『ぼくたちは卵のなかにいた』(石井睦美)

卵の世界とその外の世界を舞台とするわけのわからない児童文学。卵の世界の住人は、13歳の誕生日に外の世界に出るかどうかの決断を迫られます。リョウは出る決断をしますが、その後過酷な試練を体験することになります。
卵というものの象徴性を考えると、常識的にはそこから出ることが成長であり正しい決断なのではないかと思われます。デミアン的には雛鳥は卵の殻を破って神の元に飛ばなければなりませんし、谷山浩子的な卵の世界で年老い死んで腐り「眠ったまま幕が降りればいいと」願うような人生はあまりハッピーにはみえません。
ところが石井睦美の卵の世界は、別に出ることを絶対の正解とはしていないようです。リョウの両親は卵の世界で普通に大人になって親になっていますし、その生き方を否定する根拠は作中のどこにも出てきません。むしろ、卵の世界を出た後の憎しみの試練が苛烈すぎるので、出ない方が正解なのではないかと思わされます。リョウに水を与えてくれる人語を解するペリカンがかわいいのだけが救いですが、そのペリカンも、ああ、そういう感じなんだ……という秘密を持っていました。
この作品が「ぼく(リョウ)」が「きみ」に語りかけるという形式になっているのも、よくわかりません。卵の世界から出る人間はそれまでの人生を1冊の本に書き残して図書館に保存するしきたりがあるという設定はありますが、「ぼく」は卵の世界を出た後も「きみ」に語りかけているので、この作品は図書館の本というわけではないようです。
この作品や『つくえの下のとおい国』などをみると、最近の石井睦美は寓話っぽいいわゆる児童文学的なもののパスティーシュをやろうとしているのではないかとも思われますが、もう少し今後の作品をみてみないと確証は持てません。ということで、特にわたしに解説できることはないのですが、少なくともわけのわからない児童文学が大好物なわたしにはそれなりに楽しめる作品であったということだけ報告しておきます。

『夏に泳ぐ緑のクジラ』(村上しいこ)

夏に泳ぐ緑のクジラ (創作児童読物)

夏に泳ぐ緑のクジラ (創作児童読物)

タイトルやカバーイラストは一見さわやかっぽいのに……。
主人公のお京は中三の夏、母親とともに祖母の暮らす島に行きました。母親の目的は、島に娘を捨てることでした。父親はFXで有り金全部溶かした感じになってどうにかなってしまい、母親は鬱病でとてもお京の面倒をみられるような状態ではありません。ところが祖母も問題でした。祖母は母親一人を悪者にすることで家庭内の秩序を保っていた暴君で母親の精神を病ませた元凶。さらに島には、子どもの孤独につけこんで近づいて脳みそを食べる自称妖精の「つちんこ」とやらが出没していました。どこにも夢も希望もありません。
この作品に限らず村上しいこYAに登場する子どもは、ひたすらシバかれ強くなれと自助努力を求められます。村上しいこYA世界には、共助や公助といった概念がほとんどみられません。「つちんこ」のまなざしの先にあるような、寒々とした世界が広がっています。この作品で描かれている人心の荒廃や貧困はこの国の現実の一面ではあるので、そういう現実を突きつける作品も必要でしょう。
ただし、村上しいこYAの過剰に自助努力を求める姿勢は、失敗すれば自業自得という自己責任論に陥りそうな危険性が感じられます。子どもに成長を求めることで手一杯になり、社会の矛盾を変革しようという方向には目が向けられにくくなっています。こうした村上しいこYAの視野の狭さには、懸念を抱いています。

『ミッチの道ばたコレクション セミクジラのぬけがら』(如月かずさ)

セミクジラのぬけがら (ミッチの道ばたコレクション)

セミクジラのぬけがら (ミッチの道ばたコレクション)

これこそ幼年を描いた児童文学であるという、説得力にパワーのある作品です。楽しいものを圧縮して配置したデザイン性の高いカバーイラストも目を引きます。
ミッチの趣味は、道ばたに落ちているものを拾ってコレクションすること。探求心の強いタイプの子どもであれば、あるあると共感を寄せられる題材です。子どもにとってセミのぬけがらや変わったかたちの木のかけらには、宝石を同じくらいの価値があります。そんな楽しさを丁寧に描き、金魚鉢に入るサイズのセミクジラを手に入れるという虚構を混入し、豪快に嘘と奇想を増幅していく手つきがあざやかです。

『ぼくがいちばんききたいことは』(アヴィ)

ぼくがいちばん ききたいことは

ぼくがいちばん ききたいことは

西村ツチカのイラストが目を引きますね。アヴィの短編集が登場。男子と家族をめぐる物語が7編収録されています。
男子として生きることのキツさを苦いユーモアでくるんだ作品が並んでいます。「家に帰る」は、離婚調停で月1で面会することになっている父親に会いに行く話。父親の家でまったく知らない女性に対面し、父親が再婚していたことを知ります。決定的ななにかを失った瞬間が印象的に描き出されています。
アマルフィ・デユオ」は、なんでも一緒に行動したがる祖父を持った男子の物語です。祖父の誘いで音楽教室に通うことになりますが、男子にはそこそこ才能があったのにはきりっていた祖父の演奏は惨憺たるもので、気まずくなってしまいます。
もっともストレートにキツく男であることの困難が描かれているのは、「ぼろぼろ」でしょう。主人公の男子はダンスパーティの帰りに強盗に襲われます。ところが巨漢の弁護士の父親は、息子が強盗に立ち向かわなかったことを責めるだけで、まったく心配しようとしません。父親は腰抜けの息子を持ったことで恥をかかされた自分こそが被害者であると思っているのです。この父親も、男性性という呪いに囚われている犠牲者ではあります。ただし、子どもに害を及ぼすようでは同情の余地はありません。最終的に男子は父親に復讐を果たし父親を捨てることに成功しますが、後味は苦すぎます。

