『金の鍵』(ジョージ・マクドナルド)

金の鍵

金の鍵

人間は、ふつう、だれでも、性質の異なる二つの世界に関心を持っています。その一つは、日常の世界、自分の五官によって知ることのできる世界です。二つめは、自分の想像によって創り出すことができるだけでなく、創るのをやめようと思っても、やめることのできない世界です。(中略)
自分の五官を通して受け取る世界がすべてで、それ以外の世界を想像することのできない人は、人間と呼ぶに値しませんし、自分が想像した世界を、五官で受け取る事実から成り立つ世界と同一視してしまう人は、正気を失います。
(W・H・オーデン「作品によせて」より)

『金の鍵』と『かるいお姫さま』の愛蔵版が同時刊行。ジョージ・マクドナルド作です。モーリス・センダック絵ですよ。そして、この高級感あふれる装丁。どんな言葉を付け加える必要があるでしょうか。
そもそも、わたしのような浅薄な読者はW・H・オーデンの「作品によせて」によってほとんど口を塞がれているようなものです。現代心理学の影響でおとぎ話の象徴狩りをするのは致命的であると、あらかじめ釘を刺されているのですから。
大伯母さんから虹のはしっこで金の鍵を見つけることができると教えられた男の子は、妖精の国を囲う森に虹が架かっているのを発見し、近づいていきます。日が落ちても虹が燃え続けるという現実離れした光景に圧倒されたら、あとは夢幻の世界に落ちていくだけ、それだけが読者にできることです。

『子ども食堂 かみふうせん』(齊藤飛鳥)

子ども食堂 かみふうせん

子ども食堂 かみふうせん

ハードボイルド小学生が主人公の『へなちょこ探偵24じ』で独特の語りの世界をみせた齊藤飛鳥が、今度は子ども食堂というタイムリーでストレートな社会派ネタを繰り出してきました。八百屋さんが営んでいる子ども食堂に通うことになる4人の子どもが語り手を務める連作短編の形式になっています。
はじめの主人公の麻耶の語りは、世界名作劇場のポジティブ系主人公の語りのような浮ついたものでした。ここで『24じ』を経由している読者は、さっそくいやな予感を抱かされることになります。この子、つくってやがるな、と。子ども食堂にほかの子どもが入ってくる場面のセリフで、読者の予感は確信に変わり、だいたい麻耶の境遇は想像できるようになっています。
当たり前のことですが、子どもにはプライドがあります。だから、認めたくない現実を糊塗するために、語りを取り繕います。語りを仮装することは、つらい現実を生き抜くために武装することと同義です。齊藤飛鳥の児童文学作家としての資質は、子どものプライドのあり方の機微がわかっているところにあります。
当然ながらこの語りは、大人の作家が子どもの語りを仮装したものです。ただし、作中の子どもは、自らの語りを仮装しています。つまりここでは、語りを操作できるまでに確かな主体を持った存在としての子どもが発見されているのです。
現実の子ども食堂も抱えている悩みですが、子ども食堂を困っている子どものための場所とアピールしてしまうと、困っている子どもほど行きにくくなるというジレンマがあります。それを解消するため、この作品でもそれほど困窮しているわけではない子どもの居場所としての子ども食堂のあり方を描いています。第3章の主人公の悠乃は、TRPGのオタクの家族の影響を受け自分もいっぱしのオタクになっていました。悠乃は子ども食堂で趣味の布教をし、特技を生かし自分を解放する居場所を得ます。
齊藤飛鳥は、TRPGの教養も持っていたようです。TRPGといえば、演じることと物語を作ることを同時におこなう非常に洗練された趣味です。さらに、2018年には第15回ミステリーズ!新人賞も受賞しています。こういった教養を持つ作家が今後どんな語り・騙りをみせてくれるのか。ぜひ児童文学界に定着してもらいたい人材です。

『詩人になりたいわたしX』(エリザベス・アセヴェド)

