『ぼくらの一歩  30人31脚』(いとうみく)

ぼくらの一歩 30人31脚

ぼくらの一歩 30人31脚

30人31脚に参加することになった小学6年生3人が語り手を務める作品です。
はじめの語り手は、6年生の2学期に突然転校してきた水口萌花。萌花は謎の歓迎ムードにとまどわされます。実は転校してきたクラスは、30人31脚に参加しようとしているものの、人数がひとり足りないために参加資格がなく困っていました。そこへ最後のひとりとしてやってきた転校生は救いの神だったのです。ところが萌花は足が遅く、救世主であると同時にお荷物でもあるという微妙な立場に立たされてしまいます。
競技自体の危険性や過剰に連帯責任を求めることなど、30人31脚の欠陥はいくらでも挙げることができますが、見逃せないポイントはここにあります。30人31脚のタイムが選手のうちでもっとも足の遅い者のタイムより速くなることはありえません。タイムに関する責任がもっとも足の遅い者、もっとも弱い者に集中するという残酷な仕組みになっているのです。このポイントを的確に突いてくるとは、さすがはいとうみく。いままで子どもに対する人権侵害問題に鋭く斬り込んできた作家だけのことはあります。
次の語り手は、学級委員長の中谷琴海。彼女は幼なじみで30人31脚のキャプテンである蒼井克哉に好意を抱いていました。そんな彼女がタウン誌の記者から取材されることで、この出来事が何層もの物語で成立していたことが明らかになります。
まず、30人31脚という競技自体が背負っている物語。記者はそもそも30人31脚はテレビ局の企画であったという前提情報を確認します。つまり30人31脚の本質は見世物であり、教育活動ではなく、スポーツですらないのです。そこにあるのは観客の求める物語です。
琴海は記者に語ることで、大人向けの物語を再構成します。6年生の最後の共同活動であり、卒業と同時に転校していく克哉へのはなむけでもあると。これは、クラスメイトが共有している物語とも一致します。
ただし、琴海にとってもっとも重要なのは、自分と克哉の恋愛物語です。琴海は個人的な目的のために、クラスの物語を乗っ取ろうとしているのです。第2章では、物語を操作する者の邪悪さという問題提起がなされます。
そして、最後の語り手蒼井克哉。彼の興味の中心はタイムを縮めることで、自分を含めたクラスの人間を能力値でしかみていません。この作品では、語り手となる3人以外のクラスメイトの顔がほとんどみえてきません。能力値と、ここで文句を言うここで足を引っ張るという役割があるだけです。それはすべて、30人31脚のために奉仕するものでしかありません。小学校生活で最後にみんなでおこなう活動という建前は、まったく価値のないものとなっているのです。
このように、さまざまな観点から30人31脚の悪辣さを暴き立てた作品となっています。



さて、おわかりのとおり以上の文章は皮肉です。著者がtwitter上でこのような発言*1をしていたので、かように問題の多い30人31脚を「頑張る子どもたちを応援」という姿勢で支持する児童文学作家がいるのであれば問題であるとの考えから、このような書き方をしました。
ただ、一点だけ引っかかるポイントもあるのです。それは、30人31脚の出場資格を見逃していたことなど、クラスを揺るがす空気の読めない言動を繰り返していた担任の存在です。このトリックスター的なキャラクターを著者が計算尽くで運用していたとしたら。著者のtwitterでの発言はフェイクだということになり、上記の読みもあながち的外れとはいえなくなるかもしれません。

*1: