『雨の日が好きな人』(佐藤まどか)

母親の再婚により、小学6年生の七海には新しい父親と姉ができました。ところが、姉は「超虚弱体質」でずっと入院生活をしており、七海はあらゆる接触が許されていませんでした。母親と父親は交互に病院に行って姉の世話をしているので、七海は放置状態になってしまい、七海の不満は募っていきます。
いわゆる「きょうだい児」問題に取り組んだ作品です。七海の場合は、再婚によっていわば後天的「きょうだい」児になっているので、マイノリティのなかのマイノリティに目を向けたことになります。この設定は、非当事者である多くの読者を物語に入りやすくするための仕掛けであると思われます。しかし、母親の選択によっては七海にこのような苦難は訪れなかったわけですから、運命の理不尽度は上がります。
他人たちも目にみえにくい困難を抱えていることを七海が知り、共感の回路を開いていくという流れは堅実に教育的です。さらに、その上で自己主張すべきことはするという、共感の先にも踏みこんでいます。七海の視界を晴れさせるのが、逆に「雨の日が好きな人」であるという転倒も美しいです。
それにしても、七海の親はひどすぎます。七海はほぼネグレクトされているも同然ですし、精神的虐待も受けています。父親は病弱な娘かわいさのあまり視野狭窄に陥っていて、七海に対する愛情は皆無であるようにみえます。中盤で七海が、母親はつきそいの交代係にされているだけだと訴える場面がありますが、まさにその通りであるように思われます。さらに邪推すると、将来的な介護要員として都合がよいので、娘のいる女性を再婚相手に選んだとも考えられます。
母親の方も、七海がないがしろにされることがわかっていながらなぜ再婚を決めたのか理解しがたいです。イケメンで金を持っていることは配偶者を選ぶ理由にはなりますが、娘の義父を選ぶという視点が欠けています。これでは、母親ははじめから七海を疎んでいたとしか思えません。いやこれはもしかすると、母親は父親に弱みを握られるなどして脅迫されて結婚させられたのではとか、極端な想像まで広がってしまいます。
この家庭はもう無理であることは間違いないので、七海はできるだけ早く親を捨てて家を出るべきでしょう。