『教室のハルモニア』(辻みゆき)

人間関係もほぼ固まった五月の半ばの中学二年生のクラスに、九十九友花という転校生がやってきました。シアトルからの帰国子女だというふれこみなのに英語はからきしダメだったり、どこかズレたところのある子でした。はじめはクラスで好意的に受け入れられますが、やがてズレたところを攻撃され悪意にさらされるようになります。
転校初日に友花は父親のことを「博士」と呼んでおり、はじめから尻尾を見せています。古い作品だと矢玉四郎の『きもち半分宇宙人』、新しめのだと佐藤まどかの『つくられた心』あたりの類作が思い出されます。
クラス18人の女子に焦点が絞られているので、そのありさまが緻密に描かれています。たとえば、ハラスメントの横行する環境では直接の被害者だけでなく否応なくそれを見せられている側も疲弊するというところにまで目配りがなされています。その反面、クラスに半分いるはずの男子は不可視の存在にされています。女子の視界からクラス一番のモテ男子以外の男子がほぼ消えている状況は笑えます。
クラスのカーストトップを自任している女子は、わざわざ図示してまでクラス内の人間関係を読者に解説してくれます。ただ、それに強くこだわっているのはカースト上位の子だけで、そうでない子はその思想を語られてもスンとしています。「契約していないサブスクの無料動画を見るような気持ちでながめていた」という比喩が秀逸です。凝り固まったカースト観は、友花の異質な視点に覆されていきます。

『あの日、ともに見上げた空』(黒田季菜子)

第33回小川未明文学賞大賞作品。小学五年生の伊吹の兄のほーちゃんは「わたしとはぜんぜんちがう人間」で、授業中に校庭に出て馬のギャロップのように走ったりする人でした。登校はNPO法人に所属している青年トモさんにつきそってもらっていて、ふたり一緒に走るさまは『スーホの白い馬』の世界のようでした。そんなほーちゃんは、「修学旅行のしおり」を持ち帰ってからずっと山陽新幹線の駅名を呪文のように唱えていて楽しみにしている様子でしたが、インフルエンザにかかって行けなくなってしまいました。その後伊吹のもとに、トモさんがNPO法人の人々などを巻きこんでほーちゃんの修学旅行をやりなおそうと計画しているらしいという情報が飛びこんできました。知らないうちに伊吹も参加メンバーに入れられていました。あまり気の進まない伊吹でしたが、病弱な親友のコトコも仲間に加わることになり、計画に協力していきます。
おおらかなユーモア*1と関西弁のやわらかい言葉遣いで、心地いい作品世界が形成されています。様々な事情を抱えた登場人物が多くて複雑なのですが、注目すべきキャラが出てくるたびに回想に入り詳しく説明する構成になっているので、さくさく読み進めていけます。伊吹はコトコに、絶対に「ありがとう」といわないでほしいとお願いします。その理由は、父親の親友で「ありがとう」をいわない主義の身体障害者のマコさんのエピソードを次に語ることですぐに明かされます。どの登場人物も好感度か高く、人とのつながりの連鎖で伊吹が成長していくさまがさわやかに伝わってきます。
作品世界の端正さゆえに、ノーマライゼーションの思想もすスッと腑に落ちてきます。たとえば、大勢で旅行をするときになにを優先すべきかという問題。集団の中でもっとも弱い者を優先すべきで、そう考えるとそれはほーちゃんでもコトコでもないよねという論理展開は明解で、納得しやすいです。
障害があろうがなかろうが、人と人が完全にわかりあえることはありません。不完全な理解の途上で、少しずつ進んでいくしかありません。作中人物たちの今後も、この修学旅行の結末すらわかりません。すべては道の途上です。あえて途上ですっぱり物語を切り上げ、ともに空を見上げたという確かな事実だけを美しい記憶として凍結し保存したエンディングに、作者のセンスが光っています。

*1:コトコの「あたしがお泊まりできるところなんて、どうせ病院だけですよ……」という病弱自虐ギャグのように反応に困ってしまうものもあるが。

『まぼろしの馬』(イサク・ディネセン)

