『さいごのゆうれい』(斉藤倫)

小5の夏休み、おばあちゃんの家に預けられたハジメは、滑走路を外れ空き地に着陸した飛行機から降りてきた女子ネムと出会います。自分は「さいごのゆうれい」であるというネムを「ほごする」という名目でつけねらう「スマトラとら」の不審者と「たくはつ僧」の不審者も現れ、ハジメの周囲は急速に陰謀めいてきます。
世界の秘密を握る少女を守る一夏の冒険という、超王道の物語です。ネムはタリラリラーンみたいな状態から始まる「ゆうれいの国」の創世神話を語り、「かなしみ」や「こうかい」のなくなったハジメの生きる時代の異常性をほのめかしていきます。
斉藤倫だけあって、言葉の力は強いです。今回は特に言葉遊びにその力が発揮されていて、ネムが乗ってくる飛行機の航空会社の名前が「BON(盆) VOYAGE」だというだじゃれが笑えます。また、「スマトラとら」とカタカナとひらがなで同じ音を繰り返すのも異化効果があって、不思議な味わいを与えてくれます。
さまざまな面でうまさを持った斉藤倫がこのような王道の物語を語るので、そりゃエモくなるし泣ける話になっています。
ただ、斉藤倫のエモの強さにはひっかかるものもあります。斉藤倫は『波うちぎわのシアン』で、胎内記憶を賛美するという児童文学の書き手としては一発アウトレベルのやらかしをしています。そんな作家が「七歳までは神のうち」といってしまうときに人命や人権についてどんな倫理観があるのか、懸念が持たれます。
人の死について作中で気になるのは、252ページの「失ったひとを忘れたら、もうくり返したくないような、過去の〈かなしみ〉も、しだいに、なかったことになってしまう。そうすれば、ひとは、どんなおろかなことも、くり返せる。国や、政治家は、ひとびとを、かんたんにあやつれるようになるのですよ」という発言です。ここまでふわっとした情緒的なことばかり語ってきたのにここで政治的発言が出るのには唐突感が否めませんが、問題はその内容です。これでは「国や、政治家」に反対する立場の者も、結局死者を政治利用していることになってしまい、死者の尊厳は置き去りにされてしまいます。そもそも「国や、政治家」こそ死者を政治利用するのを得意としているものなので、この陰謀論には説得力がありません。
斉藤倫はエモを構築する技巧において、間違いなく現在の児童文学界でトップレベルの力を持っています。しかし、そのメッキの内側にあるものは、しっかり見極める必要があります。
この作品について確実に断言できるのは、西村ツチカのイラストは最高であるということです。この作品では、本文で言及されるより前にイラストで登場人物の容姿の異様さが開示されるケースが2回ほどありました。イラストは本文に従属しているではなく、本文と併走、いやむしろ先行しています。ここにはもちろん、デザインや編集上の工夫もあるはずです。この対象年齢の児童文学としては挿絵の存在感が非常に高くなっており、特に終盤の感情の爆発は最高のかたちで演出されていました。