『ぼくは本を読んでいる。』(ひこ・田中)

ぼくは本を読んでいる。

ぼくは本を読んでいる。

ひこ・田中作品の主人公は、頭がよくて思索を好む子どもばかりです。それが本を読むのだから、それはつまり最強ということです。
小学5年生になったばかりのルカは、両親の「本部屋」でカバーの掛かった本をみつけます。父か母が読んでいたはずのカバーの掛かった『小公女』と『あしながおじさん』を読みつつ、両親や幼なじみや読書好きの転校生と語らう、そんな1週間の物語。
ルカが本を読みながら物思いに耽るパートはフォントが変えられていて『はてしない物語』のようです。ひこ・田中らしいたくらみがそこかしこに感じられます。
大人と子どものはざまにいると自覚しているルカを祝福するのは、ゴキブリです。ルカは築14年のマンションの14階に住んでいます。マンションの警備員の話によると、新築マンションでは1年に1階ずつゴキブリが上っていくらしく、その予言通りになりました。上昇し到達した不気味なものは、ルカの成長に伴い生まれたものでもあるのでしょう。ただしこの時点のルカは、ゴキブリは大人が処理すべきものだと考えています。
ルカの友人も自分の成長に戸惑っています。いままで親が居ないと眠れなかったのに自分の部屋を欲するようになった友人に、ルカは「それはわかるよ。うまく言えないけど、たぶん、わかるよ」とコメントします。このような言語化できない共感も重要です。
本を読むことによってルカは、時間感覚を意識していくようになります。「本部屋」にあった『小公女』の発行年は1986年、両親は70年代後半生まれ、『小公女』が世に出たのは100年以上前、「ゲド戦記」1巻の刊行は50年ほど前。本と語らい、両親と語らうことで、現実とフィクションの二重の視点からルカは時代を知っていきます。現代と両親の子ども時代はテクノロジーも文化もまったく異なります。『小公女』の時代ならなおさらです。両親もセーラ・クルーも、現代の子どもにとっては異世界人のようなものです。時代の変化を明確にすることによって、異世界人が邂逅できるという奇跡がこの世界で当たり前のように起きているということに気づかされます。
ぼくが本を読んでいるのは、フォントが変えられている本を前にしている場面だけではありません。この本のタイトルは『ぼくは本を読んでいる。』なのですから、作中のすべての場面でルカは継続して本を読んでいるのです。ルカの思索は、常に『小公女』や『あしながおじさん』に結びつけられます。本を読み、それについて考えていると、生活のすべての場面が本の世界につながってしまうのです。この作品は本を読むという生き方の厄介さを暴き立ててしまったともいえそうです。