『パラゴンとレインボーマシン』(ジラ・ベセル)

まずは、虹色のエフェクトとともに屹立するロボットのかっこよさが際立つカバーイラストを堪能しましょう。
水が不足して戦争が起こりインフレも発生して生活が大変になった近未来のイギリスを舞台にしたSF児童文学。父親が出征していて母親と窮乏した生活をしていた11才の少年オーデンは、変死した天才科学者のおじからうけついだ「もとは公衆トイレです、って感じ」の家に引っ越しします。そして、人間の相棒と人間ではない相棒との運命の出会いを果たします。
作中の空気は暗いです。生活は苦しいし、おじの死にも当然裏がありそうで、怪しげな陰謀の世界に巻きこまれていきます。転校先の学校では暴力的な生徒が威圧してきて、こちらでも気が休まりません。しかし、そんな状況であるからこそ運命の出会いの光明が引き立ちます。
人間の相棒は、おじの遺言書で「シックス・シックス」という謎めいた暗号で呼ばれていた少女です。この子は「史上最高に勇敢でかしこい女の子」で、おじの遺産をめぐる冒険の最強のパートナーになります。
もうひとりの相棒は、知性を持つロボットのパラゴン。エドワード・リアのナンセンス詩を暗唱したり手品を披露してくれたり、人間よりも落ち着いた知性をみせて少年少女を導いてくれるパラゴンの存在が、この暗い世界での一番の救いです。この作品のよさの八割方はパラゴンの魅力が担っているので、読者はとにかく、主人公と一緒にパラゴンのことを好きになればよいのです。あとは多くを語るまい。

『12歳のロボット ぼくとエマの希望の旅』(リー・ベーコン)

待望の「ハヤカワ・ジュニア・SF」第1弾が登場。エピグラフで『ホモ・デウス』の「生き物とはアルゴリズムである」という文言が引用されてるのに、まず驚かされます。ロボットたちが有害な人類を一掃して30年経ったという設定の、ポストアポカリプスものでありユートピアものでもあるという趣向のSFです。12歳のロボットXR935は、絶滅したはずの人類の女の子に遭遇し、大冒険の旅に巻きこまれます。
XR935は規則に従い、少女エマを消去しようとします。しかし、「そんなにりっぱな社会なら、どうして小さい女の子ひとりにおびえるの」というエマの問いかけにフリーズし、「人間の子どもが脅威でないならロボットは人間よりすぐれている」というロジックを組み立て、エマの消去を思いとどまります。エマに論破されたというより、XR935の方で勝手に屁理屈をこね上げて自滅しているのがおもしろいです。
旅の仲間には、さらに2体のロボットが加わります。このロボット三人組がそれぞれ気がよく好感度の高いやつらなので、読者は楽しい気分で彼らの旅に同行できます。言語ではなくモニターに映った絵で会話するSkD、人間のジョークを好む大型ロボットのシーロン、この三人組は生まれたときからソーラーパネルのすえつけという同じ仕事をしていて長い時間を共に過ごしてお互いのことを知り尽くしているのに、あくまでただの同僚であって友だちではないということになっています。
4人の旅の要素の一部を抜き出してみましょう。リンゴを食べる、衣服を得る、同じ言語を使えなくなる*1、死んで復活する。人類とそれに並び立つ知性が共生の道を探るときに、創世神話の生き直しが必要になるという想像力のあり方が興味深いです。
愉快な仲間と波瀾万丈の冒険というエンタメの基本がおさえられていて、SFとしてもさまざまな要素がちりばめられた楽しい作品でした。SFの入門としては申し分のない作品です。さすがハヤカワの選書は信頼できます。

*1:エマとロボットたちは同じ言葉を使っていますが、言語コミュニケーションのバグであり妙味でもあるダジャレや言葉遊びをXR935のみ理解できないことからこじつけています。

『時間色のリリィ』(朱川湊人)

小学5年生のロミの前に、同じ塾に通っている園内くんがおでこにシールを貼ったオチャメスタイルで現れ、「『ミコミコぷろだくしょん』って、知らない?」と意味不明な質問をしてきました。どうやら園内くんは、公園にいた昭和語を操るコスプレ少女(?)に命令されて行動している様子。少女は「大魔法使いリリィ」と名乗り魔法が使えるとのたまいますが、すぐには信じられません。しかしリリィは貼った相手とすぐ友だちになれるシールとか無限に五百円札五百円札!)を出せる財布といった魔法アイテムを使って、自分の力を証明します。なんやかんやあってロミとロミの一番の親友のミューちゃんと園内くんの3人はリリィの『ミコミコぷろだくしょん』探しを手伝うようになりますが、リリィはいつの間にか闇落ちし「くらやみリリィ」化して、リリィとも戦わなければならなくなります。
朱川湊人といえばノスタルジーとホラーです。児童文学にノスタルジーが導入されると、子どもを置き去りにして大人の思い入れだけを開陳する駄作になるケースが散見されます。信じがたいことですが、21世紀になっても原っぱ史観とかガキ大将幻想を子どもに押しつけようとする作品は絶滅していません。
ただし、朱川湊人はきちんとした娯楽小説の書き手なので、そういう心配は不要です。ノスタルジーとは、過去を美化した虚構です。それを子どもに押しつけるのは有害です。しかし、ノスタルジーのもとになるのがそもそも虚構であれば話は違ってきます。たとえばテレビの特撮や魔法少女アニメをもとにしたノスタルジーは、虚構に虚構を重ねたいわば純虚構となります。この純然たる虚構は、世代が異なっていても興趣を感じさせるものになります。この作品の構図を単純化すると、旧世代の純虚構と新世代の現実の対立・あるいは融和ということになります。
「くらやみリリィ」の魔法は、かなり怖いです。しかし、キャラクターのゆるさや小道具のゆるさにより、怖さシリアスさは十分に確保しながら同時に気を抜くバランスがすばらしいです。「くらやみリリィ」の凶悪魔法をたとえるなら、『おそ松くん』のインベーダーであり、三田村信行のもっとも有名な短編集に収録されている某作に近いものです。そして作中の空気も、昭和ギャグまんがのものと不条理児童文学のものを両立させているのです。
これはまさに朱川湊人にしか書けない児童文学で、一読の価値はあります。

『ランペシカ』(菅野雪虫)

少年チポロが悪い魔物ヤイレスーホにさらわれ監禁された幼なじみのイレシュを救い出すという古典的な英雄譚『チポロ』。ヤイレスーホのイレシュへの恋心と、父の敵討ちのためヤイレスーホの魔力を求めやがてヤイレスーホに惹かれていく少女ランペシカの感情にスポットを当てた続編『ヤイレスーホ』。この2作に続くアイヌ神話をモチーフにしたファンタジーの第3部『ランペシカ』が登場しました。
菅野雪虫といえば現代の社会派児童文学を代表する書き手で、社会システムの悪を見据えつつも希望を謳う物語を紡いできました。しかし、この『ランペシカ』に限っては、虚無感が作品世界を覆い尽くしています。そして、その虚無性にこそあらがいがたい魅力が宿っているのです。
このシリーズのたちの悪さは、前の話をどんどんひっくり返していくところにあります。たとえばチポロの英雄性は、『ランペシカ』では妻子を自分の所有物と見做すような有害な男性性に置き換えられてしまいます。
なにより驚かされるのは、前作『ヤイレスーホ』の、イレシュの苦しみを消すために他人の願いを叶える魔力を持つ石でイレシュの記憶を消すというヤイレスーホとランペシカの悲痛な決断が悪い結果しかもたらさなかったということが、続編『ランペシカ』で暴かれてしまうことです。
『ヤイレスーホ』『ランペシカ』において、万能の力を持つのに他人の願いしか叶えられないというマジックアイテムの設定は、あまりにも残酷な仕掛けになっています。ある意味での自己犠牲をさせることで、ヤイレスーホからイレシュ、ランペシカからヤイレスーホという一方通行の報われない異種間恋愛感情の悲劇性を高める役割を果たしています。ゆえに『ヤイレスーホ』『ランペシカ』は、悲恋物語としては最高の作品になっています。
しかし、苦しみを消したいという善意からの願いだったのに、イレシュの記憶を消すことはその人格を奪うに等しい所業だったのだということが明かされてしまいます。『ランペシカ』のイレシュは、美しくて優しいだけで、人格的な深みのないまったく魅力のない女性になってしまいます。かつてランペシカが憧れた「魔女」のイレシュ・「本当のイレシュ」は殺されたも同然です。
問題はイレシュ個人だけのものではありませんでした。イレシュだけでなくヤイレスーホに関する記憶がランペシカと半神であるチポロを除くすべての人間から消されてしまったため、歴史の捏造が起こるという問題も発生します。

