『あしたの幸福』(いとうみく)

あしたの幸福

あしたの幸福

現代の児童文学界で最も明確に母親に対する殺意をあらわにしているのは、いとうみくでしょう。より正確にいうなら、「母親」という概念に対する殺意です。『カーネーション』(2017・くもん出版)では、「母親」というものは子どもを愛するものだという常識を徹底的に叩き潰しました。『あしたの幸福』では別の方向から「母親」概念を解体しようとしています。
雨音は父親とふたり暮らしでしたが、事故で父親をあっけなく喪ってしまいます。父の婚約者の帆波さんか父の姉の洋子おばさんが引き取り手の候補でしたが、結局雨音を産んだ国吉さんと同居することになります。
国吉さんは雨音が産まれてすぐに家から出ていってしまったので、雨音は「母親」だとは認識していません。おばあちゃんは国吉さんのことを「欠陥人間」と評していました。
国吉さんは自分は「空気が読めない」人間であると断り、淡々と同居のためのルールを事務的に取り決めていきます。国吉さんがいわゆる「母親」として振る舞うことのできない人間であることは、すぐに明らかになります。岩瀬成子の近作『わたしのあのこ あのこのわたし』もそうでしたが、親になる資質に欠けている人間は早めに撤退するか最初から家族にならないという選択肢を提示する現実性が、最近の児童文学のトレンドになっているようです。
国吉さんは決して悪人ではなく、むしろ学校で教わった道徳を愚直に信じているようなずれた善性を持っています。国吉さんは「母親」にはなれませんが、保護者の役割はしっかり果たすことができます。雨音は国吉さんの「逆に」いいところを発見していき、母娘ではない関係のあり方を模索していきます。
作中で描かれるのは、雨音と国吉さんの関係だけではありません。雨音の友人でうつ病の母親の世話をしているヤングケアラーの男子が出てきたり、なんやかんやあって帆波さんも同居することになったりと、雨音の周囲には大変なことが続きます。この作品も多様な家族のあり方を考える児童文学として、高く評価されそうです。

『きみのいた森で』(ピート・ハウトマン)

きみのいた森で (海外ミステリーBOX)

きみのいた森で (海外ミステリーBOX)

2019年のエドガー賞児童文学部門を受賞したSF児童文学。森で遊ぶのが大好きな少年スチューイは、おじいちゃんからひいおじいちゃんの話を聞くのが大好きで、密売人だったというひいおじいちゃんに憧れて人殺しの密売人になりたいと思っていました。おじいちゃんが亡くなった翌年の9歳の誕生日の前日に、スチューイは運命の出会いを果たします。同じ誕生日の女子エリーと出会い、すぐに親友になります。
物語の序盤のみどころは、ふたりが森で遊ぶ場面です。妖精や幽霊の存在を半ば信じているふたりの空想遊びの楽しそうなこと楽しそうなこと。しかも森には、迷彩服を着てキノコをあさる怪人キノコ男も出没します。ふたりの秘密の場所が同じであったという偶然も嬉しいです。スチューイにとっては倒木のテントで、エリーにとってはローズ城。これは、同じはずの事象が認識によって異なってしまうというSF的なテーマの布石ともなっています。
物語が動くのは、森のなかでエリーが行方不明になってから。あるいは、スチューイが行方不明になってから。ここでなぜか、エリーが行方不明になった世界線とスチューイが行方不明になった世界線が分岐してしまい、森のその後の運命も変わってしまいます。引き離されたふたりは再会することができるのか、SF的なエモが中盤から物語を引っぱっていきます。
家族の歴史の精算もテーマに組みこみつつ、世界を修復するということについてSFと児童文学のふたつの側面から斬りこんでいく仕掛けがうまいです。エンタメ性も十分で、エドガー賞受賞も納得です。
ところで、印象的な登場人物キノコ男の名前が著名なSF作家と同名のグレッグ・イーガンになっているのですが、これは間違いなく故意に名づけたのでしょうね。

『夜叉神川』(安東みきえ)