20世紀デンマークを代表する作家による童話作品。子どものためというより、おとなのためのメタ童話という面が強いでしょう。
大きなお屋敷に住む6歳の女子ノニーは、長いあいだ病気で寝込んでいました。医者は母親に娘を残して旅に出るようすすめます。

子どもの世界は、しばしば一つの小さな太陽系であるということです。中心には一人だけ、魅惑的な人物が存在するのです。

その魅惑的な人物である母親を独占するために娘は病気にしがみついているので、病気が治れば母親と再会できるのだと娘に思いこませようというのが、医者の意図でした。物語の発端が精神分析的な解釈によって動くというのは、童話としてかなりメタをこじらせています。
その後の大人たちの会話で、当時(1930年頃のイギリス)の腐敗しきった金持ちの生態が暴かれます。このような母親がノニーにとっての「魅惑的な人物」であろうはずがなく、医者の進言に従った母親は道化に成り下がります。
ノニーの叔父で画家のセドリックを主人公として、ノニーの病気の真の原因、真の「魅惑的な人物」の謎を探るという方向に物語は進みます。醜悪なおとなの世界と対比されているため、セドリックが目撃する童心の世界の清らかなきらめきはより強調されます。酒井駒子のイラストがぴったりの美的な作品です。

『君の火がゆらめいている』(落合由佳)

葉澄には、ASDで知的障害を持つ双子の姉がいます。姉のせいで誕生日会に呼ばれなかったりと、友だち関係もうまくいきません。偶然病院で出会った男子を足がかりに「きょうだい児」の互助会にもつながりますが、いやなことはどんどん蓄積されています。
作中では、小学六年生から中学三年生までのできごとが記述されています。年齢が上がるに従って周囲の悪意や親からのプレッシャーも苛烈になります。進路を考えなければならない時期もきて、姉の菜々実との今後の関係についても決断を迫られます。家は理容室を営んでおり、菜々実は昔から無邪気に「かみのけやさん」になりたいと言っていて、葉澄も親も喜ぶだろうから同じ道を進むのがいいのかなと考えていました。しかし成長するにつれ考えも変わってきます。子どもにとっては長い四年という期間の感情の変遷は、重いです。
作品は、冷静で現実的な知見を提供しようとしています。双子のミラクルは起きず、「やさしさだけじゃなくて、合理的な配慮とか、医療や福祉の力とか、人の良心とかを信じたい」と、社会的障壁の解消を求める思想を提示します。その思想を体現している登場人物が、「ミズアイス」というあだ名をつけられている中学校の先生です。ミズアイスは表面的な同情はせず、理詰めで葉澄の進路について助言します。
その一方、作中には燃えるものもあります。タイトルにある「火」とは、人の心のなかに灯る「良心の火」です。
物語的な盛り上げのサービスも忘れてはいません。ここで、家業が理容であるという設定も生きてきます。髪を切ってもらうには、非常に近い距離で危険物を持った相手に身を任せなければならないので、信頼関係が不可欠です。これにより、エモーショナルな姉妹の絆が演出されます。
水と火、冷静と情熱のあいだの現実路線の前進を描こうとしたところに、社会派児童文学としてのこの作品の美点があります。

『わたしはシュシュ やりたいことしか、やっちゃだめ』(黒川裕子)