「昔の嫌なこと、みじめだったこと、負けたことは忘れて、自分たちはいつも強くて、間違ったことなんかなかったように暮らしている……」

こういった歴史の修正が悪であることに、議論の余地はないでしょう。
やがて地上から去る神は、こんなことを言い残します。

「人間は、どんな道具も薬も作り出す。いずれ、すべての者にいきわたるだけの糧を作れるようにもなるだろう。だが、それを平等に分けあうことはできない」

富を際限なく増大させることはできても、平等な再分配だけは人類には不可能であると。これをいってしまうことは、社会派児童文学作家としての敗北宣言とも受けとめられかねません。
神も救いもないこの虚ろな物語『ランペシカ』に希望を見出すとすれば、それはカバーイラストにも描かれているランペシカの姿にあります。「魔女」になることを望んだ少女が、人の技術でサイボーグとなったこと。三部作の主人公が女神の子であるチポロから魔物のヤイレスーホを経由してサイボーグのランペシカとなったこと*1。ここで、「女神よりは、サイボーグになりたい」というダナ・ハラウェイの宣言が思い出されます。

*1:三部作の裏の主人公は3人のイレシュであるという見方もできるでしょう。すなわち、チポロ・ヤイレスーホ・ランペシカのそれぞれの視点のイレシュです。この作品をフェミニズムをベースに読み解くなら、やはりランペシカとイレシュの関係が重要になってきます。

『わたしの気になるあの子』(朝比奈蓉子)

小学6年生の瑠美奈と詩音の視点が交互に入れ替わる構成になっています。瑠美奈の祖父は時代錯誤の家父長制ジジイで、ごたいそうな家でもないのにいつも跡継ぎがどうとか妄言を言って弟をひいきし瑠美奈を罵倒していました。学校ではクラスメイトの詩音が突然坊主頭で登校して、驚かされます。瑠美奈の友だちの沙耶は祖母の影響で保守的な女性ジェンダーを信奉していて、詩音を口汚く罵ります。瑠美奈は孤立した詩音のことが気になり手助けをしたいと思いますが、「ほっといてほしいの」と拒絶されてしまいます。
詩音視点になると、坊主にした経緯が語られます。ずっと敬愛の対象だった姉が校則の厳しい高校に反抗して坊主頭にしてから憔悴しているのを気に病み、姉の力になりたいと思って自分も髪を剃りました。周囲の反応の苛烈さは思っていた以上で、詩音もメンタルを削られていきます。
祖父にしろ沙耶にしろ悪役の描き方は物語を動かすための駒として戯画化されたものにしかなっておらず、化石がしゃべってるという物珍しさ以上の感興は起こしません*1。一方で、瑠美奈と詩音の距離の詰め方は慎重に描いています。中盤の、傘という防壁のなかで一瞬距離が0に近くなる場面の美しさ、でもそのあとに以前の素っ気なさに戻ってしまうというもどかしさ、このあたりは読者の気をもませます。
ジェンダー同調圧力・校則といった問題を取り扱っているので、社会派作品としての落としどころも問題になってきます。一番安易な方法はみんなで坊主になって抵抗するというものですが、これをやると同調圧力が別の同調圧力に塗り替えられたことにしかならないので根本的な解決にはなりません。この作品の場合、そもそも坊主頭は生まれもった容姿に恵まれていなければ似合わないというルッキズムの問題にも踏みこんでいるので、ややこしくなっています。で、結果としてはこの作品はなかなかバランスのいいところに落ち着いてくれたように思います。

*1:ただし沙耶に関しては、ジェンダー上は現在の日本で一般的に女子とされているものだけど性指向は多数派のものとは異なることにもう少し大きくなったら気づいて悩むことになるんだろうなと予想している読者は、ちらほらいそうです。

『ガラスの犬 ボーム童話集』(フランク・ボーム)

本邦初訳のボーム童話集。ボームといえば、やはりアメリカでファンタジーを成立させたということが重要で、この作品集の「作者のことば」ではこのようなことが述べられています。

