『タテルさんゆめのいえをたてる』(ステファン・テマーソン/ぶん フランチスカ・テマーソン/え)

タテルさん ゆめのいえをたてる

タテルさん ゆめのいえをたてる

1938年にポーランドで刊行された作品の邦訳版が登場。理想の自宅を建てようと建築家のビルダーさんに相談を持ちかけたタテルさん。ビルダーさんはカタツムリやフクロウなど動物の家を紹介してなかなか話がかみあいません。ようやく設計図ができて家の建設が始まりますが、あわてんぼうで人の話を最後まで聞かないタテルさんは建築現場になかなかたどり着けません。家ができた後も、なんやかんやとトラブルが続きます。
シンプルな線で描かれたゆるいキャラクター、タイポグラフィーも駆使して文字とイラストを巧みに配置するデザイン性の高さ、絵本としての魅力が高く、眺めているだけで楽しい本になっています。
タテルさんの精神年齢や知識レベルは、想定読者とされる子どもにあわされているのでしょう。せっかく家を建てても水がなかったり電気がこなかったりというトラブルに見舞われるタテルさんですが、専門家の助けを借りて問題を解決していきます。その過程で、生活するということ、そのために人類がいかに知恵を働かせてきたのかということを、スムーズに学べるようになっています。人類の知恵に素直なリスペクトを示しているところに好感が持てます。

『南河国物語 暴走少女、国をすくう?の巻』(濱野京子)

南河国物語 暴走少女、国をすくう?の巻

南河国物語 暴走少女、国をすくう?の巻

この中華風ファンタジー『南河国物語』では、エンタメ作家のとしての濱野京子の実力がいかんなく発揮されています。レトロで楽しい娯楽児童読み物になっています。
時は千載におよぶはるかな昔のこと。紅玉というとんでもない嘘つき娘がおりました。紅玉の父は有名な将軍にそっくり。将軍だと勘違いして食べ物屋や宿屋がもてなしてくれるのをいいことに、無銭飲食していました。そこを役人に捕らえられ、将軍本人の元に連行されます。そして父は将軍の影武者の役割を強いられ、紅玉は評判の悪い太子に仕えることになります。しかし天性の嘘つきの紅玉は、そんなことでは全然ひるみません。むしろ事態がこじれるのを楽しむかのように奇行を繰り返し、異国の女将軍や仙人までも入り乱れるしっちゃかめっちゃかの大騒動を巻き起こします。
なによりおもしろいのは、主人公の造形です。とにかく肝が据わっていて、観察力も抜群。彼女の対人戦略は、初対面の人間はまず弱みを握って脅迫というのが基本。彼女の行動原理には、正義も愛も保身もありません。思いのままに悪行の限りを尽くします。彼女はルナール狐やティル・オイレンシュピーゲルの仲間のようです。
読者に語りかけるような講談調の文体も魅力的です。章のカウントが「第○回」だというのもわかっている感じがします。連載作でもないのに章の切れ目に引きを入れるのわざとらしさも効果的。それで入れ替わりとか生き別れの母とか王道のネタが繰り出されるのですから、おもしろくなるに決まっています。
いや、これが2019年の最新の児童文学だってのは嘘でしょ。70年代後半あたりの「5年の学習」「6年の学習」に2年24回にわたって連載されてた作品だといわれた方がしっくりきます。こういう味わいの作品をものせる人はもう限られているので、濱野京子はこのようなレトロエンタメをもっと書くべきです。

『わたしがいどんだ戦い1940年』(キンバリー・ブルベイカー・ブラッドリー)

わたしがいどんだ戦い1940年

わたしがいどんだ戦い1940年

『わたしがいどんだ戦い1939年』*1の続編。母親からひどい虐待を受けていたエイダですが、続編の冒頭ではいいことばかりが起きます。手術であっさりと内反足が直り、(あえてこういう言い方をしますが)めでたく母親が死に、オックスフォード主席のインテリで社会性にはやや乏しいが善良な女性であるスーザンが正式な後見人になってくれました。しかし、奪われた自尊心は簡単に取り戻すことはできません。エイダと世界との戦いは続きます。
エイダの置かれた新しい環境は、客観的にみればものすごく恵まれたものであるといえます。でもエイダはなかなか変わりません。人が尊厳を持って生きるということの難しさが、かえって残酷に描かれることになります。
ドラゴンが空想上の生き物だと知らずドラゴンを軍事利用すればいいと言ったりするエイダのずれた言動はギャグとして受容することもできそうですが、このシリアスな設定ではそうもいきません。スーザンは知性の不足と知識の不足を混同してはならないと理性的に説きます。しかし、スーザンに庇護されていても自分の安全を信じられなかったり、愛は空想上のものなのかと疑問を抱いたりするエイダが社会性を獲得するのは、険しい道のりとなります。
ただし、エイダの突拍子もなさが周囲によい影響を与える面も描かれています。愛情深い女性でありながらその表現方法に難のあるソールトン夫人や、最愛の女性を喪った悲しみと正面から向き合えなかったスーザンをよい方向に変えていく様子は感動的です。