花の塚小学校六年一組は、手のかかる子が多いと評判のクラス。そのなかでもひときわとんでもないワルイコなのが、シュシュでした。なにしろ遅刻は当たり前だし、学校内に秘密基地の支部をこしらえているし、大量のどんぐりを持ちこんで縄文人ごっこをするし、〈おいしいTシャツ〉と称してものすごい悪臭を放つ服を着てくるし……、シュシュを中心として、六年一組の一年間で巻き起こる事件が語られます。担任の先生にはご愁傷様としかかける言葉がみつかりません。
ファッションで自己主張してくる六年一組の子どもたちには、口は悪いながらもどこか品があり、『長くつ下のピッピ』のような名作翻訳児童文学を思い出させます。また、無軌道でめちゃくちゃなワルイコぶりは、山中恒『六年四組ズッコケ一家』の域に迫っています。でたらめなパワーがこの作品の最大の魅力です。
担任の先生は、靴下に大きな穴をあけていたことから、「穴あき先生」とあだ名をつけられていました。このあだ名がクラスの性質を象徴しています。つまり、「穴あき」とは「アナーキー」です。現代の学校に必要なものは、アナキズムらしいですね。低学年の子はゾロリという「大人の言うことはきかねー 悪のカリスマ」*1のお話を楽しめますが、対象年齢が上の本になるとワルイコのお話は減ってきます。児童文学にはもっと、ワルイコが求められているのではないでしょうか。

*1:このゾロリ評は『税金で買った本』9巻の石平少年の発言より。

『クローバー』(ナ・ヘリム)

第15回チャンビ青少年文学賞受賞作。主人公は祖母とふたり暮らしで経済的に困窮している中学生のジョンイン。修学旅行に行く余裕はなく、バイト先のハンバーガー屋の店長は消費期限の改竄を指示してきて、集めている古紙の値段も下がる一方。なにひとついいことはありません。そんなジョンインの前に、黒猫の姿をした悪魔、それも「ヘレル・ベン・サハル」であり「明けの明星」であると名乗るかなり位の高そうなやつが現れて誘惑してきます。現代韓国版の『ファウスト』といった趣向の作品です。

「神は命令するが、悪魔は試すように仕向けるのさ、選択は人間がするんだよ」
「わあ、悪魔は民主的なんだね」
ジョンインはクスクス笑った。
そこが悪の怖いところなんだよ、おちびさんや。

作中には聖書をはじめとして古典からの引用が多く、衒学的で高踏的な雰囲気も漂っています。そんな雰囲気のなかで交わされる少年と悪魔のユーモラスでシニカルな会話に、この作品の魅力はあります。
その高踏的な部分と現実のシビアさは乖離していません。針の上で天使は何人踊れるかを論じても空腹は満たされませんが、それでも人には無意味な問いが必要です。
最終的に、ジョンインの苦境はまったく改善されません。しかしジョンインは、「一周回って元の位置なのに、何かが変わっている気がする」と前向きに捉えます。現実は厳しくとも、思索の過程には意味があったと信じるしかないのでしょうか。

『逃げる田中』(石川宏千花)

2023年から2025年にかけて「飛ぶ教室」で連載されていた作品の単行本化。
学校ではクロスワードパズルを作るかぼけーっとしているかで浮きまくっている田中さんは、頻繁になにかから逃げています。おじいさんや犬、あるいはMIB(?)から。同級生の田中さんが逃げているさまを目撃する曽我以印は、いつも事件に巻きこまれてしまいます。
タイトルがいいですね。「走る取的」のように動きのあるタイトルは物語の内容を期待させてくれます。もしくは、このタイトルから連想されるのは「蹴りたい田中」でしょうか。躍動感にあふれるカバーイラストもすばらしく、思わず手に取りたくなってしまいます。
第1話で田中さんが逃げていたのは、おじいさんから。以印がおじいさんから話を聞くと、田中さんはおじいさんの家に石を投げこむというガチの悪事をしていました。どうにか追いかけて田中さんの言い分を聞くと、あ、関わらない方がいいかもってなります。
各話の冒頭は、「田中が逃げている」や「田中さんが逃げている」とパターン化されています。中学生になってからはあだ名呼びや呼び捨てが禁止されたのですが、以印は慣れずにはじめは田中呼びしていました。一方、田中さんの方は以印のことを、ドクター(いいん・医院という連想から)という小学生時代のあだ名で呼んできます。こういう細かいところでふたりの関係性を読者に印象づけるテクニックがうまいです。ふたりのゆるい会話劇と意外性のある逃亡の理由で読者を引きつけ、最後まで飽きさせません。
物語の主題は、他人という謎・他人というワンダーです。良質かつ変なSF児童文学に仕上がっています。