『エレベーター』(ジェイソン・レナルズ)

エレベーター

エレベーター

エドガー賞ヤングアダルト部門やカーネギー賞ショートリスト他多数の児童文学賞を獲得した話題作の邦訳が登場。
兄ショーンを殺されたウィルは、「愛する誰かが 殺されたなら、 殺したやつを、見つけだし、 かならずそいつを 殺さなければならない」という「掟」に従い、兄の洋服箪笥から拳銃を持ち出します。作中で語られるのは、アパートの8階の自宅からエレベーターで1階に降りるまでの短い時間の出来事だけです。しかしその読書体験は、長い時間拷問を受けているかのような密度の濃いものになります。
邦訳の本は、原書と同じく横書きになっています。これは、文字列を下に落とすことによってエレベーターで下降するウィルと同じ体験を視覚的に読者にさせる演出となっています。邦訳版のカバーは、「エレベーター」というタイトルを縦書きにすることで下降感を出しているのが憎いです。
読者はウィルとともに
     落ちてゆく
     墜ちてゆく
     堕ちてゆく
階を下るごとにエレベーターには乗客が増えていきます。それは銃で殺されたはずのウィルの周囲の人々。ウィルの周囲にはあまりにも死が溢れすぎています。死者たちは煙草を吸い、狭いエレベーター内を煙で満たしていきます。
息苦しい、溺れそう、逃げたい、逃げられない。いつまでたってもたどりつかない。
いや、ゴールはあるはずです。でも、1階Lobbyの「L」は、Loserの「L」でもあるのです。
読者は物語の終幕で無事殺されるわけですが、その後の謝辞でもう一度殺されることになります。1ページの短い文章であり、具体的なことはほとんど述べられていません。でも、著者に関する予備知識をなにも持たない読者であっても、著者の生い立ちや彼がいかに文学に救われてきたのかということを理解させられてしまいます。
読者の感情を強く揺さぶるという点では、間違いなく今年の翻訳児童文学のなかで屈指の傑作です。

『12歳で死んだあの子は』(西田俊也)

12歳で死んだあの子は (児童書)

12歳で死んだあの子は (児童書)

大学の附属小学校に通っていたが公立中に進学した須藤洋詩は、中2の秋に小学校の同窓会に参加しました。参加前は少しの不安を感じていながらも、それなりに楽しい時間を過ごすことができましたが、ひとつひっかかることが残りました。それは、小6で亡くなった同級生の鈴元育郎の話題を誰も出さなかったこと。須藤は何人かの仲間とともに、鈴元のお墓に会いに行く計画を主導することになります。
エリートの子ども、同窓会……このキーワードから悪い児童文学読みは、きっと凄惨な殺人事件の真相が明かされる話になるのだろうなと予想することでしょう*1。そこまでひどいことにはならないので安心してください。
附属小から附属中に進学した生徒たちが附属中にも他の私立にも行かず公立に進学した生徒を「島流し」扱いするような感じの、嫌らしい側面はあります。だたしそれよりもこの設定は、それなりに繊細で頭のよい子どもたちの群像を描くためのものとして機能していて、作品の空気感は悪くはありません。
主人公は「島流し」の身であり、そもそも生前の鈴元とは特別仲がよかったわけでもなく、どちらかというと傍観者的・非当事者的位置にいます。その立ち位置から、元同級生の人生を眺めていきます。子どもといえど、死を含め人生は複雑に分岐していきます。そうした人生の機微がしっとりと描かれているところに、この作品の魅力はあります。

『すきっていわなきゃだめ?』(辻村深月/作 今日マチ子/絵)

恋の絵本 (2) すきって いわなきゃ だめ?

恋の絵本 (2) すきって いわなきゃ だめ?

