『おれは女の子だ』(本田久作)

ピンク色が好きなために「女の子みたいだ」とからかわれたすばるは、「おれは女の子だよ」と宣言、そのことを家で話すと姉たちからピンク色のシャツを着たりスカートをはいたりして学校に行くように強要されます。
男子が女子の姿になることで女子への理解を深めるという手法は児童文学の世界では伝統的で、山中恒の『おれがあいつであいつがおれで』はもはや古典、21世紀に入ってからの作品だと風野潮の『ぼくはアイドル?』が評判になっています。そんな伝統的な手法が使われた最新の作品がどうなるのか期待がふくらむところですが、残念ながらこの時代にこのデリケートなテーマを扱う作品としてはあまりにも思慮の浅いものになっていました。
この手の作品は、自分と異なる立場に立つことで差別の構造に気づかせなければ教育的意義はありません。ところが、すばるは女子の美点ばかりに目がいってしまいます。

女の子はひとりでもやさしいけど、女の子たちになるとすごくやさしくなる。

これでは、女子は清くあるべきであるという保守的なジェンダー規範を強化することになってしまいます。
作者ではなく主人公のすばるが書いたという設定になっているあとがきにも、ジェンダー規範を強化し性差による分断を煽ることばかりが述べられています。口先では「決めつけ」を否定しながら。「男の子は女の子よりもバカだ」「こんなバカみたいなことをする女の子は世界のどこにもいない」「スカートめくりをするのも男の子だけ」と決めつけています。
女子にもバカみたいなことをする権利はありますし、実際にバカみたいなことしている女子はいくらでもいます。「スカートめくりをする」、つまり性暴力の加害者になるのは男性の方が多いというのは事実です。しかし、スカートめくりをする、あるいは男の子のズボンを下ろして喜ぶ女の子は存在します。「少ない」と「いない」のあいだには大きな違いがあります。言葉の使い方が雑すぎます。スカートめくりをする女子の存在を消すと、スカートめくりをする女子の被害者が透明化されてしまいます。こういう問題の重大さに気づけないようであれば、デリケートなテーマを扱うのはやめた方がいいでしょう。