『なりたいわたし』(村上しいこ)

小学3年生の千愛は、同じ学童クラブに通っている4人グループでなかよくしていました。しかし、千愛がもっとも慕っている愛空ちゃんから冷たい態度をとられることが増え、居心地の悪さを感じるようになります。それでもすこしでも愛空ちゃんとの会話の糸口をつかもうとけなげに近づいていきますが、裏目に出てばかり。やがて、他の3人がそれぞれ具体的な将来の夢を持っていること、学童をやめようと考えている子もいることがわかり、千愛の孤立感は深まっていきます。
今年の児童文学のなかでもっとも胃が痛くなったのはこの作品かもしれません。毒親ものなどであれば、子どもが悲惨な目に遭わされても怒りの向けどころはあるので、読者はいくらか気を収めることはできます。しかしこの作品の場合、作中に根っからの悪人はいないのに主人公が何度もいたたまれない思いをさせられるので、読者は静かに胃から多量の血を流すことしかできません。
ものを借りようとしたら放り投げられたり、ひとりだけ学童のバスを待ってもらえなかったり、千愛だけいつも雑な扱いを受けて、地味なメンタルダメージが蓄積していきます。でも、他の3人に強い悪意があるわけではありません。千愛だけ精神的な発達が少し遅れているため、小学3年生なりの対応をした結果があれになってしまうのです。ささいな認識のずれが大きな軋轢を生んでしまいます。千愛は精神的な発達は少しだけ遅れているものの、言語化能力は非常に高いので、状況のつらみは克明に描き出されてしまいます。
認識のずれは子ども同士の横の関係だけでなく、学童の先生との縦の関係でも生まれています。愛空ちゃんは些細なことも保護者に告げ口をする先生を嫌っていて、千愛はそれに同調することで愛空ちゃんの歓心を買おうとし失敗します。この先生は職務として保護者との連携を密にしているだけで、おそらく保護者の信頼は得られているものと思われます。児童のなかにもその先生のよさを見抜いている子もいました。
また、子どもたちは学童で問題を起こしてやめさせられることを恐れています。

わたしたちはみんな、まだひとりでは家にいることもゆるされない、弱い生き物なのだ。
わたしたちが、やってはいけないこと、それは、親を困らせることなんだ。

と、千愛はここまで悲愴な認識を持っています。学童の先生たちの側には、ここまで恐怖政治で支配しているという認識はおそらくないでしょう。大人の側の伝達能力の低さに落ち度はありますが、このレベルの認識のずれが人間社会で生むトラブルを完全に避けることは不可能です。
認識のずれが生む悲劇を緻密に描き出すとともに、それを乗り越える地道な歩みの希望も描いた、読ませる作品でした。