語り手の「ぼく」(こばやしゆうと)は、こわいことを後から振り返って「なあんだ、ちょっとこわいだけじゃないか」と思えるようにメモをしています。そのちょっとこわい話が4作収録されています。ちょっとこわいものは、「クマ」「プール」「テレビ」「路地」。最初の「ちょっとこわいクマ」の語り出しが、
いや、わかってるわかってる。クマがすごくこわいことくらい知ってるさ。ちょっとこわいどころじゃない。すごくこわいよね。クマ。
この語り出しから、なかなか油断のできない語り手なのであろうことが推察されます。第1話の恐怖の対象は、実際のクマではなくぬいぐるみのクマです。「ぼく」は、道ばたに落ちていたぬいぐるみのクマにつきまとわれてしまいます。と紹介するとあまりにもありふれた怪談のようですが、ディテールの不気味さが尋常ではありません。「ぼく」はスーパーへおつかいに出かけますが、母親が複雑な路地を通るように指示するというのがまず異界の入り口感があります。「ぼく」が頼まれた内容を「もめんどねぎたまぎゅう」と呪文のように唱えながら歩いてる様子も異様だし、ついに現れるクマも、水たまりに落ちて泥水を吸いこんでいる様子がかわいそうでこわい。そしていちばんこわいのは、現実と夢と夢のなかの夢が混濁し、何が本当のことなのかまったくわからなくなることです。落語の「あたま山」や「そこつ長屋」的な不条理が、根源的な恐怖として迫ってきます。
すべてが混濁し融解するさまが、この作品の恐怖の根幹です。夢の感覚もそうですし、セリフを「」でくくらないことで自他の境界をあやふやにする手法も効いています。第2話では、カッパの皿を拾うことで、自分は泳げないはずなのに泳げるという感覚が意識に流れてきます。自分の意識こそが全く信用できなくなってしまいます。
北野SFのこわさは、自分が立っていた足場がいつの間にか崩壊する感覚、いや、そもそも足場など最初から存在しなかったのだということを突きつけられる感覚にあります。児童向けであってもまったく容赦なくその恐怖を叩きつけています。