夜叉神川

夜叉神川

安東みきえの短編集。
第1話の「川釣り」は、釣りという共通の趣味があったことからクラスの人気者の辻くんとふたりきりで遊ぶことになった少年の話です。辻くんは堂々たる性差別主義者で、狩りは男の仕事であると語り、要領の悪い少年に対し侮った態度をとります。少年はそんな辻くんに追従しています。がっちりした体格に似つかわしくない女子のような顔・赤い舌の辻くんを見つめる視線から、少年が辻くんに性的魅力を感じているようにも受け取れます。サバイバルナイフを持って猫殺しをするという少年犯罪者像は90年代の古い類型から抜け出せていません。しかし、ホモソーシャルな空気の醜悪さを描く手つきには鬼気迫るものがあります。
第1話が闇BLなら、第3話の鬼ヶ守神社は闇百合です。奈津と苺は、美少女のリョウを崇拝していました。リョウは劇団のオーディションを受けることになります。そして奈津は、苺がリョウのライバルの子を丑の刻参りで呪っているらしいことを知ってしまいます。
女性が恋に狂って人外に堕ちるというのは説話や民話の世界の類型で、現代では性差別的とも受け取られかねません。奈津の理解は、神と鬼・善と悪は表裏一体、好くことと呪うことは表と裏と、薄っぺらいです。
薄っぺらさでいえば、第4話の「スノードロップ」が一番です、わざとみんなから嫌われるような行動をとっている孤独な老人に自殺して悪い理由を問われた少年が、「命は、自分だけのものじゃないです」と、小学校の校長先生の講話かよってくらい薄い回答をします。もちろんここで子どもが衆人を納得させるような立派な回答を出してしまったら、リアリティに欠ける話になってしまいます。この薄さにこそどうにもならない現実の重みが宿っています*1
さっきから類型的とか薄っぺらいとか褒め言葉にみえない語を連発していますが、これは反転すれば武器となります。薄っぺらさこそが人間の本質であるという残酷な事実を、作品はあぶり出しているのです。その薄ら寒さを白日の下にさらしてしまう筆致の鋭さを、安東みきえは持っています。

『オン・ザ・カム・アップ  いま、這いあがるとき』(アンジー・トーマス)

白人警官が黒人に暴行をはたらき、その動画が拡散され公正を求める声が巻き起こる、こんな展開を我々は、現実でもフィクションのなかでも何度も目にしました。ただし、受け手の理解が浅い場合、これは単純な正義と悪の戦いとして娯楽のように消費されるおそれがあります*1。この作品は、そんな浅薄な理解を許さない複雑さを描いています。
主人公のブリは、若くしてギャングに殺された伝説のラッパーを父に持つ高校生。自身もラッパーとして成り上がろうと活動しています。ブリの通う学校は多様な生徒を受け入れることを売りにしていましたが、それは補助金目当てで、実際は黒人やラテン系の生徒を金づるだが厄介者だと見做していて差別的に扱っていました。ブリも白人の警備員から暴行を受けます。
ブリの仲間は、暴行現場の動画を公開することで抵抗運動を広げようと提案します。しかしブリは、イメージキャラクターにはなりたくないと拒否します。一方、ブリを芸能界にいざなおうとする人々は、粗暴な黒人というキャラづけで売り出そうと、ひどい歌詞のラップを披露するように強要します。ブリが戦っているのは、それが善意から出たものであれ悪意から出たものであれ、個人を記号にしようという動きです。
作中では様々な要素が錯綜しています。貧困・薬物依存・暴力、ブリの友人には当たり前のようにゲイの子もいます。少し要素を刈りこんでもいいのではと思われるほどですが、これらすべては現実の複雑さを描ききるために必要不可欠なものになっています。そしてその複雑さのなかからサイドストーリーとして、ブリのロールモデルとなる戦う女性たちの姿が浮かび上がってきます。
ひとりは、ブリの叔母のプーおばさん。ブリのマネージャー役をしていて、ブリとはとても親しくしています、しかし一方で薬物の売人の顔も持っています。ブリの母には薬物依存歴があるのになぜこんな仕事をしているのか、ブリはこの点に関しては叔母に不信感を抱いています。あえて暗い世界に身を置き犯罪に手を染めながらも信念を貫き通す彼女には、いぶし銀のヒーロー性があります。
ブリの母親のジェイも、戦う女性です。シングルマザーであることや薬物依存歴があることなど差別の口実にされる要素を何重にも抱えている彼女の生活は、家族とともに生き延びるだけでも過酷な戦いです。そんななかで誇りを失わず生きる彼女の強さには、感服させられます。
プーおばさん・ジェイ、そしてブリ。過酷な現実と戦う女性たちの姿を描いたことが、この作品の大きな成果です。

*1:これはあくまで受け手の側の問題であって、『ザ・ヘイト・ユー・ギヴ』『キャラメル色のわたし』『オール・アメリカン・ボーイズ』のような人種差別をテーマにした近年の翻訳児童文学・YAはそれぞれ考えこまれてつくられた作品であったということは付け加えておきます。

『クルミ先生とまちがえたくないわたし』(令丈ヒロ子)

