『おれは女の子だ』(本田久作)

ピンク色が好きなために「女の子みたいだ」とからかわれたすばるは、「おれは女の子だよ」と宣言、そのことを家で話すと姉たちからピンク色のシャツを着たりスカートをはいたりして学校に行くように強要されます。
男子が女子の姿になることで女子への理解を深めるという手法は児童文学の世界では伝統的で、山中恒の『おれがあいつであいつがおれで』はもはや古典、21世紀に入ってからの作品だと風野潮の『ぼくはアイドル?』が評判になっています。そんな伝統的な手法が使われた最新の作品がどうなるのか期待がふくらむところですが、残念ながらこの時代にこのデリケートなテーマを扱う作品としてはあまりにも思慮の浅いものになっていました。
この手の作品は、自分と異なる立場に立つことで差別の構造に気づかせなければ教育的意義はありません。ところが、すばるは女子の美点ばかりに目がいってしまいます。

女の子はひとりでもやさしいけど、女の子たちになるとすごくやさしくなる。

これでは、女子は清くあるべきであるという保守的なジェンダー規範を強化することになってしまいます。
作者ではなく主人公のすばるが書いたという設定になっているあとがきにも、ジェンダー規範を強化し性差による分断を煽ることばかりが述べられています。口先では「決めつけ」を否定しながら。「男の子は女の子よりもバカだ」「こんなバカみたいなことをする女の子は世界のどこにもいない」「スカートめくりをするのも男の子だけ」と決めつけています。
女子にもバカみたいなことをする権利はありますし、実際にバカみたいなことしている女子はいくらでもいます。「スカートめくりをする」、つまり性暴力の加害者になるのは男性の方が多いというのは事実です。しかし、スカートめくりをする、あるいは男の子のズボンを下ろして喜ぶ女の子は存在します。「少ない」と「いない」のあいだには大きな違いがあります。言葉の使い方が雑すぎます。スカートめくりをする女子の存在を消すと、スカートめくりをする女子の被害者が透明化されてしまいます。こういう問題の重大さに気づけないようであれば、デリケートなテーマを扱うのはやめた方がいいでしょう。

『ドリーム77』(金重剛二)

1969年理論社刊。導入部のイラストがよいです。大きな木の根元にトンネル状の穴が空いていてそこを機関車が通ってるという、別世界の入り口としてとても魅力的なものになっています。光一くんはおかあさんと博物館から抜け出してきたようなこの古い機関車に乗っていましたが、光一くんと目の前に座っていたおじいさんを除いたすべての乗客は眠りこけてしまいます。おじいさんは光一くんを外に連れ出し、糸を上空に放り投げてそれをつたって雲の世界に上るように促します。古い機関車からインド大魔術めいた不思議現象、子どもを別世界にいざなう手つきが非常に手慣れた感じがします。
さて、雲の上の世界で光一くんは、羽の生えた服を着て夜の世界を飛び回り人々に夢を配る役割を与えられます。空を飛ぶときの気持ちは、「あたたかい春の日に、チョウになって菜の花から菜の花へ、ゆっくりととびまわるような」と表現されています。素朴な表現ですが、子どもの生活実感にあっていて、童話の表現としては最適です。
ところが、光一くんがはじめに配ったゆめはひどく血みどろでした。妻とふたりの子どもを恐竜に食べられてしまった父親が苦労の末に恐竜を倒したものの、家族を救出するために恐竜の体をのこぎりで切ったら家族も一緒にまっぷたつという。これは、この家族は翌日交通事故に遭う運命だったので、警告のために夢で予言したのだといいます。やがて、どうも雲の上の住人は光一くん以外死者ばかりなのではということも明らかになってきます。雲の上の夢幻の世界はあまりにも陰惨でした。
タイトルのドリーム77とは、雲の上のおじいさんとそっくりな大学の先生が開発した、ゆめをつくる薬の名前です。ゆめを神聖なものと考える光一くんはこの薬の販売に反対します。このあたりの理屈はよくわからないのですが、とえりあえず作中倫理ではこの薬は悪ということになっています。しかし先生は私利私欲のために薬を売ろうとしているのではありません。大学の研究費が少ないため先生のライフワークである精神障害者を救う仕事ができなくなるので、資金調達のためにしているのです。ここで作品は、国が大学に金を出し惜しみする問題と戦うという社会派の様相も呈してきます。光一くんは大臣に請願に行きますが、こいつらじゃ話にならんと早々に見切りをつけ、草の根的な反対運動に切り替えます。このあたりは時代の空気なのでしょうか。しかし、この時代より現代の方が大学が窮乏させられていることを考えると、絶望的な気分になります。
ということで、猟奇的な幻想と社会派が両立した奇妙な作品になっています。幻想と社会派の熱が調和し、感傷的なラストがよい読後感を残してくれます。