詩人になりたいわたしX

詩人になりたいわたしX

カーネギー賞・全米図書賞(児童文学部門)他、多数の児童文学賞を受賞しているアメリカのYAの邦訳が登場。主人公のシオマラは、ドミニカからの移民の二世で、ニューヨークのハーレムで暮らしています。口より先にこぶしで語るタイプの子ですが、内面には言葉があふれていて、双子の兄からもらったノートに詩をしたためています。
天才肌だがひ弱でいつも自分に守られている兄への愛憎に悩んだり、恋に悩んだり、スポークンワードポエトリーという表現の活動に出会って自分の世界を広げたり、シオマラの15歳の日々は悩みと楽しみであふれています。そのなかで物語の主軸となるのは、恋も表現も許さない母親との確執です。
母親はとある宗教の熱心な信者で、女子は貞淑であることが第一であり結婚するまで交際などありえないと信じていました。信仰と児童虐待が結びつくという非常にデリケートなテーマを取り扱っています。
シオマラと母親の親子ゲンカは暴力でなく対話のかたちで展開されます。しかし、それが本当に対話として成立しているのかどうかは判然としません。シオマラは自分の詩で思いを伝えようとしますが、母親は聖書の詩を唱えるだけです。この壁の前には、シオマラの言葉はあまりに無力です。そして母親の呪文は、表現と心を焼き尽くす絶望となります。
シオマラが戦っているのは母親だけではありません。母親の信仰しているのは、女性は誘惑に弱いとしつつ処女崇拝をしているという、性差別的な面も持つ宗教です。母親の背後にあるのは男性原理であり、母親も被害者であるという複雑な構図になっています。
そんな難しい問題に取り組んでいますが、シオマラとその周囲の人間との関わりを丁寧に描いているので、人と手を取り合うことで問題の解決に近づけるという向日的な結論に一定の説得力が与えられています。本国で高評価を得ているのもうなずけます。

『カメくんとイモリくん 小雨ぼっこ』(いけだけい)

カメくんとイモリくん 小雨ぼっこ

カメくんとイモリくん 小雨ぼっこ

山の水源近くに住んでいるカメくんとイモリくんは、大のなかよしでした。しかし、大雨でイモリくんの家は流されてしまい、ふたりは離ればなれで暮らすことになります。
最初のエピソードは、カメくんがアナグマさんのバスに乗って遠く離れてしまったイモリくんの家を訪ねようとする話です。かばんにつめる荷物をどんどん列挙するという童話のお約束をきっちりこなす導入部が手堅いです。ところがカメくんは心配性で、なんども荷物確認を繰り返します。そして結局バスに乗り遅れてしまいますが、最高の結末を迎えます。
作品世界はとにかくゆるくて平和的。カメくんイモリくん以外の山の住人たちもみな善良です。特に印象に残るのは、カメくんのご近所さんのオオサンショウウオのおじいさんと、イモリくんのご近所さんのヒキガエルの長老です。このふたりも幼なじみでしたが、カメくんとイモリくんと同じような経緯で離ればなれになっていました。でも、いまでも友情は続いています。カメくんとイモリくんの友情も同様に続くのだという安心感を持たせてくれる嬉しいエピソードです。
この作品のいちばんの功績は、ひなたぼっこならぬ小雨ぼっこという言葉を発明したことにあります。両生類のふたりにとっては、天気雨に打たれることがなによりの喜び。雨と日の光と同時に浴びてうとうとする時間の豊かさは、かけがえのないもののように感じられます。

『インディゴをさがして』(クララ・キヨコ・クマガイ)

インディゴをさがして

インディゴをさがして

色のなかで、いちばん最後に名前がついたのが、藍色(インディゴ・ブルー)でした。
この色は、世界のたくさんの言葉で、それぞれちがうふうによばれていたのです。
たとえば……
「青リンゴ色がまじったベルリンブルー」とか、
「春のおわりのたそがれどきの色」とよばれることもあれば、
ただ「愛」という言葉でかたられているところもありました。

様々な文化が混成されてできた贅沢な作品です。著者はアイルランド人の母と日本人の父を持つ、カナダ生まれの作家。その作家が日本の染織家志村ふくみから着想を得てこしらえたのがこの作品です。本のはじめには志村ふくみの詩も掲載されています。そして、素材は「色」というあらゆる文化を越える世界共通言語です。
主人公は、色を見つけ話しかけることができるインディゴという少女。彼女は王から、永遠の命を与える力を持った色の探索を命じられます。
インディゴは、未発見のその色はさかいめの世界にあることを知ります。海の深いところにある色、虹のいちばん深いところにある色、昼と夜のさかいめの時間に山頂のかげの真上をただよう色。さかいめとは、童話が最も得意とする神秘の世界です。
地上のあらゆるものを手に入れた権力者が最後に不死を求めるのは、古今東西共通です。しかしこの王は、願っていたはずのそれを手にしかけるとひるんでしまい、結局逃げてしまいます。世俗の権力者ごときにさかいめの神秘の世界はふさわしくないのです。
作品のテーマは、まさに神秘そのものです。神秘の世界と読者の橋渡しをできる童話の力をみせつけるような美しい傑作でした。

『けむりの家族です』(杉山径一)