『空飛ぶくじら部』(石川宏千花)

中学生の鰐淵頼子と犬走凪人、ふたりは幼いころからたびたび時間停止現象を経験していました。そんなときには必ず空に巨大なくじらが浮かんでいて、それに吸い上げられてタイムスリップしないと停止した時間から抜け出せないことになっていました。
この本では、ふたりの数え切れないタイムスリップ体験のうち、6回の出来事が語られています。とばされる時代は戦時中に昭和後期に恐竜の時代と、さまざまです。時代を越えることにより価値観の変化を学ぶという教育的要素も添えつつ、人気作家ですからしっかりとエンタメにしています。
わたしがいちばん好きなのは、あまりお説教要素のない第2話の「ゾンビ」。人気のない場所に飛ばされたふたりは、今回はゾンビに滅ぼされた未来にとばされたものだと思います。そこにマスクをした女性が現れ、意味不明な行動をとります。今の中学生の親くらいの世代であれば、これがなんの話なのか容易に予想できることでしょう。上の世代には深刻な恐怖だったものを素材にしながら、異常設定と勘違いがコミュニケーションの齟齬を生む秀逸なコメディとして料理していました。
空飛ぶくじらの目的はまったくわからず、ふたりは理不尽にもてあそばれるだけです。ふたりの名前に動物が含まれていることから、これは人類家畜テーマのSFであると予想するのは考えすぎでしょうか。ただ、小説の作中人物というのは作者の都合で振り回されるものですから、そういう意味で作品世界は実験場であり、作中人物は家畜であるとはいえます。
それにしてもふたりは、いくら場数をふんでいるとはいえ状況を淡々と受け止めすぎなようにみえます。命に関わるような事態にも慣れきっているようです。この理不尽さに対する諦念のようなものには、現代性が感じられます。

『アンチ』(ヨナタン・ヤヴィン)

アンチ (STAMP BOOKS)

アンチ (STAMP BOOKS)

岩波〈STAMP BOOKS〉新作は、ヒップホップ少年を主人公としたイスラエルの作品。国・題材ともに、日本に紹介される作品としては珍しいものになっています。
14歳のアンチの一家は、おじがうつで自殺してしまったために沈んでいました。そんなときにヒップホップのグループに出会い、仲間に入って一緒に自治体の運営する「暴力ではなくことばで」という大会を目指すことになります。ただし、その大会がご大層な名前の割に有力スポンサーの息子を毎回八百長で優勝させていたり、アンチの仲間が「解放」という美名のもと集団窃盗を繰り返していたりと、いろいろなねじれを抱えていました。
自殺という素材は非常に重いものですが、この作品の場合ユダヤ教文化圏なので、そのタブー度はさらに高くなっています。しかし、悪意というものは人の弱点をこそ突いてくるもので、そのおぞましさも強くなっています。ただし、物語の流れは素直なので、安心して読むことができます。
ラップバトルは文字媒体に移植しやすく、リズムに乗って流されるように気持ちよく読み進めていくことができます。アンチは一人称の地の文でもしばしば韻を踏んでいます。読む方は楽に読み流していけますが、翻訳家は大変だっただろうと苦労がしのばれます。

『境い目なしの世界』(角野栄子)

