『さよなら、スパイダーマン』(アナベル・ピッチャー)

さよなら、スパイダーマン

さよなら、スパイダーマン

2011年に発表された、アナベル・ピッチャーのデビュー作。新人の第1作に与えられるブランフォード・ボウズ賞を受賞しています。すでに日本に紹介されているエドガー賞ヤングアダルト部門受賞作『ケチャップ・シンドローム』は、イギリスの女子高生がアメリカの死刑囚と文通する(というか、一方的に悪意のこもった手紙を送りつけている)という、どう受け止めていいのか悩む設定の話でした。この『さよなら、スパイダーマン』は、さらにしんどい設定です。
10歳の少年ジェイミーは、5年前にイスラム過激派のテロで姉のローズを亡くしていました。いまでは家族は崩壊しかけていて、父親は酒浸り、母親は遺族サポーターグループで知り合った男と浮気して家出しています。そんなときジェイミーにできた唯一の友達は、イスラム教徒の少女スーニャでした。父親はすっかりイスラム教徒を差別するようになってしまっていたので、ふたりの友情は隠しておかなくてはなりません。
さらに意地の悪い設定は、ジェイミーには亡くなったローズとふたごでそっくりの姉ジャスがいるということです。親からすれば、亡くなった子どもは永遠に天使です。両親はジャスにその面影を保存しようとし、当然のように期待を裏切られ勝手に失望します。

去年、ぼくはカウンセラーから、「まだお姉さんの死を受け入れていないようですが、いつかその事実がほんとうに理解できたら、泣けるようになるでしょう」って診断された。その太ったカウンセラーのところにいかされたのは、この5年間、ぼくが一度も泣いたことがなくて、ローズのために泣いたこともないからだ。でもさ……「ほとんどおぼえてない人のことで泣ける」って、ぎゃくにききたいよ。
(p16-17)

ローズに対するジェイミーの態度は、薄情なようにもみえます。それは幼さゆえでもあるし、ジェイミーのもって生まれた特性によるものでもあるのでしょう。死体に対する嫌悪感から「ローズが死ぬ運命だったなら、体がバラバラになって死んでよかった」と思ったり、ローズの遺灰が入った壺に頭や手足が生えて動くところを想像して笑いそうになったりと、その感性は独特です。『ケチャップ・シンドローム』の主人公もそうでしたが、アナベル・ピッチャーは個性的で鋭敏な感性を持った子どもを描くのがうまいようです。
ジェイミーの「ローズは、イスラム教徒に殺されちゃったんだ」という言葉を、どう理解すればいいのか。ここで引き合いに出すのは不謹慎かもしれませんが、わたしは末井昭のことを思い出しました。末井昭が「僕の母親は、隣の家の10歳年下の青年とダイナマイト心中したんです」と語り出したときに聞き手が失語してしまうあの感じ。事実をただ淡々と語っているだけの言葉がレトリックになってしまう、重さと軽さが同居した複雑な表現を前に、たじろいでしまいます。
ジェイミーやジャスやスーニャは、まるで世界そのものから悪意を向けられているような試練を受けています。それでも、あらゆる抑圧に押しつぶされそうになりながらも自分らしさを失わず手を取りあって生き抜こうとする子どもたちの姿は、とても魅力的です。テレビに出ることで運命を変えようとするジェイミー、自分もつらいのにジェイミーを助け、才能の輝きをみせるジャス、正義感が強く機知で悪意に立ち向かうスーニャ。この子たちに幸福な未来が訪れることを願わずにはいられなくなります。

『凍てつく海のむこうに』(ルータ・セペティス)

凍てつく海のむこうに

凍てつく海のむこうに

ヒルのちびちゃん、どの子もお顔が水の中
お顔が水の中
(p356)