恋愛観や結婚観、ジェンダー観」のアップデートを意図して瀧井朝世が企画した「恋の絵本」シリーズの第2弾。著者が辻村深月今日マチ子となると、当然警戒しながら読まねばなりません。
でも実は、そこはこの作品でもっとも重要なポイントではなさそうです。素直にタイトルの「すきっていわなきゃだめ?」という素朴な疑問を正面から受け取るべきです。
すきなひとに告白することが周囲で流行し、主人公はみっちゃんから「すきな ひと いないの?」「すきな ひとが いるなら、 すきって いわないの?」と圧力をかけられます。このような恋愛・性愛に関わるあらゆる圧力から人は解放されるべきであるという方向に、時代は進んでいます。
たちが悪いのは、みっちゃんの背後に骸骨の標本が配置されていて、それが笑っているようにみえることです。つまり、エロスとタナトスは表裏一体であり、性愛は死を生み出す行為にほかならないといっているわけですね。骸骨の嘲笑にこそ、この作品の眼目はあります。

『スベらない同盟』(にかいどう青)

スベらない同盟

スベらない同盟

にかいどう青は小説をあいしている。ゆえに、小説を信じていない。にかいどう青は言葉をあいしている。ゆえに、言葉を信じていない。
新作を発表するたびにその激ヤバさに対する読者の信頼を高めていくにかいどう青ですが、今回も期待を裏切ることはありませんでした。スクールカースト上位軽音部のレオとスクールカースト下位転校生のケイがコンビを組んで文化祭で漫才を披露しようとする物語です。レオは先生から頼まれてケイの面倒をみるようになります。そして、ケイが百合ライトノベルの二次創作を書いているのをみてギャグの才能があることを知り、カースト上昇のために一緒に漫才をやるように誘います。
ストーリー展開や仕掛けは、帯に書いてある内容から予想できる範囲を大きく越えてはいません。ただし、その毒の濃度は異常に高いです。にかいどう青は、カースト下位者に手をさしのべる上位者の傲慢や自己満足も、それを利用しようとする下位者の小狡さも、みもふたもなく白日の下に暴き立ててしまいます。善意の存在しない人間関係のなかで、それでも摩擦で生じる燐光のような希望に縋ろうとします。
にかいどう青は創作をあいしているがゆえに、創作を信じていません。だからこそ、作品内の創作である話芸が、かなしいまでの輝きをみせます。
作中に怖い場面はたくさんありますが、なかでももっとも怖いのは、レオがある大人から励ましを受ける場面です。

「おとなのほうが、子どもよりかは、たいへんじゃない。うんざりすることも多いけど、学校に行かなくてもいいんだぞ。それって最高じゃないか」

閉塞した学校生活で苦しんでいる子どもに未来への期待を持たせる、まっとうなお説教のようにみえます。ただし、この台詞を言っているのは、大人になっても学校に通っている先生なんですよね。怖い怖い怖い。

『こわいオオカミのはなしをしよう』(ウィリアム・マクリーリー)

こわいオオカミのはなしをしよう

こわいオオカミのはなしをしよう

もっとも幸福な物語のあり方とはなにか。それは、受け手から望まれてどこまでも続いていくことです。『こわいオオカミのはなしをしよう』では、そんな幸福が描かれています。
5歳の男の子マイケルは、いつもベッドに入るとパパにお話をせがみます。今回のリクエストはニワトリのはなし。いつもオオカミのはなしばかりさせられているパパいつもとは趣向の異なるはなしを進めようとしますが、案の定マイケルはすぐにはなしにオオカミを登場させようとします。「だめ!」「やだ!」「だめ!」「やだ!」の繰り返しでパパが折れ、結局マイケルの大好きな、肉屋のほうちょうのようなするどいきばを生やしたおそろしいおおかみのはなしが始められます。
物語の設定や展開はふたりの共同作業で作り上げられていきます。ニワトリの名前をレインボーと決めたりするはじめのあたりは順調に進みます。でも、羽根が虹色であるという設定をマイケルが考えると、事実にこだわるパパは実際にはそんな色の羽根を持ったニワトリはいないということにわざわざ言及せずにはいられなくなったりと、思惑が一致しなくなることも出てきます。でもマイケルも慣れたもので、「わかってる、わかってる。じゃあ、つづけて」と軽く流します。パパはパパでこの設定を利用し、レインボーの羽根の色をどんどん数え上げていき、マイケルの眠気を誘おうとします。物語の作成とその背後、ふたつのレベルでの子どもと大人の攻防を楽しめるのがこの作品の魅力です。