『帰れ 野生のロボット』(ピーター・ブラウン/作・絵)

かつて無人島に漂着してサバイバルし、野生を獲得してガンのキラリという息子も得て母親になったロボットのロズの物語『野生のロボット』の続編。破壊された身体の修理のため人間の世界に戻ったロズは、農作業用ロボットとして農場に買い取られます。
物語の冒頭で多くの読者は、修理され人の手の入ってしまったロズははたしてわれわれの知るロズなのだろうかという不安を抱くことになります。人の姿が消えた後、ロズは牛舎の牛たちの前で自分の身の上を語りはじめます。そしてロズは、島で獲得したあの技能を使って人から怪しまれないようにしていたのだと明かします。ここで読者の不安は安堵に変わります。
短い章立てでストーリーはテンポよく進みます。ロズのセリフや地の文の語りは淡々としているので、引っかかるところがなく読みやすいです。それでいてたまに語り手は読者の方を向き、先の展開をほのめかすような発言をしたりします。読者のもてなし方が非常にうまい語りです。
フィクションに登場するロボットの多くは、擬人化されているものです。しかしそれは、動物やら植物やらが擬人化されるのとは意味合いが異なります。人は自分に似せてロボットを造っていますから、その営みは神が自らの似姿として人を創造したことと対応します。ロズは旅路の果てに、自分の創造主であるモロボ博士と対面することになります。『帰れ 野生のロボット』のテーマは結局、自分はどこから来てどう生きるべきなのか、どう生きたいのかという、普遍的で壮大な難問になります。作品の神話的な構造により、この難問が美的で感動的に処理されています。
ところで、モロボ博士という人名と島というキーワードを重ねると、ある有名な古典SFのタイトルが思い浮かんでくるのですが、これはあまり考えない方がいいかな。

『さいごのゆうれい』(斉藤倫)

