『葬式KIDS 現代を生きるティーンの文学』(篠崎五六/編)

1994年刊行の書き下ろし児童文学アンソロジー*1。参加作家は牧野節子・村中李衣川島誠、加藤多一・森忠明。90年代前半の児童文学・YAの前衛の空気感を概観できる作品集です。各作品を簡単に紹介します。

牧野節子「葬式KIDS」

親友とふたりで特に好きでもない有名人の葬式をひやかして、あわよくばテレビに映ろうとする不謹慎な遊びに興じている女子の物語です。冒頭はこんな感じ。

風間サトシが死んだ。
「屈折した青春を謳いあげる、若者の代弁者」
んなコピーで呼ばれてた、ロックミュージシャン。酒に酔って、自分ちの階段ころがり落ちて、頭打って、急死。
テレビでニュースが流れたすぐあとに、案の定、光咲子から電話がかかってきた。
「キーヨォ、行くでしょ、明日」「ん」
最近じゃ、光咲子のほうが、ノリノリだ。
「じゃ、ガッコーひけてから」「ああ」
光咲子と、あたしは、葬式KIDS。
誰が名付けたわけじゃない。
勝手に、自分らで、そう呼んでんの。

飾り気がなく、イキがいいけど空虚な文体が時代を感じさせます。自虐的で死を志向する主人公が、親友の妊娠・中絶などをきっかけに生に目を向けるようになるという方向性は、ふつうに向日的です。

村中李衣「それぞれのコンサート」

不登校児の娘が独力でイベントを開こうとする様子をテレビのドキュメンタリーのネタにしようとする男性の物語。恐るべき毒親の物語ですが、テレビ業界の軽薄さは、娘の生命力を引き立たせる役割を果たしています。

川島誠「もうすぐ戦争がはじまる」

学校で集団暴行を受け入院した少年が、病院で知りあった右翼の老人に心酔して右翼団体に出入りするようになる物語です。変なところに傍点をつけたり、老人のことになるときちんとした敬語を使ったりする一人称の語りが、不気味さを演出しています。主人公の少年は、集団暴行に加害者側で参加する経験も持っていました。そのとき、集団にまぎれて自分が強くなったような錯覚をし、得意な気分になります。この集団暴行が悪であることに議論の余地はないでしょう。一方で老人の右翼思想には、弱い者を守るという建前上の一応の大義はありました。しかしここでも少年は、集団のうねりの快楽に溺れてしまいます。少年の内面の貧しさと集団の危うさが、薄ら寒い恐怖を読者に与えます。

加藤多一「川から魚がわいてくる」

現在は長くつの神になっているというなんらかの精神体が語り手を務める作品。と紹介するとぶっとんだ設定のように思えますが、著者が加藤多一となれば通常運転です。上からの押しつけを嫌い自然とともに生きようとするいつもの姿勢は、この作品でも貫かれています。

森忠明「死にっかす」

小学六年生が服毒自殺(未遂)をする話と紹介すると過激なようですが、著者が森忠明となれば通常運転です。

ふざけている。
だれかがふざけて宇宙とか地球とかをこしらえたんだ。と五歳の頭は考えた。
だいいち、地球の丸い形は、ひとをばかにしたような、単純すぎる形だ。そして、うかんでいるというのは、もっとばかにしたあり方だ。
ここは、地球という星の上は、まじめにやってゆく場所じゃないような気がした。

五歳にして地球の形に怒りを感じ、もはやここではまじめにやっていられないという達観に至る感性の鋭さには、恐れいるしかありません。

篠崎五六・今江祥智【対談】「"現代を生きるティーンの文学"への招待」

巻末には、今江祥智と編者の篠崎五六の対談が収録されています。篠崎が新しい作品を熱烈に歓迎しようとしているのに、今江が終始冷淡であるという対称性が興味深いです。今江はこのような辛辣な発言をしています。これはいつの時代にも応用できそうです。

イライラさせられることの一つは、状況をうまく書いているつもりで、じつは風俗を書いていることが多いという点。風俗は上手に書いたとしても、五年も経てば古くなるでしょ。でも、風俗をうまくキャッチすると、それで、いまを書いたと錯覚するんです。で、もっと深いもの、子ども、大人のもっと本質的なものが書ける人でも、風俗の目新しさ、おもしろさを描く方向に流れてしまう危険を隣りあわせに持っているんだということを感じますね。

*1:ただし、川島作品は1985年に執筆され未発表だったもの。