第二次世界大戦末期、ドイツは東プロイセンから住民を避難させるハンニバル作戦をおこないました。一万人を超えるといわれる避難民を収容したヴィルヘルム・グストロフ号は、ソ連の潜水艦の魚雷によって沈没してしまいます。2017年のカーネギー賞を受賞した『凍てつく海のむこうに』は、犠牲者数ではタイタニックをもはるかに超えるこの海の悲劇を元にした歴史ドラマです。著者は、リトアニアの亡命者を父とするアメリカ出身の作家です。
リトアニア人の看護婦ヨアーナ・東プロイセン人の絵画修復士フローリアン・ポーランド人の妊婦エミリア・ドイツ人の水兵アルフレッド、4人の若者が小刻みに語り手を交代する形式になっています。そのため、序盤は人物や状況を把握するのに少々苦労します。しかし、それでも読者を引きつける工夫がたくさん凝らされているので、ぐいぐい読まされます。
語り手ははじめに、「罪悪感は狩人だ」「運命は狩人だ」「恥は狩人だ」「恐怖は狩人だ」と語りだし、それぞれ抱えている秘密を暗示します。それが多視点から徐々に明かされていく構成がうまいです。
登場人物のなかには思い込みの激しい人物もいて、その人物の語る内容を別の視点からみるとまったく違う現実がみえてくるということも多く、多視点の作品ならではの仕掛けが充実しています。
たとえばエミリアは、ある人物のことを現実離れした英雄視して「騎士」と読んでいたりします。もっとも危険にみえるのは熱烈なヒトラー信奉者のアルフレッドです。ハネローネという女性にあてた彼の手紙だかなんだかが書体を変えて何度も出てくるのですが、これがなんともいえない怪文書。おそらく本当の現実と乖離した世界を生きているのであろう彼のエピソードは、サイコホラー的に楽しむこともできます。
そして、約束された悲劇まで物語は一気に加速していきます。描写力も優れていて、海に誰かの入れ歯が浮かんでいるなどという細かい記述によって、遠い過去の悲劇が現実感を持って迫ってきます。
ということで、非常にエンターテインメント性の高い作品なのですが、この作品は戦争児童文学でもあります。あとがきには、戦争の犠牲者の〈声〉や〈記憶〉を伝えようという意図が語られています。切り替えの早い語り手交代という手法で読者に〈声〉を意識させるとには成功しています。娯楽性の高さで、物語として〈記憶〉を伝えることも達成しています。カーネギー賞受賞という高評価も理解できます。
ただ、戦争をこのようにエンターテインメントにしてしまうということに屈託も感じてしまいます。戦争の悲劇を、タイタニックのようにメロドラマとして消費していいのか(そういうと、タイタニックだったらいいのかという話にもなってきますが)。このあたりは、日本の戦争児童文学も考慮して議論していく必要があると思います。

『嘘の木』(フランシス・ハーディング)

嘘の木

嘘の木

人は動物で、動物はただの歯だ。先にかみつき、食らいつけ。それが生き残る道なのだ。
(p302)

イギリスの理系少女のフェイスは、博物学者である父エラスムスを神のように崇拝していました。しかし化石の捏造疑惑というスキャンダルに見舞われて父は失脚、逃れてきた島でもさっそく村八分にされます。やがて父は謎の転落死を遂げます。この死は自殺として処理され、それは神の意に反する罪なのでまともに埋葬すらされないという侮辱を受けます。フェイスは父は殺されたのだと確信し、父の秘密の研究「嘘の木」を利用して真相究明と復讐を成し遂げることを誓います。
フェイスにとって父は信仰の対象ですが、同時に抑圧者でもあります。時代はダーウィンが『種の起源』を発表した直後。女性が知性を求めるのは罪とされていた時代です。女性の方が頭蓋骨が小さいのだから知性で劣るのは科学的事実だというのが、当時の常識でした。父も女性の知性を認めず、フェイスは隠れて知を探求せねばなりませんでした。フェイスは、自分とは逆に美貌だけを武器に世渡りしている母を軽蔑していました。フェイスは厄介なエレクトラ・コンプレックスを抱えています。
復讐のためにフェイスが頼ったのが、「嘘の木」という奇妙な生態を持つ木です。父の研究によると、その木は嘘を養分として生長し実をつけ、その実を食べた人間に真実のヴィジョンを見せるのだといいます。フェイスは父の幽霊が出現したという嘘を手始めに島に嘘を蔓延させ、「嘘の木」の力も利用しつつ真犯人を炙り出そうとします。狡猾な計略で他人を陥れ自分の目的を果たそうとするフェイスの姿は悪役じみてもいますが、その機知と闘争心の強さが魅力でもあります。そもそも、嘘を広めることにより真実が得られるという作中ルールが、あまりにも凶悪です。これは禁断の実であり、いうまでもなく人類の原罪の象徴です。
しかし、時代はダーウィンを通過しています。あらゆる神話は解体されるのが、時代の流れです。神は殺害されなければなりません。暴かれる残酷な真実もあり、秘匿される真実もありますが、人は理性の光に照らされた道を歩いていくしかありません。
エレクトラ・コンプレックス、フェミニズム、人類の原罪、神話の解体、語るべき要素が盛りだくさんの作品です。それでいて、ミステリやサスペンスとしても完成度が高く、エンタメとしても読ませてくれます。この作品は2015年のコスタ賞児童文学部門を受賞し、同賞の全部門最優秀賞にも選ばれています。これは、フィリップ・プルマンの『琥珀の望遠鏡』と同じ高評価を受けたということになります。この高評価もうなずけます。今年日本に紹介された翻訳児童文学のなかでもベスト5に入ることは確実でしょう。

『わたしがいどんだ戦い 1939年』(キンバリー・ブルベイカーブラッドリー)

