『怪談収集家 山岸良介の最後の挨拶』(緑川聖司)

山岸良介がライフワークとしていた本物の怪談だけを集めた『百物語』が完成し、探し求めていた祠の場所の手がかりも見つかります。霊感体質を見込まれおとり役を押しつけられていた浩介少年の苦難は終わるのか、「怪談収集家」シリーズ新刊は、物語を収束させそうな方向に進みます。
それだけあって、登場する怪異のレベルも上がっています。人食い雛人形とか、なにかを封印するために増殖する館とか、ボス級の怪異が続々と繰り出されます。
さて、山岸良介というキャラクターは、緑川聖司の2大シリーズ「本の怪談」シリーズと「怪談収集家」シリーズの両方に登場しています。シリーズによってその役割は異なり、「本の怪談」シリーズの山岸さんは正体不明の人物として作中に君臨しています。「本の怪談」シリーズ最新刊『みんなの本』でも、終盤に颯爽と登場したかと思えば結局アレという、超越したキャラ性を見せつけてくれました。一方「怪談収集家」シリーズの方の山岸良介は、露出が増えている分その神秘性が剥奪され、親しみやすいトリックスターになっています。どちらの山岸良介もそれぞれ魅力的です。この巻では○○○○属性が追加され、さらにポンコツ度が上がり楽しいキャラクターになりました。
ところで、タイトルが「最後の挨拶」ということは、これで最終回ではないということですよね。

『ゴーストダンス』(スーザン・プライス)

ゴーストダンス (ゴーストシリーズ)

ゴーストダンス (ゴーストシリーズ)

伝説的な暗黒児童文学ファンタジー『ゴースト・ドラム』の続編完結編。残酷な皇帝が支配する極寒の地の物語という設定は変わりません。今回は死を恐れる皇帝の元にイギリス人の(インチキ)魔法使いがやってきて、不死の秘法を餌に皇帝に近づいて地位を得ようと画策します。
1,2巻では現実世界とのとのつながりを思わせる具体的な固有名詞はほとんど出てこなかったのに、3巻にはイギリスをはじめとして現実の地名がたくさん出てくることに驚かされます。1巻では、強引に現実とのつながりを読み取れるのは、ニワトリ脚の家に住む魔女というのがバーバ・ヤガーを連想させるということくらいでした。2巻も、「ラップ人」という言葉が出てくるのと、ロキやバルドルの登場する神話が語られることで北欧神話とのつながりが明らかになったことくらいでした。それと比べると3巻はかなり現実世界に寄せてきたといえます。しかしこれは、作品世界が整然としてきたことを意味するのではありません。現実要素の導入により、作品世界はより混迷を深めていきます。
1,2巻と3巻のもうひとつの大きな違いは、正義という概念が生まれたことであるように思われます。この世界には絶対悪としての皇帝が君臨していますが、義憤や正義感からそれに対峙しようとする存在は登場しませんでした。3巻は、皇帝の圧政に苦しむ人々が魔法使いに助けを求めにいく場面から始まります。魔法使いはまったく取り合いませんが、その弟子のシンジビスは人々に同情して、単身皇帝の元に乗り込んで対決することを決意します。そして、宮廷でのシンジビスとイギリス人魔法使いの腹の探り合いが物語の軸になっていきます。
シンジビスの正義は、作中ではよきものとはあつかわれず、むしろ彼女の未熟さを示すものになっているようです。シンジビスはシロハヤブサに変身する魔法などを使って颯爽と活躍しますが、この世界の魔法の根幹である、死者の世界と行き来する魔法は習得していません。彼女の未熟さは、逆さに吊してピュッみたいな残酷な出来事を生み出し、さらには最悪を召喚してしまうことになります。

これでこの物語は終わった(と猫はいう)。


もしこの物語がおもしろいと思うなら、他の人に話してみるがいい。
もしこの物語が酸っぱいと思うなら、甘くしてやるがいい。
だが、気に入ろうと、気に入るまいと、この物語は自分の道を歩んで、ここにもどってこさせてほしい。ほかの人の舌に乗って。

『七不思議探偵アマデウス! 1 モーツァルトはミステリーがお好き?』(如月かずさ)

七不思議探偵アマデウス! 1 モーツァルトはミステリーがお好き?

七不思議探偵アマデウス! 1 モーツァルトはミステリーがお好き?