しっかり者のモトキは、父親とふたり暮らし。小5から小6の春休みに父親に4日間の出張の予定が入りました。そんなときはいつもおばあちゃんに預けられることになっていましたが、いまは入院中。そこで、父親のいとこで医者のクルミ先生に預けられることになります。モトキはドラマに出てくるような「白衣の似合うクールな美人ドクター」をちらっと妄想していました。しかし迎えに来たのはロン毛のチャラいお兄さん看護師で、草木が生い茂っているクリニックには昔の字で「醫院」と書かれてるのでなんか怖い。そして肝心のクルミ先生は、ボサ髪で大口を開けて寝ていて「おなかすいたお……」と寝言を言っているという有様。モトキのドリームはすぐに粉砕されてしまいます。
見た目はアレなものの無骨なサムライスタイルで仕事に取り組むクルミ先生に、モトキはすぐに惚れこんでしまいます。クリニックが経営難であることを知ったモトキはポスターを作るなどしてクリニックを再生しようとします。しかしポスターの文面に病気が治ることを確約するような表現をするのはダメと全否定されてしまったことから、モトキの「まちがえたくない」心性が爆発してしまいます。
ワンミスで全てが終わってしまうと思ってしまうのは、子どもならではの視野の狭さによるものです、さらにモトキの場合は、周囲の環境にワンミスが許されないと思いこまされている面もありました。こうした子どもの思考の極端さに踏みこんでいく令丈ヒロ子の観察眼はさすがです。
さて、作品は他の令丈作品と同様、現実的な調整の積み重ねで問題を解決していく方向に進みます。そして、ワンミスが人の死につながってしまう医者という職業の職業倫理という難しい問題にも、平易な言葉で取り組んでいきます。令丈作品は情緒よりも合理性を優先させるので、こういったデリケートな展開も安心して読み進めることができます。
作品世界の価値観はフラットです。クルミ先生の家事能力の欠如は女子力の欠如などとはされませんし、彼女が栄養摂取に効率のよいミックスサンドを好むことも克服されるべき貧しい価値観とはされません。作中にはひとり親家庭の父親や男性看護師といったマイノリティも登場しますが、彼らも特に意味づけはされず、ただそこに存在するだけです。ここではスキルもただのスキルでしかありません。スキルはあれば便利なのは確かです。ただし、なければ人としてダメといった価値判断はされません。
こうした合理性が徹底した考え方は、冷たいと受け取られるかもしれません。しかし、ジェンダー規範などの意味不明な価値観の押しつけに悩まされている子にとっては、こうしたドライな思考の方が救いとなります。
最後は令丈作品らしく、百合で締めてくれます。短い作品ですが、令丈ヒロ子のよさが凝縮されていました。

『かるいお姫さま』(ジョージ・マクドナルド)

かるいお姫さま

かるいお姫さま

『金の鍵』と同時に、モーリス・センダックの挿絵のついた『かるいお姫さま』の愛蔵版が刊行されました。『金の鍵』はひたすら美的な世界を堪能するタイプの作品だったのに対し、『かるいお姫さま』はおとぎ話パロディで笑える要素も多いので、なじみやすいです。
発端は、お姫さまの洗礼式に呼ばれなかった魔女に呪いをかけられるというお約束どおりです。しかし、その魔法が重力を制御するものだというのは新しい感じがします。お姫さまは重力のくびきから逃れ、ふわふわ空中に浮き上がってしまうようになります。ただ、軽いのが体だけだったらまだよかったんですよね。問題は脳の方も軽くなってしまったことで、いつもけらけら笑うばかりで知性や感情が欠如していました。
センダックの描くイラストは、ここでは愉快な方向に働いています。センダックは赤ちゃんもおっさん顔に描くので、窓の外に浮かんでいる赤ちゃんのイラストはホラー味とおかしみが同居しているなんともいえないものになっています。なぜか水中では呪いから解放されることになっていたので、お姫さまはオフィーリアごっこなどを楽しんでいました。そのイラストも笑えます。
王様は呪いを解くために、中国の哲学者の知恵を借りようとします。この唯物論者と唯心論者ふたりの哲学者の屁理屈合戦も秀逸なギャグになっています。
『金の鍵』とはまったくテイストが異なりますが、こっちはこっちでよい作品でした。

『ベランダに手をふって』(葉山エミ)

ベランダに手をふって (文学の扉)

ベランダに手をふって (文学の扉)

第22回ちゅうでん児童文学賞大賞受賞作。輝には毎朝登校時にベランダから顔を出す母親と手を振りあう習慣がありました。そのことをクラスでマザコンだとからかわれ落ちこみます、ただひとりだけ、クラスの女子田村香帆だけは「あたしは、おかしいなんて思わない」といってくれました。運動会での保護者との二人三脚の場面を中盤の山場とし、輝と家族と香帆の心の通い合いが、穏やかで温かみのある筆致で描かれます。
小学5年生ともなれば親離れは自然な成長であるといえます。しかしそれがマザコンの否定というかたちになれば、悪しきジェンダー観に囚われたともとれます。マザコンとからかわれる輝はクラスの同調圧力の生け贄にされます。そこで、同調圧力に屈しない香帆という個の存在が光ってきます。
輝も香帆も父親を喪っています。親しい相手が突然いなくなってしまうという体験を持つふたりは、人生の本質が孤独であることを知っています。個と個・孤と孤の響きあいが恋の本質であるということを、作品はうまく描いています。
というような小理屈をこねる必要は、実はありません。15ページの、文章とイラストが融合してコスモスの群れのなかから初恋のイデアのようなやつが現れる場面ですでに、この作品の優勝は確定しているのですから。
男子の初恋の物語は、児童文学界では手薄な分野です。その理由は、作品を供給する側のジェンダー観の偏りによるものなのでしょう。そんななかでこの『ベランダに手をふって』や小川雅子の『ライラックのワンピース』のような新人の秀作が続いたのは、大きな希望であるように感じられます。