『天邪鬼な皇子と唐の黒猫』(渡辺仙州)

天邪鬼な皇子と唐の黒猫 (TEENS’ ENTERTAINMENT)

天邪鬼な皇子と唐の黒猫 (TEENS’ ENTERTAINMENT)

なるほど、「ツンデレ」を昔ながらの言葉で言い換えると、「天邪鬼」になるんですね。
ということで、ツンデレ(皇子)×ツンデレ(猫)の平安友情ストーリーです。主人公の人語を解する黒猫は、商人に捕まって唐から日本に連れてこられ、天皇に献上されます。天皇は息子の定省(後の宇多天皇)に黒猫の世話を任せます。こうしてふたりの宮中生活が始まりました。
以前は覇王として戦乱の世を生きていたのだという前世の記憶を、黒猫はおぼろげに持っていました。だからこの作品は、ブラック企業社畜のような過酷な人生を生きていた人が転生して幸福な生活を送る系統のライトノベルのように読むこともできます。つまり、『覇王のおれさまが転生して平安ぐうたらスローライフ』です。
黒猫の信条は、ぐうたら生活を送ること。政治の実権は藤原基経が握っているので、定省はそれほどいい身分ではないのですが、それでも命のやりとりをするほどの状況ではなく、そこそこ平和に日々を過ごしています。天皇に与えられたからしかたなく黒猫を飼うというのが定省のスタンス。自ら乳粥をつくって黒猫に与えたりもしますが、あくまでしかたなくです。黒猫の方も、おいしい乳粥にありつけるし、夢のぐうたら生活ができるから定省と生活しているのだということにしてます。ふたりのツンツンデレデレのほほえましいことほほえましいこと。
定省のほかにも個性的な人物がぐうたら生活を彩ります。定省の妻はヤバいオタク女子ばかりで、ひとりは書を読めればそれでよく定省にはほぼ興味を持っていない義子、もうひとりは勅撰和歌集作成の野望に燃える胤子。オタク女子が元気なのは平和な証拠です。
また、都の猫たちも黒猫に絡んできます。上野瞭の『ひげよ、さらば』や斉藤洋の「ルドルフ」シリーズに代表されるように、日本の児童文学にはなぜか、猫の集団が出てくると任侠ものっぽい猫猫バトルになるという伝統があります。この都でも、猫たちが人間のまねをして権力闘争を繰り広げていて、黒猫も巻きこまれます。しかしそれは、黒猫にとってたいしたピンチにはなりません。黒猫は多彩な必殺技を駆使して猫バトルを制していきます。序盤中盤で黒猫を襲う最大のピンチは、生き物は食べたら出すということに気の回らなかった定省に籠の中に閉じこめられて、「けっこうぎりぎりだった」となる場面。誇り高い猫にとっては危機ですが、まあ平和なものです。
しかし、定省が即位し基経との対立が激化すると、物語は急にシリアスになります。ここで黒猫が定省にストレートな献身をみせ、クライマックスは涙なしには読めないくらい熱く盛り上がります。
周知の通り、著者の渡辺仙州は中国文学に精通している人物です。それはつまり、娯楽小説の王道を知り尽くしているということでもあります。その教養がこの作品でも遺憾なく発揮されていて、これぞエンタメという作品になっていました。

『わたしの全てのわたしたち』(サラ・クロッサン)

2016年のカーネギー賞受賞作。グレースとティッピは結合双生児として生まれました。ふたりは家庭で教育を受けていましたが、有志の人たちの寄付金が途切れてしまったので、16歳にして初めて学校に通うことになります。ふたりの新生活がグレースの視点から詩の形式で綴られます。
弱者を苦しめるのは貧困なのであるということが、容赦なく描かれています。ふたりには幼いころ凶暴だったのでドラゴンというあだ名をつけられた妹がいます。この妹がとてもいい子なのですが、グレースは自分たちにお金がかかるためにドラゴンに不自由な思いをさせていることに負い目を感じています。そして、のっぴきならないところまで困窮が進んでしまうと、自分たちを見世物として売るという昔ながらの手段をとらざるをえなくなります。
ふたりは心の支えになるものも持っています。それは、過去の結合双生児たちに関する知識です。歴史の蓄積が弱者の励ましになっているわけです。
この作品は詩になっているので、翻訳は人気詩人の最果タヒが担当しています。この起用が功を奏していて、読者の感情を強く揺さぶるようになっています。特に終盤で多用された、文章を四角く固めて読者の視界に一気に激情をたたみかける手法が効いていました。
ただし、うまさは目立ちますが、ではこの作品はかわいそうな人を見世物にするエンタメを乗り越えるようなにかを持っていたのかという点についてはよくわかりませんでした。たとえば、「死ぬまでにやりたいことリスト」なんかが出てくると、またかよ感は否めません。そのあたりが本国でどう評価されているのか気になるところです。

『みつきの雪』(眞島めいり)

