまともに学校図書館の仕事をするのは無理なので、アブラアゲで狐を釣って働かせても責めることはできません。世知辛い。
この作品はブックガイドとしての側面も持っています。子どもに本を薦めようとする大人でもっとも信用してはならないのは、古い本しか薦めないタイプです。知識が更新できておらず、自分の思い入れでしか語ることができないので、まったく参考になりません。その点この作品は、角川つばさ文庫の「こわいもの係」シリーズや集英社みらい文庫の「牛乳カンパイ係、田中くん」シリーズ、ノンフィクションの『ギョギョギョ! おしえて! さかなクン』など、新しい作品に目配りがあるので信頼できます。他にも、司書教諭が「強制された読書なんて猫のうんこ以下よ」と言ったり、低学年の子に『みんなうんち』を渡すときの狐の言葉が「みんなうんちはめっちゃうんちだぜ」だったり、ズッコケ三人組の神回論争が起こって『ズッコケ文化祭事件』が認定されたりと、信頼できる要素を書き出していったらきりがありません。
作品論もしっかりしていて、「こわいもの係」シリーズを「この本のいいところは、やむにやまれずこの世界にすがたを見せる、あやかしのリアルな気持ちが描かれてるってとこ」「さみしいことや悲しいことがたくさんあるって、ちゃんと書いてある本が好き」と、独自の切り口で評しています。ただしここで注意すべきなのは、この論考をしているのは座敷童で、「こわいもの係」作中の座敷わらしの花ちゃんに共感して読んでいるということです。つまり、虚構の読み手が周縁的な読みを展開しているわけです。ここが、終盤の山場にうまく接続されていきます。