アンデルセンやグリム兄弟、ハウフ、ペロー、ガバリエロ、アンドルー・ラングによる美しい有名なお話の数々は、古い歴史をさかのぼるものであり、アメリカのおとぎ話にはそぐわない。(中略)そこでわたしは、目を大きく見開いたこの国の子どもたちに、モダンな妖精の出てくるモダンな話をさしだすしかない。

ということで、西欧のおとぎ話とは一風変わった愉快なお話が展開されます。
アメリカのおとぎ話では、家のなかは安全地帯ではありません。おじさんの衣装箱から飛び出した三人組のイタリアの盗賊だったり、招いてもいないのに突如部屋に出現したセールスマンだったりが子どもに襲いかかります。
課題を解決した報酬としてお姫さまが与えられるというお約束も機能しません。「死ぬくらいなら、どんなおいぼれとだって結婚するわ」と言って病気を治してもらったお嬢さまは、相手が若く美しい貴公子ではなかったので拒絶しますが、皮肉な経緯をたどって冷えきった結婚生活に入ることになります。あるいは、窮乏した王国のわずか10歳の王子が大臣たちによってオークションにかけられ金持ちの老婆と結婚させられるという、おそろしく非人道的な犯罪行為も計画されます。
特におもしろかったのが、最後に配置された「ふしぎなポンプ」という話です。出発点はコガネムシを助けた恩返しに大量の金貨をもらうというお約束通りのものです。しかし、牧師がその出所にケチをつけます。もしこれが妖精のつくったまぼろしのお金なのであれば24時間以内に消えてしまうからそれを使うのは詐欺に等しい、本物なのであればそれは盗品なのだからそれを使うのは犯罪であると。なかなか笑える屁理屈です。

『時計がない!』(小松原宏子)

カバーイラストの圧が……。SFの読者であればこのカバーイラストを見た瞬間にハーモニーとかアステリズムとかいう単語が思い浮かび、ある先入観を抱くはずです。

「誕生日プレゼントはなにがほしい?」
十歳になる前の日、ママにいわれてミコは、
「時間。」
とこたえた。いつも「もっと時間がほしい。」といっているママのまねをして。

こんな夢のない会話をした翌日、幼いころから愛用していためざまし時計の「りんりんちゃん」が消えてしまいます。それどころではなく、世界中であらゆる時計が消失するという大異変が起こっていました。誰にも正確な時間がわからないという大変な状況になったその日、学校には自分だけは時間がわかるという不思議な転校生・時野メグミがやってきます。
小松原宏子は『ホテルやまのなか小学校』で読者の時間感覚を狂わせる技を披露していたので、時間テーマの作品を書いたのはなるほどという感じがします。
皆勤賞のミコはその日はいつも遅刻してくるコジより遅く登校したので、時間がわからないのに先生から遅刻であると判定されます。このあたりは、不条理童話のロジックが適用されています。
クラスには空いている席などなかったはずなのになぜかミコの隣が空いていて、先生は時野メグミにそこに座るよう指示します。これはいたはずの児童がいなくなりみんなの記憶からも消えてしまったということなのか、不穏な空気も流れてきます。なにより大きな謎は、初対面のはずのミコにぐいぐい迫っていく時野メグミの不可解な好意です。
1時間目の理科では人体といのちについて、2時間目の算数の授業では平面や面積について、3時間目の社会科では時間の歴史について説明されます。授業のかたちで作品は世界をめぐる大きな謎に迫っていきます。
ということで、謎の巨大感情とセンスオブワンダーという、カバーイラストに似つかわしい作品になっていました。百合SFの入門書として布教すべき作品です。
シライシユウコのイラストの魅力にも少し触れておきましょう。キャラクターのかわいさかっこよさについては言及するまでもありません。さらにすばらしいのは、読者の想像力をふくらませるイメージ映像を配置するセンスのよさです。特に16ページのイラストなどは、読了後に見直すとヒエッとなる仕掛けが施されています。こういうセンスのよさは、往年の不条理児童文学のイラストを思い起こさせます。わたしが把握している限りではシライシユウコがイラストを手がけている児童文学はこれと「名作転生」シリーズ全3巻(学研・2017)『スケッチブック』(学研・2018)くらいですが、児童文学適性は高そうなのでもっと増えてほしいですね。