- 作者: 古田足日,鈴木義治
- 出版社/メーカー: 童心社
- 発売日: 1984/09
- メディア: 新書
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「西からのぼる太陽」「あくまのしっぱい」「アンドロイド・アキコ」「十二さいではいれる大学」の四作が収録されています。
「西からのぼる太陽」は始めて月世界を訪れた少年の驚きを詩情豊かに描いた作品です。少女を導き手とし、巨大植物を飛び越える遊びなど重力の小さい月面ならではの遊びが魅力的に描かれています。
「あくまのしっぱい」は悪魔との取引をテーマにしたショートショートです。設定をうまく生かしたオチはあざやかです。人間側が特に計略を立てるでもなく、悪魔が勝手に自滅しているところが面白いです。
「十二さいではいれる大学」は十二歳で入学資格を得られるルナ大学に入るため、生まれたときからしごかれる子供のお話。過度の教育熱に対する皮肉のきいた作品です。
「アンドロイド・アキコ」は恋を手に入れるために月世界に渡った人造人間アキコの物語です。そこでアキコは青年ハルオと出会い恋に落ちますが、彼を守るためにアキコは命を落とすことになります。そして彼女は恋の痛みを知り、ここでアキコの物語は終わります。
これだけで終わっていればこの話はただのくだらないメロドラマなのですが、その後物語は意外な動き方をします。
ここで主役がコッペリアからコッペリウスへ交代し、亡くした一人娘の代用としてアキコをつくった父親がアキコの最期について自問自答を繰り返す場面が語られます。彼は愛をつかんで死んだ彼女の人生を肯定しようとしますが、すぐにそれを否定し、生きて愛をつかめなかったことをくやしがる心を持てなかったアキコを不憫に思うようになります。そして今度はそういう心を持てるように新しアキコを開発しようと決意します。
ところがここで父親は、そもそも自分はアキコに恋愛に対する憧れを持つプログラムを組み込んでいなかったことに思い至ります。その謎を思索し、彼は結論に達します。
「わかったよ、アキコ。わたしは、わたしのこのみを、そのこのみが生まれてくるような可能性を、自分で気がつかないうちに、おまえにセットしたんだよ。」
「アキコ。わたしは、わたし自身のなかにあって、わたし自身が気づいていない、女とはこういうものだ、というかんがえによって、おまえをつくりあげたんだ。愛をつかんで死ぬならそれでもよい、、という、ばかげたかんがえ、それがわたしのなかにあったんだ。いま、おまえを生きかえらせても、わたしのなかにある、さまざまの、わたしの気づいていない、かたよったかんがえが、やはりおまえをふしあわせにするだろう。」
彼はアキコの復活を断念し、物語は幕を閉じます。
これはもちろんロボットだけの問題でなく、現実の子供に対する教育の問題、ジェンダーの問題に敷衍することができます。特にジェンダーに対する洞察は鋭敏です。、アキコが恋愛に対する欲望を持った理由として、父親の「かたよったかんがえ」とともにテレビドラマの影響が強調されています。社会的性差としての女性は教育やメディアによってつくられたものにすぎないという問題意識が見られます。
余談ですが、ポプラ社のSFコレクションのイラストでアキコが今風の美少女になっていることには驚いてしまいました。しかし人造美女が作り手の欲望を反映したものでしかないことを暴き立てた作品のイラストと考えれば、これもまたふさわしいのかもしれません。