『その声は、長い旅をした』(中澤晶子)

その声は、長い旅をした

その声は、長い旅をした

およそ、この世の中に、変声期直前の少年の声ほどうつくしいものはありません。
ほら、きこえるでしょう、あの波間から、声が、天から舞い降りた、あの声が。

思春期の身体の変化で人は象徴的な死を迎えるわけですが、ボーイソプラノの歌い手は通常よりも強烈なかたちでその死を意識することになるでしょう。強烈な死の体験は、生の裏返しでもあります。
この作品の主人公の藤枝開は、全国レベルの合唱団に所属する中学1年生で、やはり自分の終わりを意識していました。そんななか、合唱団に船原翔平という新メンバーが現れ、開は翔平に強い敵対心を抱きます。行き詰まった開は、かつて長崎のキリシタンが処刑されたと伝えられている「形場の森」の「礼拝堂」で練習しようと思い立ちます。ところが、そこには翔平がいて歌っていました。不思議なことに、翔平ひとりのはずなのにもうひとつの声が翔平の声に重なっているように聞こえました。
物語の主題は、まさに「声」です。本文は主に三つの部分が折り重なって構成されています。開が視点人物となる部分、翔平の日記、そして、天正時代にローマへと旅立つことになる美声の少年コタロウの物語が語られる部分です。この切り替えにより、読者は「声」を意識させられることになります。また、作中には会話文の「」が外されている部分が目立ちます。それは視点人物の内言なのか他者の「声」なのか、それとも超自然的ななにかの「声」なのか。そういった疑問を抱かせ読者を立ち止まらせるのも、読者に「声」を意識させる仕掛けになっています。
「声」は生身の身体から発せられるものであり、非常に生々しいものです。一方、宗教的な文脈で考えれば、「声」は神の顕現でもあります。そんな「声」が時代の壁も越え人をつなぐさまが美しいです。