『ソロ沼のものがたり』(舘野鴻)

昆虫絵本で知られる舘野鴻の短編集。精密で濃密で詩情も持つ描写で、過酷な自然の世界を描いています。
まず第1話の「ソロ沼御前」が、酸鼻をきわめる話で衝撃的です。小動物を蹂躙して栄華を誇ったかえるたちが、やがて獲物を食いつくして、同族で食いあうようになります。生き残ったかえるはへっぴり虫に向かってこのように述懐します。

「もうすこし子孫のおれたちにも食いものを残しておいてくれたらよかったのにな。ああそうか、それをいうならおれも食うのをがまんしないといけない。だけど、もうここにはおれのほかにはかえるはいない。ひもじくて死んでも、たぬきに食べられて死んでも同じか。どうしておれは生きているんだ」

ありのままの自然を描く作風なので、ここからあまり寓意や社会批判を読み取ろうとしてはならないのかもしれません。しかし、

「おれはな、かえるの子を食ったんだよ。信じられるか? おれたちは腹がへると、動くものなら見さかいなく何でも食う。そうだよ、本当はかえるの子、子孫がいたんだよ。それをおれは食った。子どもたちはもうどこにもいない。もうおしまいだ。どうしておれは生きているんだ?」

これは……。
虫たちは、厳しい自然のなかで身体を損傷しながらも生き抜こうとします。「じゃこうあげは」には、6本の脚のうち3本を失ってもひたむきに命をつなごうとする蝶が登場します。「やんまレース」では、予選の段階で体中ボロボロになったやんまたちが、それぞれの願いを叶えるため決勝のレースに挑みます。このレースのあまりにも残酷で、それでいて静謐で美しい結末には、呆然とさせられてしまいます。
異色なのが、「かすみあまつぱめ」というホラ話。飛び続けていないと死んでしまうので寝るときも卵を産むときも飛び続けているという奇妙なつばめの生態が語られます。かすみあまつぱめは普通のつばめたちにつつかれて消え去り、別のかたちに変容します。この無常観は、他の作品と共通しています。
ほぼ唯一のほっとできる作品が、「おけら先生」。いつもみんなからばかにされているばった小僧が、りっぱな先生だと評判のおけら先生が営む"みくるべ六ツ足専門学校夜間部"に入学する話です。小さく弱い生き物を夜の闇が優しくあたたかく育んでいきます。
最後の少し長いお話「かえるのヨズ」が、読者にとどめをさします。おたまじゃくしのころにこおいむしに目を刺されて体が不自由になったヨズは、ある重罪を犯したため自ら日干しの刑を受け死のうとします。しかし死にきれず、みじめなやつらが行き着くというソロ沼を目指して旅をします。道中で出会うのは、死にかけた小動物ばかり。数々の死を通過し、死体が豊饒をもたらすハイヌウェレ的営みも目撃します。
実はヨズはすでに地獄に落ちていて、冥府巡りをしているのかもしれません。はてのない旅路の先にはなにがあるのか、なにもないのか。生きるということの本質を考えさせられます。