『またね、かならず』(草野たき)

またね、かならず (物語の王国2)

またね、かならず (物語の王国2)

小学6年生の陽菜は、本心を言わないクラスの女子や変容する自分の身体に嫌悪感を抱いていました。そんな陽菜でしたがピアノは得意で、ピアノ係としてクラス内の地位を確保していました。ところが偶然楽器店で見かけた自分とは比べものにならないピアノの腕前を持つ男子黒田くんが転校してきたことで、自分の居場所が奪われるのではないかとおびえます。しかし黒田くんはクラスのみんなとは距離を置いていて、ピアノが得意なことを誰にも明かしません。陽菜はだんだん黒田くんに惹かれていきます。
恋を自覚することによって第二次性徴による自分の身体や精神の変化に折り合いをつけていくという話で、草野たきにしてはプレーンで健全な作品に見えます。
しかし、いまはもう20年代になろうかという時代です。横川寿美子の評論「初潮という切札」が発表されてからもう何十年になることか。今年の児童文学を見渡すと、工藤純子の『あした、また学校で』という意欲作も出ています。この作品には、反出生主義に片足つっこんでいると言ってしまうと言い過ぎですが、生殖を称揚する価値観に違和感を抱く女子が登場します。あっけらかんと「産む性」としての「女性性」を肯定してしまう『またね、かならず』のような作品は、保守的すぎるという観点から批判されるべきなのかもしれません。
ただし、この作品には以上のような批判をまったく無効化してしまうような過剰さもあります。黒田くんが離婚し再婚した母親が産んだ弟をこっそり見ていて一緒に遊びたいと願っていることを知った陽菜は、心のなかであることを思います。わたしはこの内言を読んで、一瞬まったく意味がわからず戸惑い、しばらくしてから恐怖がわき上がってきました。
ここで思い出されるのは、性を描いた児童文学のなかで最大の問題作であると断言しても差し支えないであろう川島誠の短編「電話がなっている」の「君」です。「君」と陽菜は、「自分には好きな男子がいる。ゆえに、他の大人の男性と」という理解しにくい思考回路が共通しています。もちろん、確信的にその思想を持ち実行した「君」と、おそらく恋愛感情と性欲と生殖欲が混線して思わぬことが脳内に浮上してしまっただけなのであろう陽菜のあいだには、大きな隔たりはあります。おそらく陽菜の思考は、その願望を実現するためには具体的にどのような行動か必要なのかということにまでは思い至ってないのでしょう。であっても、このような発想を児童文学で描いてしまったことは衝撃です。第二次性徴期のメンタルの混乱を取り上げたのは意義深いことであり、それを描くためには過激とも受け取れることを提示する必要はあるのかもしれません。