1970年、太平出版社刊*1。現在ではまず出版できなさそうな昭和アングラ児童文学です。語り手の少年泰男が次々と奇怪な人物に出会い、やがて奇人たちはひとつの家族であったことが判明、その家族が原っぱでのろしを打ち上げUFOを呼び出そうとする場面がクライマックスになるという構成の作品です。
泰男が遭遇するのは、初手から異次元の人物です。ある夕方、泰男は白タクの運転手から団地まで送っていってやると言われ、乗りこんでしまいます。乗る前から子どものような声の運転手だと不審に思っていましたが、顔を見ると本当に小さい子どもでした。昇一平と名乗る子どもは、自分は学校に通っていないとか家がないとか理解しがたい身の上を語り、泰男と友だちになりたがります。次に出会ったのは、星ともこと名乗る男装女子の占い師。彼女もなぜか泰男が友だちになってくれそうだと言います。
占い師と出会ったその次の日には、駅前で「宇宙つうしん」とやらについて演説している男を目撃します。しかし男は人々の方を向かず、壁に向かって話しています。男にはコミュニケーションの意志があるのかどうか判然としません。この男が昇一平と星ともこの父親で、空知信平と名乗っています。彼らは全員で6人家族で、マイクロバスを住処にしています。そして、全員異なる名字を持っています。夫婦別姓どころか家族全員別姓という超進歩的な家族です。
チャネリングは、冷やかしの人々が見守るなか、団地近くの原っぱで決行されます。団地のそばになにもない空間が広がっている昭和の風景は、寒々としていますが不思議な懐かしさが感じられます。のろしに使われるタドンには動物のフンが混入されていて、異様な臭気を漂わせます。さらっと書かれていますが、そのなかにはオオカミのフンもあるそうです。昭和40年代の日本でもオオカミのフンは入手難だったと思われますが、ここでも家族のアウトサイダー性が強調されます。
周囲の人々の目は冷ややかです。泰男の兄などは、21世紀の出版物ではまずお目にかかれない単語を連発して、家族を罵倒します。団地の住人が開いた緊急集会では、児童労働はよくないなどと正論が吐かれますが、その裏には場当たり的な排除の論理しかないことは明白です。
ところで、太平出版社から刊行された書籍版は、この作品の完全版ではありません。物語の冒頭、泰男は父親にねだってテープレコーダーを買ってもらったことを報告します。その入手目的はこの事件の顛末を吹きこむためであり、文章はその下書きにすぎないのだと述べます。つまり、この作品の本体はテープに録音された音声であり、文章で書かれたものは不完全な模倣品でしかないのです。伝達の手段を選んでいることから、泰男には明確な伝達の意志があるのだということがわかります。
泰男の語りは家族に肩入れしているので、大多数の読者は家族に同情的になるものと思われます。では、本体の音声を聞いてしまったらどうなるのでしょうか。それを聞くことは、洗脳に近い体験になるのではないでしょうか。この作品の本体は、世に出なくてよかったのかもしれません。

『けんこうだいいち』(マンロー・リーフ)

けんこうだいいち

けんこうだいいち

マンロー・リーフの『けんこうだいいち』が、復刊ドットコムで復刊されていました。『おっとあぶない』や『みてるよみてる』のようなマンロー・リーフのこの系列の作品は、危険なことや悪いことをしている人を軽妙なユーモアで揶揄することで、子どもをよい方向に導こうとしています。この手の作品は教育臭が子どもに見抜かれてしまうと失敗しておしまいになってしまうことが多いですが、マンロー・リーフ作品はユーモアセンスとゆるいイラスト、そして渡辺茂男の名訳によって成功を収めています。何度も復刊されていることがその証明です。
改めて読んでみると、基本の基本だけど大事なことを厳選して紹介するスマートさに驚かされます。牛乳を飲もう、手を洗おう、睡眠をよくとろうと。
そして、健康のための行動ができない者を「まぬけ」としてこきおろします。このご時世、子どものお手本にならない大人が多いですから、新しいまぬけをつくりたくなりますね。感染症が流行しているのに多人数での会合をやめられない「かいしょくまぬけ」とか、危機に乗じて目立とうとして現場でがんばってる人の足を引っぱったり不正確な情報を流したりする「あまがっぱまぬけ」「うがいぐすりまぬけ」とか。
ただしこの本、現代の視点でみれば思いやりがないように思える面もあります。たとえば、アレルギーのある子は牛乳は飲めないので、それを「すききらいまぬけ」と呼ぶのは不当でしょう。そのほかにも、さまざまな事情により一般的に健康によいとされることができないケースは考えられます。いまこういう本を作るなら、それなりの配慮は必要になるだろうなとは思いました。