『サイコーの通知表』(工藤純子)

サイコーの通知表 (文学の扉)

サイコーの通知表 (文学の扉)

2019年の『あした、また学校で』で子どもたちに「学校は、だれのものかって……考えたことはありませんか?」と問いかけたちょっと頼りなさそうな先生、ハシケン先生のクラスの物語です。
4年生の3学期の始業式に、クラス内で通知表のことが話題になりました。語り手の朝陽の評価はすべて真ん中の「できる」で、まるで自分は「ふつう」という烙印を押されているように思い気に病んでいました。話のなかで勉強ができる子もできない子もそれぞれ通知表でいやな思いをしていることがわかってきます。ハシケン先生は通知表の理念を説きますが、親から与えられる飴と鞭の分量が通知表によって左右される子どもたちにそんな言葉が届くはずがありません。
父親から大人の世界では上司の評価をすることもあると聞かされた朝陽は、クラス全体を巻きこんで先生の通知表を作成することにします。通知表といえば、ほとんどの小学生は当事者で、多かれ少なかれ気にしているものです。これを社会派児童文学の題材にされれば、子どもは否応なく考えを深めさせられることになるでしょう。
通知表と並んで物語の軸となるのは、将来の夢をみんなの前で発表させられる『ゆめ発表会』という学校行事です。ハシケン先生は夢がない、発表したくないという子どもの思いを受け止め、夢のない人はありのままに発表してもいいとします。しかし子どもたちは、このことでハシケン先生がイゲンがあって怖い大久保先生に怒られていることを知っていました。子どもたちが他のクラスと同じように夢を発表しなければハシケン先生の立場がさらに悪くなるのは目に見えているので、みんなは思い悩みます。そして、先生の通知表の評価項目の「イゲンがある」というのが評価項目としてふさわしいのか見直しをするようになります。
『あした、また学校で』では社会問題の解決を突如生えてきたスーパーヒーローに任せるという社会派児童文学として首をかしげざるをえない異様な結論を出していたので、正直なところこの作品も心配していました。それが杞憂に終わってよかったです。正確な知識を蓄えて社会への旅立ちに備える朝陽の姉、組織のなかに入りこんで着実に毒を浸透させているハシケン先生と、確かな社会変革のモデルを出しているところに説得力があります。