  • 作者:如月 かずさ
  • 発売日: 2019/11/25
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
ミステリマニアの小学6年生浅里エリカの最近の悩みは、気になっている新任の音楽教師和泉ヒナ先生の顔が曇っていること。先生に話を聞くと、モーツァルト肖像画がピアノを弾いているという学校の七不思議が悩みの種だったと言います。エリーは先生の悩みを解決しようと、音楽室に張り込みますが、実際に肖像画がピアノを弾いていたことを知り愕然とします。肖像画も麗しいヒナちゃんのことを崇拝していて、逆にエリーにヒナちゃんの本当の悩みを探れと依頼します。事件の様相が一変し戸惑うエリーですが、結局は「名探偵アマデウス&エリー」という探偵コンビを結成することになります。
事前に合理的な推理を展開していたのに肖像画がピアノを弾いているのを目撃したエリーは、怖がる前にあろうことが「アンフェア!」と叫びます。ここでこの子はもう手遅れなんだということが印象づけられます。うまいキャラづけです。
実際のミステリ部分は、超常現象の関わらないものになっています。ミステリなので詳しい事件の内容を明かすことはできませんが、それぞれのエピソードで高度な情報戦が繰り広げられているところは如月かずさらしいです。
小学生ながら末期のミステリマニアの主人公、女好きでフリーダムな性格のアマデウス、学校や地域の情報サイトを運営している小学生ジャーナリストの白瀬アヤノ、それに気弱な幽霊司書のレイジさんや時間操作能力持ちのツンデレ百合幽霊トキコさんと、人間も人外も濃いキャラばかりで、シリーズの今後が期待されます。
ところで、遠くの図書館の本も霊体で取り寄せてくれるというレイジさんの貸出サービスを受けたいんですけど、利用登録はどうすればできますか?

『ゴーストソング』(スーザン・プライス)

ゴーストソング (ゴーストシリーズ)

ゴーストソング (ゴーストシリーズ)

カシの木に金の鎖でつながれた賢い猫が語る物語。極寒の地の物語。残酷な皇帝が支配する地の物語。ニワトリの脚のついた家に住む魔法使いの物語。生者の世界と死者の世界を行き来する魔法の物語。血と飢えと殺戮の物語。1991年に邦訳が刊行された伝説的な暗黒ファンタジー『ゴースト・ドラム』*1の続編が、クラウドファンディングでようやく刊行されました。刊行後すぐに読んだ読者は、実に30年近く待たされたことになります。『ゴーストソング』の冒頭は、『ゴースト・ドラム』と同様の流れになっています。魔法使いが弟子にするために、貧しい家で生まれた赤ん坊をもらい受けに訪れるという流れです。しかし、『ゴースト・ドラム』の魔法使いがチンギスを弟子にすることに成功したのに対し、『ゴーストソング』の魔法使いクズマは父親のマリュータに息子のアンブロージを引き渡すことを拒否されます。しかしクズマは諦めずアンブロージを付け狙います。
作中人物がさらされる運命の理不尽さは、前作を上回っています。物語の中心人物は3人。父とともにクズマから逃げ回るアンブロージには、安息の時間がありません。しかも魔法使いとしての才覚がだんだんと現れてくるため、孤独は成長するにつれ深まっていきます。きちんとした訓練を受けていないアンブロージにとって、魔法の世界は理解しがたい恐怖の世界です。やがてアンブロージは精神を病んだようにまでなってしまいます。
トナカイを追ってテント暮らしをする人々の子ども「狐にかまれた子」も、物語の中心となります。トナカイを追う人々は、クズマからやはり子どもを渡すよう迫られ拒否し、アンブロージが魔法使いになるまで解けない狼になる呪いをかけられます。アンブロージがすんなり弟子になっていればトナカイを追う人々がクズマと関わることもなかったはずなので、この人々は無関係なとばっちりを受けた純粋な被害者だということになります。しかもその呪いの厄介さは、時が進むたびに全貌を現してくるのです。
そして、もうひとりの中心人物はクズマです。ある意味では、クズマの運命が最も理不尽かもしれません。魔法使いの所業は普通の人間側からみれば人さらいですが、魔法使いにとっては当たり前の生き方です。クズマが悪だとするなら、『ゴースト・ドラム』で悪に対峙する側にいたはずのチンギスやその師の魔法使いの行動も非難されなければなりません。弟子が生まれるまで200年も待ったのに運命に裏切られたクズマの悲劇性は高く、それゆえ彼の執念は暗く冷たく燃え上がります。
誰ひとりとして幸せになれそうにない理不尽な運命。しかし運命が過酷であればあるほど、それに抗おうとする人間の願いは輝きを増していきます。そこがこの作品のみどころです。30年近く待たされた読者の飢え渇きは、最高のかたちで満たされました。

『うちの弟、どうしたらいい?』(エリナー・クライマー)

うちの弟,どうしたらいい?

うちの弟,どうしたらいい?

