『かくまきの歌』(杉みき子)

「そりゃあ、学校へ毎日ぶじにかよっているうちは、ときどきは勉強をなまけたい気にもなったし、学校なんてなければいいと思ったことだってあったけど、そんな、学校へ行くのをぜんぜんやめちゃって工場へいくのなんて、いやだったわ。」
「ふうん、じゃ、勉強やめるのいやですって、みんなで決議して、工場なんかいかなければよかったのに……。」
「ほんとにね。でも、いまとちがって、上からの命令には、絶対にそむけなかった時代だから、仕方ないわ。」

国語教科書に収録されていることで有名な「わらぐつの中の神様」を含む作品集。この本に収録されている作品の多くは、過去を語るという形式のものになっています。その理由はいろいろ考えられますが、そのひとつに過去の暗黒時代が過ぎ去ったという感慨があるように思われます。
「屋上できいた話」は、デパートの屋上で娘が母から、屋上に上るのも命がけだった時代があったという思いがけない昔語りを聞かされる話です。学徒動員で働かされていたおかあさんは、まるで少女小説の主人公のような完璧な優等生の山本かず子さんに誘われ、工場の屋上(現在のデパート)へ上るという冒険に同行します。当時は高いところに上るだけでスパイであると見做される時代だったので、これはまさに命がけの冒険でした。
ふだんは接点のない優等生が悪事の共犯者として自分を選んでくれたというのは、おかあさんの記憶に生涯刻みつけられる百合体験となります。時代の不自由さと自由への希求の美しさの対比が光る作品です。
「地平線までのうずまき」は、幻想的な筆致で自由への志向を語っています。学校の運動場にうずまきを描いてその線に沿っておいかけっこをするあそびに興じていた「わたし」はある日早めに学校に行って思う存分大きなうずまきをこしらえようとします。うずまきを大きくするに従って「わたし」の意識は混濁し、運動場いっぱいになったかのような幻覚を見ます。しかし我に返ると思ったほどうずまきは大きくなく、失望してしまいます。
その1年後、線路の先のちょっと左に曲がって小さくなる汽車の姿が見えなくなるあたりがいつも気になっている「くもりと晴れとのさかい目」なのではないかと思った「わたし」は、歩いてその場所を目指す小冒険を決行します。子どもの想像力の及ぶ範囲に幻想的な異界への入り口を見いだすセンスが絶妙です。
そして、戦争が終わると、「わたし」は歴史の先生からうずまきの例え話を聞かされます。同じところを回っているように見えるうずまきも次の1周は前より進んだところを進んでいるように、「歴史はくりかえす」とはいっても実は進歩を遂げているのだと。

それからも、わたしのうずまきは、何度も何度も切れました。もっと広い世界にでていこうとするたびに。自分の心のなかに、もっと広い世界をつくりあげようとするたびに。たのたびに、かきなおしつぎあわせて、わたしのうずまきは、いま、どのくらいの大きさになっているのでしょう。
わたしは、いまでも、ときどき思うのです。青空の下のひろっぱに、何に邪魔されることもなく、大きな大きな、地平線までとどくようなうずまきを、力いっぱいかいてみたいものだ、と。

やはり児童文学は、自由や解放への素朴な夢を語るべきです。少し昔の作品を読むことで、そんな原点を思い知らされました。