小5の夏休み、おばあちゃんの家に預けられたハジメは、滑走路を外れ空き地に着陸した飛行機から降りてきた女子ネムと出会います。自分は「さいごのゆうれい」であるというネムを「ほごする」という名目でつけねらう「スマトラとら」の不審者と「たくはつ僧」の不審者も現れ、ハジメの周囲は急速に陰謀めいてきます。
世界の秘密を握る少女を守る一夏の冒険という、超王道の物語です。ネムはタリラリラーンみたいな状態から始まる「ゆうれいの国」の創世神話を語り、「かなしみ」や「こうかい」のなくなったハジメの生きる時代の異常性をほのめかしていきます。
斉藤倫だけあって、言葉の力は強いです。今回は特に言葉遊びにその力が発揮されていて、ネムが乗ってくる飛行機の航空会社の名前が「BON(盆) VOYAGE」だというだじゃれが笑えます。また、「スマトラとら」とカタカナとひらがなで同じ音を繰り返すのも異化効果があって、不思議な味わいを与えてくれます。
さまざまな面でうまさを持った斉藤倫がこのような王道の物語を語るので、そりゃエモくなるし泣ける話になっています。
ただ、斉藤倫のエモの強さにはひっかかるものもあります。斉藤倫は『波うちぎわのシアン』で、胎内記憶を賛美するという児童文学の書き手としては一発アウトレベルのやらかしをしています。そんな作家が「七歳までは神のうち」といってしまうときに人命や人権についてどんな倫理観があるのか、懸念が持たれます。
人の死について作中で気になるのは、252ページの「失ったひとを忘れたら、もうくり返したくないような、過去の〈かなしみ〉も、しだいに、なかったことになってしまう。そうすれば、ひとは、どんなおろかなことも、くり返せる。国や、政治家は、ひとびとを、かんたんにあやつれるようになるのですよ」という発言です。ここまでふわっとした情緒的なことばかり語ってきたのにここで政治的発言が出るのには唐突感が否めませんが、問題はその内容です。これでは「国や、政治家」に反対する立場の者も、結局死者を政治利用していることになってしまい、死者の尊厳は置き去りにされてしまいます。そもそも「国や、政治家」こそ死者を政治利用するのを得意としているものなので、この陰謀論には説得力がありません。
斉藤倫はエモを構築する技巧において、間違いなく現在の児童文学界でトップレベルの力を持っています。しかし、そのメッキの内側にあるものは、しっかり見極める必要があります。
この作品について確実に断言できるのは、西村ツチカのイラストは最高であるということです。この作品では、本文で言及されるより前にイラストで登場人物の容姿の異様さが開示されるケースが2回ほどありました。イラストは本文に従属しているではなく、本文と併走、いやむしろ先行しています。ここにはもちろん、デザインや編集上の工夫もあるはずです。この対象年齢の児童文学としては挿絵の存在感が非常に高くなっており、特に終盤の感情の爆発は最高のかたちで演出されていました。

『莉緒と古い鏡の魔法』(香坂理)

第11回朝日学生新聞社児童文学賞受賞作。影が薄い系女子の莉緒は、突然のなりゆきでアンティークショップの洋館で暮らすことになります。そこにあった小箱から人の願いを叶える力を持つが危険なチャームが飛び出してしまいます。莉緒はチャームにとりつかれた人々を助けるために奮闘します。
負の感情を増幅させる魔法的なものと戦うという設定は、女児アニメでよくみられるものです。そのため、小学生読者にはなじみやすい作品になっているはずです。
小6に進級したばかりの莉緒の当面の悩みは、新1年生の世話をするためのグループづくりでした。クラスの中心的な子どもたちはモデル体型のハイスペック女子宮野菜々海の取り合いでもめていましたが、莉緒はとりあえず所属できるグループを確保する心配で精一杯でした。気疲れして学校図書館に避難したところ、そこでこっそりマドレーヌを食べていた宮野菜々海と遭遇。「忍びの者みたいだね*1」と声をかけてきた菜々海に学校でこっそりお菓子を食べるという悪事の共犯者にされ、意気投合します。そして神社の子だから魑魅魍魎に憑かれているといじめられていた椿ちゃんも引きこんで、無事女子3人のグループができあがります。
ところが、この宮野菜々海がとんでもない魔性の女で、チャームにとりつかれるのは菜々海への感情でおかしくなる女子ばかりになります。椿ちゃんははいきなり菜々海への独占欲を丸出しにし、「わたしは菜々海だけといたいし、わたしだけ好きでいてほしいし、菜々海と同じになりたいの。菜々海が大好きなの!」と病み発言をします。さらに、クラスで菜々海の次にキラキラしている女子の音花が、高跳び*2で菜々海に勝てないことで思いつめてしまい、長い髪が跳べない原因だと思って切ろうとするまでになってしまいます。宮野菜々海、罪作りな女で困ったものです。
さて、莉緒の方の物語は、子どもは放っておくと不良化すると決めつけるタイプの毒親との対決という方向に収束していきます。勇気を出して毒親と対話を試みてもああいう結果に落ち着くというのは、現代の児童文学という感じがします。

*1:この「忍びの者」という表現が最高じゃないですか。莉緒の存在感のなさをかっこよくポジティブに言い換えていると同時に、ここが学校図書館であるという文脈も考える必要があります。つまり菜々海も『ホビットの冒険』の読者であり、学校図書館の民である莉緒と同じく瀬田貞二の子どもであるというほのめかしであるという……のはさすがに考えすぎか。