境い目なしの世界

境い目なしの世界

 子供の恋は、
無邪気で残酷。
 無意識、無邪気、
無自覚の、裏切り~~

ヤエは、ミリというクラスメイトと奇妙な友情を築いていました。ミリは女子からは嫌われていて男子からは超人気なタイプ。真面目なヤエとは合わなそうな子ですが、絵本専門書店で偶然会ったことをきっかけにつきあいが始まります。ヤエはミリにそそのかされてスマートフォンを買い、ラインでもつながるようになります。ミリは、「しのぶなかだね、わたちたち」と笑います。以前からミリの話題に出る男子が続々と姿をくらませるなど不穏なことが起きていましたが、スマートフォンを持つようになったことからヤエの周囲はさらにわけのわからないことになっていきます。
周知のとおり角野栄子は南米マジックリアリズムの流れをくむ作家なので、現実と幻想がとけあうような世界を描くのはお手のものです。スマートフォンでのつながり、フィギュアを売る奇怪な店。異界への落とし穴はあらゆるところに仕込まれています。テクノロジーと幻想性を混在させるのも角野栄子の得意技、『アイとサムの街』のような作品が思い出されます。
この作品はYA向けですが、童話の味わいも混ぜこまれています。ミリの母が「急速冷凍機」で「レイトウベントウ」を量産する様子などは、魔法的にみえます。「ライン」や「ジーピーエス」をわざとカタカナで表記しているところにもそちらの空気に引きこむ工夫のように思われます。
角野栄子ジェンダーフリーな作家としての側面も表れています。ヤエが気になる男子の手を眺める様子、「細長い指の関節がゴツッと太くて、その上を皮が引っ張るようについていた。一つ一つの指の骨のあり場所がハッキリと見える。どこか怪鳥の足を思わせた」と、ねちっこく描写されています。そしてヤエはその手が文字どおりモノ化されたのを消費しようとするのです。角野栄子ジェンダーフリーな作家なので、性的な局面での加害性という問題を女子に突きつけます。
この世界には元々、境い目などないのかもしれません。どんな事故も起こりえます。この作品内では、「バリアフリー」という通常はよきものとされる言葉がまがまがしい威圧感をまとっています。
はたして幼年の心と大人の心のあいだに境い目はあるのでしょうか。
はたして童話と一般向け小説のあいだに境い目はあるのでしょうか。
はたして、自分と他人あいだに境い目はあるのでしょうか。
結論として、この作品は角野栄子らしさが高濃度で凝縮された危険な作品であるということになります。

『貸出禁止の本をすくえ!』(アラン・グラッツ)

貸出禁止の本をすくえ!

貸出禁止の本をすくえ!

わたしは「スーパーヒーロー・パンツマン」には興味がないけど、べつのだれかは、「パンツマン」のことを、『クローディアの秘密』ぐらいおもしろいって思うだろう。

クローディアは秘密を持てる、エイミー・アンは秘密を持てない、この差が問題です。
主人公は読書が大好きな小学4年生のエイミー・アン。ある日エイミー・アンは、何度も読んでいる『クローディアの秘密』が学校図書館から消えていることに気づきます。司書のジョーンズさんによると、ある児童の保護者で地域の有力者でもある人物のクレームにより教育委員会が動き、本を貸出禁止にしたとのこと。ジョーンズさんとエイミー・アンは教育委員会に抗議に行きますが聞き入れられません。エイミー・アンはこっそり自分のロッカーに禁止された本を入れて他の児童に貸し出す秘密の図書館をつくるというかたちで抵抗を始めます。
ハリー・ポッターには本物の呪文が書かれているから子どもには読ませないようにするなどという向こうの話を聞くとあまりにもバカバカしいと思ってしまいがちですが、学校図書館への不当な圧力や表現への弾圧は日本でも他人事ではありません。権力を持つ保護者が自分の子どもがけしからんものを所持していたのを見つけたことをきっかけに表現規制を推し進めたという例は、日本でも聞いたことがあるような気がします。
理不尽な大人への抵抗が社会的な活動につながっていくさまを娯楽性たっぷりに描いていて読ませてくれます。日本の作品でいえば古田足日那須正幹、あるいは宗田理あたりの作品が思い出されます。一方で、議会が身近な存在として登場すること、リーガルマインドに基づいた議論がなされること、このあたりにはお国柄の違いが表れていて興味深いです。
ということで、娯楽性の高い優れた社会派児童文学ではあるのですが、結末には納得がいかなかったので書き記しておきます。未読の方は読まないようにお願いします。










司書のジョーンズさんは保護者には子どもの読書を制限する権利があるとし、エイミー・アンは『ハンガー・ゲーム』は読んじゃダメという親の命令を素直に聞いて物語は終わります。いや、むしろ子どもは保護者からこそ守られなければならないのではないでしょうか。保護者の政治的思想や宗教的信念がどうあれ、子どもにはたとえば性教育や進化論の本を読む権利があるはずです。
エイミー・アンも家庭に不満を抱えています。エイミー・アンが家出しようとしたとき、車で追いかけてきた母親は優しい言葉で丸めこみます。エイミー・アンはクローディアと違って、家出をすることも内心の秘密を持つことも許されません。温かい愛情による支配から抜け出すことができないのです。
ただ最後にちょっとだけ、親の支配力の及ばない学校図書館でエイミー・アンが『ハンガー・ゲーム』を読む場面を付け加えたなら、彼女は救われたのではないでしょうか。それこそが学校図書館の役割だとわたしは考えます。
保護者の監督権に絶対の信頼を置く人がこの本を肯定するのはかまいません。ただし、『クローディアの秘密』を良書だと考える人が『貸出禁止の本をすくえ!』を肯定するのであれば、一貫性がないとの批判は免れません。