『あの空はキミの中』(舞原沙音)

ポプラ社とエブリスタ共催のピュアラブ小説大賞で落選した女子野球小説。ラブ要素2割野球要素8割くらいの配分なので、いくらおもしろくても賞の趣旨にそぐわないということで落選にされたのは仕方ないでしょう。それでも拾われて書籍化されたのは喜ばしいことです。
物語のプロローグは、主人公の陽向の12歳の夏、少年野球の県大会の決勝。所属チームで4番を任されていた陽向ですが、女子だということで相手チームのエースはなめた球を投げてきます。それを陽向はバックスクリーンのホームランにします。これで相手投手も反省し、真剣勝負が繰り広げられますが、陽向のチームは敗北します。しかし陽向と相手チームのエースは、お互いを宿命のライバルと認め合ったのでした。
そして陽向は中3になり、転校先で相手チームのエースだった理央と運命の再会を果たします。しかし理央は全然気づかず、自分の宿命のライバルは強豪校に進学した3番だった男子だと思いこんでいるというボケっぷり。この最初からすれ違ってしまったふたりのラブコメが展開されます。
ラブ要素ももちろんおもしろいのですが、それより盛り上がるのは野球要素です。その学校はチームの人数もそろわないような状態でしたが、陽向にもブランクがあっていままでのように主砲の役割を果たすことはできません。そんななかで新たな戦い方を模索していきます。
ラブ的にはセカンドの陽向とピッチャーの理央のはずなのですが、実はもっとも熱いのは二遊間です。ショートは理央の弟でクソ生意気な青。女子と中1で身長が足りないというハンデを乗り越えて、みごとな連携をみせます。打順も前後しているので、攻撃面でも息ぴったりのプレーをみせてくれます。試合の場面では読者の頭から理央へのラブは完全に消え去り、この二遊間コンビの絆の強さに引きつけられてしまいます。
やはりポプラ社の主軸は、娯楽児童文学であるべきです。この作品は非常にポプラ社らしさを感じさせてくれる作品でした。どのくらいの人にニュアンスが伝わるかわかりませんが、野球でたとえてみたいと思います。ポプラ社の場外ホームランは、言わずと知れたズッコケやゾロリということになります。この作品は右方向にきれいに飛んだ流し打ちで、打者の走力的に三塁も狙えるところをあえて余裕で二塁で止まったという感じの貫禄のある二塁打ポプラ社はこういう作品をこそどんどん出してほしいです。

『お絵かき禁止の国』(長谷川まりる)

お絵かき禁止の国

お絵かき禁止の国

第59回講談社児童文学新人賞佳作受賞作。まんがを描くのが好きな中学3年のオタク女子ハルが好きな人と両思いになったところから、物語はスタートします。なのにハルの気持ちは晴れません。なぜなら、好きになった相手は同性だったから、その先のいろいろな問題が気になって仕方がないのです。
日本の児童文学でも、性的マイノリティが主役になる作品がだいぶ増えてきました。ハルはインターネットで同様の悩みを持つ人たちについて調べます。そこでみた事例では、32歳と47歳のカップ*1が養子縁組をしようかと思案していて、他の人から今後同性婚が合法化されると養子縁組をした人とは結婚できなくなるから待ったほうがいいとアドバイスを受けるなど、かなり具体的な話に踏みこんでいます。
もはや、児童文学やYAで性的マイノリティが主役を張るというだけで驚かれたり褒められたりする時代は終わったとみていいでしょう。
では、この作品の特色はどこにあるのかというと、ハルの現実とファンタジーを過剰に切りわけようとする心性がおもしろいのです。ハルは百合やBLはファンタジー度が高く、少女まんがの方にリアリティがあると認識しています。ただし、自分が当事者であるがゆえに百合作品にリアリティを求めてしまうというバイアスがかかっているということも自覚しています。この切りわけの発想は、現実はリアルでなくてはならないという思いこみにつながっていきます。この思いこみがストーリーの流れを支配してしまうかのような展開が興味深いです。

*1:2018年刊行の石川宏千花のYA『わたしが少女型ロボットだったころ』には、45歳と33歳の同性カップルが登場していた。