*2:高跳びで激重感情といえば、『HUGっと!プリキュア』が記憶に新しいところですね。

『はなの街オペラ』(森川成美)

大正時代、栃木から東京の音楽家の屋敷に奉公に出たはなは、そこで書生をしていた美青年響之介に導かれるように芝居の世界に入っていきます。
エンタメとしての出来は満点です。なにも持たない若者が芝居の世界に入るきっかけがああいうのであるというのもお約束通りですし、自由人の響之介と郷里の親友の兄である真面目タイプの青年、ふたりのイケメンを配置しているのもお得感があります。ストーリーの流れは読者の予想を超えません。それはつまり、期待を裏切らないということです。大正を舞台とした物語ではおなじみの破局に向かって、物語は疾走します。

「どんなつらいことがあっても、それを忘れられる。たとえ一瞬の夢であっても、そういうのってだいじじゃないのか?」
(p214)

この物語の素晴らしさは、芸術・文化の価値を称揚している点にあります。いまよりも貧富の差が激しく性差別も苛烈だった時代、戦争も暗い影を落とす時代、そんな時代にあっても一瞬の夢があれば生きていける、一瞬の夢がなければ生きていけないという真実を激情たっぷりに描き出しています。
タイトルは「街オペラ」、すなわちこれは市街劇です。誰もが絶望に打ちひしがれる破局において、虚構で現実を塗り替えるという芸術の底力をみせつけてくれます。
しかし、わけもなく芸術・文化を圧殺しようとする憲兵のようなやからは、いつの時代もしつこくわいて出るものです。現在もその勢力がのさばっているところですから、いま読まれるべき作品といえます。
この作品の主題のひとつは、芸術・文化の力。もうひとつ大きな主題として、フェミニズムがあるはずです。オペラの演目と作中人物の生き方の対比により、女性の自由な生き方を模索しています。
ただし、その視点でみた場合、最後の主人公のピンチの切り抜け方には疑問が拭えません。この作品の美点は枯れたエンタメとしての質の高さですが、その手法を使うべきでないところで安易に使っているため、作品の意図とは正反対のメッセージを発しているかのように読まれる危険性があります。そこが非常にもったいなかったです。

『シルリアのひとみ』(奥山和子)

1975年理論社刊のSF児童文学。様々な宇宙人が地球で生活している23世紀の未来を舞台にした宇宙冒険活劇です。太陽系パトロール長官の父を持つユリカは、宇宙銀行の貴重品預かり証である銀の腕輪をつけられていました。山育ちのユリカがトウキョウの銀河小学校に転校したところから物語は始まります。隣の席になった男子ジェードと仲良くなり、彼の仲間たちとともに腕輪の謎を探ることになります。その謎は、地球から三万光年離れたシルリアという星とユリカを結びつけます。
謎めいたアイテムを持っていることから、ユリカに出生の秘密があることは容易に予想できます。というか、はじめの登場人物紹介欄に「シルリア星王女イオンの娘」って書いちゃってるんですよね。だたし、ユリカは仲間からお姫さま扱いされません。宇宙船の操縦も任されますし、レーザー・ガンをかまえてトカゲ型宇宙人と対峙したりもします。
作中のネーミングがいちいちかっこいいのも魅力です。ジェードの率いるグループ名が「コールサック」、つまり石炭袋だったり、性別のない宇宙人の名前が「モルフォ・ラピスラズリ」だったり、珍しい飲み物の名前が「サリナの蜜」だったり。
イラストはまだデビューしたばかりの原ゆたかです。いまとなっては「かいけつゾロリ」シリーズで明・陽のイメージがついていますが、その明るい世界は陰影を描く確かな技術に支えられています。初期作品のこれではその面が顕著に見られます。特に、終盤に登場するシルリアの神像が、ゆるいユーモラスな顔つきなのに薄暗い神秘性も兼ね備えていて、圧倒的な存在感を放っていました。