みつきの雪 (文学の扉)

みつきの雪 (文学の扉)

第21回ちゅうでん児童文学賞大賞受賞作。そして、至高の学校図書館小説です。
信州の寒村に住む高校生3年生桑島満希の、卒業式前日の物語です。満希は卒業式の予行後に、しばらく疎遠になっていた野見山行人という男子と顔を合わせます。彼は小学5年生の冬に山村留学生としてやってきて、そのまま小中高と同じ学校で過ごしていました。満希は行人とふたりで、母校の学校図書館に行くことになります。そして、ふたりの7年あまりの日々がゆったりと回想されます。
小学4年生のときの満希は、山村留学に来たイズミちゃんと仲良くしていました。イズミちゃんは山村留学のパンフレットに書いてあるように〈豊かな自然の中でのびのびと成長〉しているようにみえました。しかし、満希に黙ってイズミちゃんは突然東京に帰ってしまいます。絵に描いたようなニセモノに裏切られた経験を持つ満希は〈お客さん〉への警戒感を持つようになり、5年生のときに山村留学に来た穏やかな人格者の行人にも壁をつくっていました。しかし、雪玉を投げているうちに手袋をなくすというふだんのイメージと異なる行動をしていた行人と関わったりしているうちに、ふたりのあいだの距離は変化していきます。
地元での就職が決まっている満希と、都会の医大へ進学する行人、そんなふたりの別れの場面の舞台として、学校図書館は最適です。ここは知の回廊、外の広い世界に最も近い場所です。〈4類 自然科学〉〈9類 文学〉、歩くたびに人類の知をめぐり、同時にふたりの思い出も脳内でめぐることになります。ふたりにとっては、中学3年生のとき図書準備室にある裁断機をいじっていて満希がけがをしたという、身体的にかなり痛い思い出のある場所でもありました。
特筆すべきなのは、新人離れした描写力です。圧巻なのは、図書館でふたりが握手する場面。紋切り型の表現を避け、特別な時間が丁寧に描かれます。これは小学生のときの手袋のエピソードが布石になっているわけで、ふたりの時間がここで静かに一気に解放されます。
雪の冷たさのなかにちょうどよい体温のぬくもりと与えてくれるような文章です。文章の魅力でここまで読ませてくれる新人は、めったにいません。ぜひ書き続けてもらいたいです。

『トリコロールをさがして』(戸森しるこ)

トリコロールをさがして (ポプラ物語館 80)

トリコロールをさがして (ポプラ物語館 80)

トリコロールはまじりあわない、三色旗の三色は独立している、当たり前といえば当たり前のことですが、親密な人間関係のなかではその独立性が侵犯されるかのような幻想を持ってしまうこともあります。そうした幻想の甘さに溺れず、現実的な人と人の距離感を検証したことがこの作品の成果です。
小学4年生の真青は、2歳上の幼なじみの真姫ちゃんのことが大好き。でも真青に対する真姫ちゃんの態度は、だんだん冷たくなっていきます。おしゃれが好きな真姫ちゃんは、トリコロールという小学生に人気のファッションブランドのデザイナーの娘真白ちゃんとばかり仲良くしています。トリコロールが真姫ちゃんを変えてしまったと思った真青は、単身トリコロールのお店に潜入しようとします。
真姫ちゃん側からみても、この関係はつらそうです。小学校中学年・高学年にもなれば妹や弟がつきまとってくるのはウザくなってきます。まして年少の他人の相手など、よほどの聖人でなければ難しいはずです。
人間関係は無常で無情。過去にいくら仲良くしてても、いったん変化したものは元に戻せません。三人組は「ふたりプラスひとり組」になっていくとか、人が悪口をいっているときにはそんなことないとか反論してはいけないという謎ルールとか、作品は身近なところから人間関係のシビアさを冷静に見つめていきます。
最後の場面、偶然近所で会って久しぶりに真姫ちゃんと話した真青は、横断歩道の白い部分だけを踏んで道の反対側に渡ります。こういう小学生らしい行動にあわせてしましまの不連続性という象徴性を仕込む技が憎いです。変わってしまった関係性を元に戻すことはできません。でも、新たな関係性を築けるかもしれないという希望は残ります。冷たすぎもせず、あたたかすぎもせず、適度なリアリティを持った心の距離の物語として仕上がっています。

ちょっとだけ離れてみたら、よくわかったよ。
(p150)

『月のケーキ』(ジョーン・エイキン)