父が亡くなり、母が「弟をたのむわね」という無責任な言葉だけを残して家出したため、12歳のアニーは祖母と弟のスティーヴィーと3人で暮らしています。祖母は怒りっぽく、スティーヴィーは問題ばかり起こすため、アニーの気苦労は絶えません。ところが、スティーヴィーの担任がストーバー先生という若い女性に変わってから、変化の兆しが訪れます。しかしそのストーバー先生もふたりの前から姿を消してしまいます。アニーはスティーヴィーとふたりだけで長距離列車に乗り、ストーバー先生が住んでいるらしい場所まで旅をしようと決意します。
さて、ストーバー先生の住んでいる場所は、圧倒的善意に満ちた別世界でした。そこの人々は駅から出て途方に暮れる姉弟ナチュラルに手助けして、ストーバー先生の家まで導いてくれます。ストーバー先生の家はアニーが想像していたような裕福そうな家ではありませんでしたが、幸福感に満ちた場所でした。
この旅によって、姉弟に目にみえる具体的な変化があったわけではありません。しかし、チルチルとミチルが旅を通して青い鳥が元々家にいたことを「発見」したように、確かな内面の変化は達成されるのです。
原書の発表は1967年。現代の観点からは甘すぎる話のようにみられるかもしれませんが、このようなスタンダードな美談はいつの時代も必要です。

『俳句ガール』(堀直子)

俳句ガール

俳句ガール

「ぼけぼけ」になってしまった祖母の世話で母親が家を出ることが多くなったので、小学4年生のつむぎはいつも家事の手伝いで大忙し。学校では変わり者のミナミとつるんでいて、クラスの中心から外れています。祖母がデイサービスで通っているホームで俳句を楽しんでいることを知ったつむぎは、ある日の放課後むしゃくしゃした気持ちを黒板にぶつけ「赤とんぼ ちぎれた羽を かえしてよ」と俳句らしきものを刻みます。ところが翌日学校に行くと、つむぎの言葉に返事をするように「赤とんぼ 食うネコののど なめらかだ」という俳句が隣に書かれていました。
つむぎともうひとりの犯人の犯行の本質は、教室にふたつのものを密輸入することでした。ひとつは芸術、もうひとつは匿名性です。これにより、学校の秩序が混乱します。やがて先生の発案でクラスで俳句大会が開催されることになりますが、その評価法は作者を伏せたうえでの投票になりました。ここで、スクールカーストに地位を保証されていた子どもたちははしごを外されてしまい、ふだん目立たない子が通常では許されない逆転の可能性を得ることになります。学校の制度を攪乱することを狙った、なかなか戦略的な設定です。
作中に出てくる、小学生がつくったという設定の俳句がそれほどうまいようにはみえないのがいいです。技巧を凝らすことよりもまず感情を表出することが大事だというのがこの作品の眼目のはずですから、そこのが舵取りが成功しているといえます。

『怪盗ネコマスク 真夜中の小さなヒーロー』(近江屋一朗)

ぼくたちは弱い。
弱くてかっこわるい。

猫のパワーを身につけることができる不思議なマスクを手に入れた小学6年生三毛ハルトは、同じような動物のマスクを持つネズミと白キツネと出会います。どうやら強い動物のマスクがあるとさらにパワーアップできるらしく、強力なツキノワグマのマスクの争奪戦が始まります。
主人公のハルトは、勉強も運動も苦手で虚弱体質。彼の虚弱さは軽くギャグタッチで描かれていますが、内容はガチです。虚弱体質の子どもにとっては、体育の授業そのものが暴力でしかないということを描いてしまっています。
そんなハルトですが、同じく運動の苦手なモッチーと仲良くしていました。このふたりはお互いにかばいあう優しい世界を築いています。しかし、優しい弱い者同盟には脆弱性もあります。この関係は弱い者同士でないと成立しないので、相手が弱いままでいてほしいと願ってしまういびつさを持っています。児童文庫の軽快な文体ながら、この作品は弱い子どもの暗部のかなり深いところに踏みこもうとしています。
では、変身ヒーローになって力を手に入れることができれば、弱さかっこわるさから脱却できるのでしょうか。より現実的に言い換えれば、頑強な身体が手に入れば強くなれるのか、銃を手に入れて気に入らないやつを黙らせることができるようになれば強くなれるのかという問いです。そんなことで弱さを捨てられるわけがありません。あえて変身アイテムという非現実的な要素を取り入れることで、そのどうしようもない苦さが増幅されます。
この作品は、人は弱くてかっこわるいままで生きていかなければならないという絶望とともに、弱いままで人は善き生き方ができるのだという希望も語っています。弱さに正面から向き合う作品の真摯な姿勢が、得がたい感動を生み出しています。