『ある晴れた夏の朝』(小手鞠るい)

ある晴れた夏の朝

ある晴れた夏の朝

当たり前の話ですが、戦争児童文学は読まれなければ意味がありません。著者の思いが先走りすぎた作品は、それがいかに芸術性や文学性の面では高みに達していたとしても、読者の多くを置き去りにしてはなんにもなりません。いかに読者の興味を引くか、広い意味での娯楽性を獲得するかということが重要になってきます。そういう意味では、この作品は一定の成功を収めた実験作といえそうです。
『ある晴れた夏の朝』は、多様なルーツを持ったアメリカの高校生が広島・長崎への原爆投下の是非をめぐって公開ディベートをするという設定になっています。日本人を主人公とせず、またディベートという競技のルールのもとで議論するという距離の置き方は、効果的です。
不謹慎な言い方になってしまうかもしれませんが、この作品でまず特筆すべきことは、ディベートという競技を娯楽性豊かに描いていることです。ディベートをよく知らない読者でも、ターン制のカードバトルのようなものとして読むことができます。相手があのモンスターカードを出してきたらトラップカードを発動して逆に大ダメージを与えてやれとか、そういうノリで戦略性を楽しむことができるのです。もちろん予想がうまくいくとは限りません。原爆肯定派が日本人の残虐さを印象づけるためのカードとしてアメリカ人に同情されやすいバターン死の行進を出してくるだろうと予想し準備していた否定派が、南京虐殺という予想外のカードを出されて動揺するという展開もあります。このような駆け引きの妙が、読者をもてなしています。
登場人物は高校生ながらいっぱしの詭弁家で、議論の都合によって広島・長崎の人々は無辜の人ではない言ったりやはり罪のない犠牲者だと言ったり、巧みに二枚舌を使い分けます。さらに、観衆のなかにヤジ要員を仕込んだりと、狡猾な場外闘争まで繰り広げるのです。そこに正義はあるのかと問うことに意味はありません。観衆を説得した方が勝ちだという競技のルールに従っているだけなのです。
競技のおもしろさだけではなく、知識を得ること、知識の活用の仕方を考えることも、広い意味での娯楽性となっています。そういった高い娯楽性を持ちつつ、多面的な世界の見方を提示しているところが、この作品の成果です。21世紀に発表された日本の戦争児童文学のなかでは、十指に入るレベルの重要な作品です。
ただし、物語の着地点には疑問が残ります。原爆反対派の切り札であった日本語の人称の問題と、肯定派が競技のルールを逸脱し全面降伏するというラストが、釈然としません。作品の意図としては、人称のあいまいさを出自の違いや差別を乗り越え多様な人々をとけあわせるための道具とし、その効果として原爆を肯定する考えは破綻したということにしたいのであろうということは理解できます。しかし、否定派が試合を放棄したことによって、それまで競技のルールのもとで展開されていたはずのディベートが茶番に見えてしまい、作品自体までが茶番とみなされてしまう危惧が持たれます。また、日本語の人称のあいまいさは責任の所在をあいまいにすることにもつながるという大問題を見過ごしていることも気になります。そこは、戦争をはじめとする日本の諸問題を考えるうえで避けて通ることのできないポイントではないでしょうか。