『泥』(ルイス・サッカー)

泥 (児童単行本)

泥 (児童単行本)

そういえば今年は平井和正の年になっていて、傑作短編集もウルフガイもゾンビーハンターも新刊書店で購入することができます。平井和正といえば「人類ダメ小説」。人類の醜さ救いようのなさにいったん絶望させることは、健全なジュヴナイルSFのひとつの方向性です。
世界的ベストセラーとなった『穴』の著者ルイス・サッカーの邦訳新刊『泥』も、平井作品とはテイストが異なるものの「人類ダメ小説」的な要素を持っています。
ペンシルバニア州ヒースクリフにある名門私立校に通うタマヤとマーシャルは、毎日一緒に通学する仲でした。マーシャルはクラスのならず者チャドに目をつけられていて、みんなからひどい迫害を受けていました。チャドから逃れるためいつもの通学路から離れ山に登ったタマヤとマーシャルは、チャドに追い詰められます。タマヤは暴力を受けるマーシャルを助けるため、ねばねばする不気味な「泥」をチャドに投げつけます。ところがその「泥」が、実は非常に効率はいいが人体に害のある新しいバイオ燃料で、騒動は街全体を巻き込んだパニックに発展していきます。
読者の期待を誘導してその期待に応えるストーリーテリングの巧みさは、さすがルイス・サッカーです。ストーリーの幕間に政府の聴聞会の場面を挟んで設定を開示していくので、読者は作中人物より早く状況を理解することができます。となると、タマヤとマーシャルが山で追い詰められる場面で読者が期待することはひとつになるわけで、まんまと作者の術中にはめられてしまいます。
では、人類のダメさはどこに描かれているのかというと、まずは環境問題です。人類が便利さと危険性を天秤にかけてどのような判断をするかというと、そうなりますね。人口爆発と人類の欲望増大を問題とし過去を美化するようなセンチメンタルな問題設定を著者がしているので、議論が古びたものに感じられ説得力が乏しくなってしまっているのは欠点ですが、いわんとしていることはわかります。
実は環境問題よりも人類のダメさをついているのは、学校をめぐる描写です。舞台となる学校は裕福で成績優秀な子が通う学校でしたが、チャドはみっつの学校から退学を申し渡された素行不良な生徒で、ソーシャルワーカーの「良好な環境を与えるべき」という考えによりタマヤたちの学校に転校してくることになります。ソーシャルワーカーの方針は、理念としてはまったく正しいです。しかし、そのご立派な理念を実現するための方策が何もなかったために、学校の治安は乱れマーシャルという被害者を生み出すことになりました。この、理想と現実の乖離が悲劇を生むという構造が残酷です。
この作品でもっとも笑える(笑えない)場面は、チャドがいなくなったと知ったマーシャルのクラスメイトたちが次々とチャドの悪事を告発し出すところです。自分たちもマーシャルを迫害することを楽しんでいたはずなのに。
こういう露悪的なのも、児童文学には必要です。