月のケーキ

月のケーキ

英国ファンタジーの巨人ジョーン・エイキンの短編集。
表題作「月のケーキ」は、爆弾製作の実験の失敗で歴史のある実家を炎上させるという豪快なやらかしをしてしまった少年トムの物語。家を失ったトムは、祖父のいるウェアオンザクリフという小さな村で暮らすことになります。車より速く走るオオカミのいる森を抜けないとたどり着けない、喪失を抱えた人々が生活する村の雰囲気がいいです。そこでトムは、時間を巻き戻す魔力を持つ「月のケーキ」の作成の手伝いをさせられることになります。「槍があれば 全部やり直せる」みたいなことを吹き込む悪い大人は信用しちゃダメですよね。
抱腹絶倒の社会派コメディも何作かありました。「バームキンがいちばん!」は、娘が暇な時に考える「バームキン」という架空の存在のことを聞いたスーパーマーケットチェーンの社長が、うちの商品にはバームキンが入っていないということをセールスポイントにして商売をしようと企む話です。現実でも同じようなことをしている悪徳企業がいくつも思い浮かびますね。
「ドラゴンのたまごをかえしたら」は、観光資源として温厚なドラゴンと共生している町に騎士がやってきて問答無用で殺害する話。その後、村ではドラゴンのたまごをかえして新たな観光資源を得ようとしますが、生まれたドラゴンは前のと違って凶暴な性格だったので騒動が起こります。ノリと勢いでサクっと事態が悪い方向に進むので読んでいるうちは笑えますが、個人や集団が引き起こす現実の悲劇もこのようなノリで生み出されるということに思い至ってしまうと、暗然とした気分になります。
収録作の世界は死に満ちていて、異次元への扉が簡単に開くようになっています。そこには当然暗さや悲しみがありますが、当時に軽やかさや憧憬のような気分も共存しています。それが現実の世界のあり方なのでしょう。ナンセンス作品には、現実離れしているようでかえって現実のあり方をあぶり出す役割もありますが、この作品集はその意味でも優秀です。

『そもそもオリンピック』(アーサー・ビナード/作 スズキコージ/画)

そもそもオリンピック

そもそもオリンピック

風が語りかけます。オリンピックの歴史を。何十万年も前にヒトというイキモノが走り出したところから始まり、古代のギリシアのオリンピックを語り、そしてオダミキオという三段跳びのセンシュが世界に羽ばたくさまを振り返ります。
風はヒトの胸に入りこみ一体化します。ヒトに寄生しているのか、共生しているのか、どちらにせよ風とヒトとの関係は幸福なものにみえます。
横長の画面を贅沢に使い、風とヒトの躍動がのびやかに描かれます。スズキコージのイラストは常に祝祭の空気をまとっていますが、ここでは身体性と自然の調和によりさらに絢爛になっています。
「そもそも」の世界の、なんと豊饒なことか。それに比べて、近代のオリンピックにつきまとう国家や政治や経済の、なんとちっぽけなことか。アーサー・ビナードによる「風とともに跳びぬ」と題されたあとがきでは、1924年パリオリンピックや1928年のアムステルダムオリンピック等で活躍した織田幹雄の言葉が紹介されています。

「スポーツにはスポーツの論理がある。オリンピックにはオリンピックの考え方がある。それを大切にしなければならない。政府や周りの思惑でどうのこうのと左右されることはない。それが貫けないようならやる意味もない」
「ぼくは国旗国歌はやめた方がいいと思う」
「とにかく平和運動なら平和運動らしくするようIOCは努力すべきです。国威高揚だ、メダルをとった、と大騒ぎするのは、オリンピック精神に反すると思います」

『SFショートストーリー傑作セレクション 宇宙編』(日下三蔵/編)

日下三蔵編による児童向け短編アンソロジーが、めでたく2期に突入しました。2期の第1弾となる「宇宙編」収録作は以下の通りです。

小松左京「宇宙鉱山」
眉村卓「時間と泥」
石原藤夫「バイナリー惑星」
筒井康隆「星は生きている」
光瀬龍「宇宙救助隊二一八〇年」
星新一「処刑」

なんという美しいラインアップ、構成なのでしょうか。まずは「宇宙鉱山」、超巨大スケールの宇宙構造物で殴りつけます。そして、おもしろ宇宙生物を次々と繰り出し、人類の常識をどんどん破壊していきます。
最後には星新一作品のなかでも人気の高い「処刑」を配置。銀色の玉ひとつを渡して赤い惑星に犯罪者を置き去りにするという、残酷な刑罰の物語です。銀色の玉のボタンを押すとコップ1杯の水を手に入れることができますが、ある回数ボタンを押すとそれは爆発して確実に死を迎えることになります。なによりおそろしいのは、爆発までの回数は銀色の玉ごとに異なり、何回で爆発するのか受刑者には知るすべがないということでした。この上ない恐怖の物語であり同時に至高の救済の物語でもあるこれを宇宙もののSFアンソロジーの最後に配置するセンスには、おそれいるしかありません。
小松左京に始まり星新一で終わるとは、つまり完璧ということです。罪深い日下三蔵は、またしても多くの若者を決して這い上がることのできない沼に沈めてしまうことになるのでしょう。今後は「超能力編」「怪獣編」「破滅編」の刊行が予告されています。これからもこのシリーズから目が離せません。