わたしがいどんだ戦い 1939年

わたしがいどんだ戦い 1939年

1939年のロンドン、ドイツ軍の空襲の懸念のため、子どもたちは田舎に疎開させられることになります。しかし、10歳の少女エイダは疎開を許されていませんでした。内反足のエイダを差別していた母親に部屋に監禁されていたからです。第二次世界大戦以前から、エイダの戦争は始まっていたのです。
エイダは母親に隠れて家を脱出し、疎開者の列にまぎれこもうとします。母親に隠れて歩く練習をして、自分の靴は持っていないのであらかじめ母親の靴を盗んでおいて、不自由な足で決死の覚悟で外の世界に飛び出します。家から出るというただそれだけのことが、彼女にとっては大冒険なのです。
疎開先で、かつて同性パートナーと暮らしていて今は死別している進歩的で教養のある女性に世話されることになったり、金髪のお嬢様と友達になったりという展開は、当時の社会事情を考えるとファンタジーであると捉えざるをえないかもしれません。でも、人間としてきちんと尊重される経験を積まなければ、子どもは人間らしく育つことはできません。
この作品ではもちろん戦争の悲惨さも詳細に描かれていますが、それよりも母親の非道さのほうが強烈な印象を残します。エイダはある意味戦争のおかげで母親の支配から逃れられたのですから、冗談でも皮肉でもなく「希望は、戦争。」だったのです。
この作品を読んで思い出されるのは、ジェラルディン・マコーリアン(マコックラン)の『ジャッコ・グリーンの伝説』です。世界の危機を救う冒険をして帰還した少年が、DV姉には相変わらず弱いままだったという、なんともやりきれないラストが苦い後味を残す作品でした。『わたしがいどんだ戦い 1939年』も、同様の苦さを持っています。疎開先でさまざまな学びを得て人間としての尊厳を取り戻したはずのエイダも、母親の心理的な支配のくびきからはなかなか解放されません。家庭というものの重さを考えさせられます。

『サイモンvs人類平等化計画』(ベッキー・アルバータリ)

サイモンvs人類平等化計画 (STAMP BOOKS)

サイモンvs人類平等化計画 (STAMP BOOKS)

サイモンはネットで知り合ったの正体不明の友人ブルーに恋をしています。自分が同性愛者であることは、ブルー以外には打ち明けていません。しかし同級生のマーティンに同性愛者であることを知られてしまい、バラされたくなければ自分の恋の手助けをしろと脅迫されます。なんやかんや苦労したサイモンは、マイノリティだけが自分の性指向をカミングアウトしなければならないのはおかしいから、ストレートの人間もカミングアウトすべきだという思想に到達します。
サイモンの周辺にはリベラルで知的な人が多く、少なくとも同性愛者を差別してはいけないという建前は広く共有されているようです。性指向をアウティングされたあと、フェミニスト系の本屋に連れていってゲイのペンギンの絵本を買ってくれるような友人にも恵まれています。
とはいえ、マイノリティの苦労が完全になくなるわけではありません。サイモンが家族にカミングアウトすると、家族はサイモンの予想通りの言動をします。精神分析医の母親はさっそくカウンセリングモードに入り、父親はつまらないジョークで場を和ませようとし、姉は「最高じゃない、これからお互い男のことについてしゃべれるし」と盛り上げます。家族から拒絶されるよりはいいに決まっていますが、これはこれでキツそうです。

予想通りっていうのは、それなりにほっとできるものだし、うちの家族はあきれるほど予想通りなんだ。
だけど、今、この瞬間はどっと疲れたし、最低の気分だった。言ったら、気分が軽くなると思ってた。だけど、今週、いろいろあったときの気分とほぼ同じ、妙な気分だし、萎えるし、現実感ゼロだった。

サイモンの同級生たちも、それぞれに打撃を受けます。サイモンの昔からの親友だったリアは、サイモンが自分ではなく別の子に一番にカミングアウトしたことに動揺してしまいます*1。サイモンからしてみればずっとつきあっている友人にこそ言いにくかったという事情があるのですが、それでもリアは傷ついてしまいます。それから、マイノリティであってもサイモンはリア充じゃないかと、単純にサイモンに嫉妬している同級生もいます。
同級生たちの心の揺れは、マイノリティの苦しさに比べれば取るに足らないものなのかもしれません。しかし、マイノリティの周辺にいる人間の政治的に正しくないといえるような感情も丁寧にすくいとっていることが、この作品の美点であるように思います。

*1:この子はオタク女子で、高屋奈月の少女漫画『フルーツバスケット』の主人公の本田透が好きなようです。本田透のような善良さに憧れる子であれば、ここで疎外されたかたちになってしまったのにはことさらショックを受けるでしょう。しかし、このニュアンスがどれだけのアメリカの読者に伝わったのだろうかという余計な心配が。

フルーツバスケット (1) (花とゆめCOMICS)

フルーツバスケット (1) (花とゆめCOMICS)

『ぼくとあいつと瀕死の彼女』(ジェス・アンドルーズ)

ぼくとあいつと瀕死の彼女

ぼくとあいつと瀕死の彼女

白血病で女の子が死んじゃう話です。しかし、作者まえがき(ジェス・アンドルーズではなく、物語の語り手で主人公の高校生グレッグ・ゲインズによるもの)で、その手の物語に期待される要素はないとの断り書きが繰り返されます。この話には、「大切な人生の教訓」や「知られざる愛の真実」はなく、自分は女の子の死から学ぶことはなにもなかったのだと断言します。
物語のはじめの方で、グレッグの華麗な失恋歴が自虐的に披露されます。ある作戦では、好きな子の気を引くため別の子をかまって嫉妬を誘おうとしました。その作戦でおとり役にされたレイチェルという子が白血病になり、物語のヒロインとなります。
レイチェルが白血病になったという情報は、母親からもたらされます。そして母親はグレッグに、しばらく疎遠になっていたレイチェルに連絡をとるように指示します。確認しておきますが、グレッグは高校生で、小学生でも幼稚園児でもありません。高校生が母親から「かわいそうな近所の子と仲良くしてあげろ」と命令されるのです。なんという笑えないシチュエーションでしょうか。
グレッグはもともと映画を作る子でした。創作者気質の子が書いた小説がこの作品だという設定になっているので、かなり肥大した自意識がみられます。ベタな物語を拒否しようという態度も自意識のなせるわざです。しかし、ベタな物語の引力は強力で、そこに引っ張られそうにもなります。とはいえ、引っ張られたとしてもベタな美談は非リア男子には簡単に手に入るものではなく、向こうから拒絶されてしまったりもします。自意識の物語として非常に痛々しく、痛々しいがゆえに優れたYAとなっています。

(ちょっと思ったんだけど、「fin」の意味を知ってる人なんかいないよな。映画用語なんだけど、具体的にフランス語でこんな意味。「映画が終わってよかったね。なにがいいたいのかさっぱりわかんなかったでしょ。だって作ったのはフランス人だもの」)
(p9)

『九時の月』(デボラ・エリス)

九時の月

九時の月

1988年のイランが舞台。アメリカの支援を受けたイラクから爆撃機がやってきて、町中では建設用のクレーンで人を吊す公開処刑がおこなわれる、日常と暴力が隣り合わせの世界の物語です。
主人公のファリンは、名門校に通う15歳の少女です。イラン革命前はいい身分だった母親は、いまだに王政復古を目指す秘密クラブごっこに興じていて、ファリンはそんな母親を冷ややかに眺めていました。学校は学校で、刑務所とつながりがあると噂される校長がいたり密告屋の級長がいたりと息苦しい環境でした。家庭にも学校にもなじめず、楽しみは悪霊ハンターが主役の物語を空想することだけの灰色の日々を送っていたファリンに、一筋の光明が訪れます。ファリンは転校生のサディーラと運命の出会いをはたし、初めて心を通い合わせることのできる友を得ます。ふたりの友情が恋に変わるのにそう長い時間はかかりませんでした。
この作品は、最高にロマンティックな恋愛小説です。現在進行形の深刻な社会問題を扱った作品をこのように評するのは、不謹慎とそしられるかもしれません。しかし、この要素を抜きにこの作品の魅力を語ることはできません。
サントゥール(イランの伝統的な弦楽器)を奏でて登場する美しい転校生、気がつくと紙に好きな人の名前を無数に書いてしまうという恥ずかしい行動、ふたりだけの勉強会、毎晩九時に月を眺めて心を共にしようという約束、絡み合う指、秘密の文通、抑圧された環境のなかでふたりの純愛は極限まで輝きます。
それだけに、ふたりを待ち受ける運命の過酷さには言葉を失ってしまいます。恋をしたというだけで不当な抑圧を受けることのない世界が一刻も早く実現することを祈らずにはいられなくなります。

今、悪霊ハンターは降伏の危機にある。服従すべきなのだろうか。強いものに身をかがめることがこの世のならいと。不正を許すことは、生きとし生けるものの闘志を奪うことだとわかっているのに。抵抗すべきすべてのことをわすれ去れば、きっと荷が軽くなるだろう。理想をわすれたほうが、ずっと生きやすくなるにちがいない。

それでも、悪霊ハンターの戦いは続きます。
作者あとがきによると、イランでは1979年以来4000人以上の同性愛者が処刑されているそうです。
作者のデボラ・エリスはカナダの児童文学作家。自身が同性愛者であることを公表しています。