『あした、また学校で』(工藤純子)

あした、また学校で (文学の扉)

あした、また学校で (文学の扉)

問 学校は、だれのものか。以下の選択肢から適切なものを選べ。
  ア 偉い政治家
  イ 経団連の偉い人
  ウ 文部科学省の偉いお役人
  エ B社

小6の一将の弟将人は、大縄跳びの大会に参加しようと張り切っていたのに、自主参加のはず(先生の意図としては、下手なやつは強制参加だったのだが)の朝練に出なかったことを指導担当の荻野先生に理不尽に怒られ、周囲の子どもからも下手なやつは来るなと責められて落ちこんでいました。一将の幼なじみの咲良が義憤に燃え、代表委員会の会議で問題提起しますが、ほとんどの子どもにスルーされてしまいます。その場で、委員会担当のまったく頼りにならなそうなハシケン先生は、「学校は、だれのものかって……考えたことはありませんか?」とみんなの前で問いかけました。
「学校は、だれのものか」、あまりにも当たり前すぎることですが、その当たり前を阻む現実の壁を、視点人物を替えながら作品は描いています。咲良の言葉をまったく取りあわなかった同級生の梨沙は、親から捨てられ経済的に困窮しているという現実に打ちのめされ、現状を受け入れてしまっています。正しいことが正しいとは限らない、お金のない人のためのはずの公立校にはお金がないと入れない、そんな矛盾に対して、受け入れるという対処しかできないのです。
子どもの視点、大人の視点を転変してさまざまな現代的な重要な問題提起がなされています。ただし、問題提起の部分がいいだけに、その解決法には首をかしげざるを得ません。なんと、縮緬問屋のご隠居が現れて悪代官を懲らしめてくれるのです。わたしは考え方が古いので、戦後の児童文学の流れを考えればもっと民主的な解決策を探るべきなのではないかと思ってしまいます。
いや、そんな青臭い理想主義を掲げていても現状は変えられない、世の中をよくしたければ権力を持つ者にロビイングするのが現実的だということなのでしょうか。であるとするならば、学校は権力者の気まぐれでどうにかなってしまうものであり、結局のところ学校は権力者のものだということになってしまいかねません。であれば、この作品の根本の問題提起も否定されてしまうような気がします。