『もえぎ草子』(久保田香里)

亡母が内裏の女官であった萌黄は、12歳で職御曹司での下働きを始め、母と同じように出世の糸口をつかもうとします。時は定子の父が亡くなり兄たちがやらかして没落が確定的になったころ。萌黄は清少納言ともわずかに関わり、定子サロンの最後の輝きの一端を目撃します。ところが、紙を盗んだという疑いをかけられて職御曹司から追放されてしまいます。

中宮清少納言も、このできごとをまた、女房たちと明るく過ごすための笑い話にするのだろう。
(p185)

わたしは枕草子の優雅なエピソードも好きだし、定子の没落という背景の悲劇性も知っているので、それなりに定子サロンには好感を持っています。この作品は庶民からみれば清少納言も定子も下々の者を踏みつけにしてなんとも思わないクソ貴族なのだということを突きつけてくるので、正直なところ目をそらしておきたいところをみせられてしまったという感想を持ってしまいました。あの楽しい雪山争いのエピソードなんかも、それに振り回される下々のものからみれば地獄なわけですよね。これは重要な視点です。
そんな階級上の断絶はありますが、造紙手の父を持つ萌黄は紙を愛するという点において清少納言に共感を寄せます。そこにかすかな希望がみえます。
平安時代を舞台にしたこの『もえぎ草子』、中国を舞台にしたまはら三桃の『思いはいのり、言葉はつばさ』、架空の世界を舞台にした菅野雪虫の『アトリと五人の王』と、同時期に中堅の女性作家による力作が続きました。この3作はそれぞれ趣向は違いますが、女子が生き抜くためには文字と紙が大事であるという思想は共通しています。この共通項は興味深いです。

『アトリと五人の王』(菅野雪虫)

アトリと五人の王 (単行本)

アトリと五人の王 (単行本)

豊かな国の姫君として生まれたものの、自身と娘のカティンの出世のことしか頭にない継母に虐げられて育ったアトリは、誰からも祝福されることなく数え年で10歳にして病身の没落貴族の月王の元に嫁ぎます。そこからわずか8年で5回も結婚することになるという波瀾万丈の人生を歩むことになります。マナット・チャンヨンの『妻喰い男』が思い出される設定ですね。
現実的に考えれば、アトリの結婚は親の離婚再婚や転居などで自分の意思にかかわらず大きな環境の変化を余儀なくされた状況であると捉えられます。それを架空の王族の物語とし、10年ほどの出来事を本1冊に圧縮しているので、ドラマチックで読ませる話になっています。
アトリは育児放棄された子どもで、はじめは知性も美貌も持たない子どもとして登場します。そんなアトリにとって月王ははじめてのまともな保護者となり、「知識」「常識」「愛情」を与えてくれます。アトリはどんどん人間らしさを獲得していきます。子どもが生きるために必要なのはなによりも知性と知恵であるという、菅野雪虫の基本姿勢通りの展開です。
知性を得るということは、もっと知りたい、もっと本を読みたいという欲望を抱くということでもあります。自由のないアトリにとって欲望を抱くことは苦しみにもなってしまいます。それでも最後には自分で自分のいるべき場所を選び取ります。
アトリの腹違いの妹のカティンも魅力的です。母親をみてああはなるまいと学習し、いつの間にか自力で生きるすべを獲得していたたくましさにほれぼれとしてしまいます。アトリとカティンの姉妹愛が美しく物語の幕を引くラストは必見です。

『思いはいのり、言葉はつばさ』(まはら三桃)

思いはいのり、言葉はつばさ

思いはいのり、言葉はつばさ

旋盤だったり鷹匠だったり珍しい素材を見つけてきてYAに仕上げる作風で知られるまはら三桃ですが、今回は中国の女書・結交姉妹という素材を拾ってきました。まはら三桃は現代を舞台にしたYAを主にものしていたので、異国の歴史ものというのは、あまりなかった試みなのではないかと思われます。
男には秘密で女のあいだでのみ伝わってきた女書は、自由と抵抗の象徴です。女書を知ったチャオミンはその美しさに魅入られてしまいます。
字を覚えるとなにができるかというと、恋文を書くことができるようになるのです。チャオミンは誰もが憧れる女性であるシューインから、姉妹の契りを結びたいという申し込みの手紙を受け取ります。シューインの手紙は、字も文章も優美なものでしたが、チャオミンのは比べるべくもないもの。であっても思いを伝えることはできるのだという希望が光り輝きます。
文字が自由の象徴なのであるとすれば、奪われた自由を体現するするのは纏足です。物語の終盤では靴が意外な役割を果たします。悲劇を笑いに転化するのは、物語の原初的な力です。その素朴な力に励まされます。