『本当にあった? 恐怖のお話・魔』(たからしげる/編)

本当にあった? 恐怖のお話・魔

本当にあった? 恐怖のお話・魔

大事なことを先に書いておきます。小中の学校図書館はこの本を入れておいてください。これは、必要としている子どもに絶対に届けなければならないタイプの本です。
というか、こういうホラー短編集という体裁の本に本当に怖い現実の話を書くのはひどいよね。そんな非道な所業をした作家が2名ほどいるのです。
せいのあつこの「がたがた」は、(大人はいいなあ。学校へ行かなくていいんだもの)という独白から始まる、そんな話です。グループ内の圧力のために幼なじみに冷たい態度をとらざるを得なくなった女子の物語。その女子が本当は幼なじみのことが好きなのかそうでないのか、そこは問題ではありません。理不尽な支配力のために自由な選択肢が奪われるという状況が怖いのです。
梨屋アリエ「あの手が握りつぶしたもの」が描く恐怖は、性的な被害がなかったことにされるという恐怖です。児童に対する性暴力への世間の認識の甘さ*1のため、子どもがひとりで苦しみを抱えなければならないという地獄。梨屋アリエは、朴訥な筆致でその苦しみを描きます。それは、そうした表現でしか描き得ないものです。
性暴力に苦しめられている子どもに、世の中には「わかってくれる大人」がいるということだけでも伝えられれば、救いの糸口になります。届くべきところに届きますように。

*1:作中では、女子だけではなく男子に対する性暴力にも触れられています。このように、世間にまだ認知されていない弱者に目を向ける梨屋アリエの先進性は、もっと評価されるべきです。

『あさって町のフミオくん』(昼田弥子)

あさって町のフミオくん

あさって町のフミオくん

小学3年生のフミオくんの周りで起こる不思議現象を描いた、不条理寄りの童話集。
第1話「ぼくはフミオ」は、買い物帰りのフミオくんが、縞模様の服を着ていたためにシマウマのお母さんに自分の息子だと勘違いされて拉致される話です。シマウマともみあっているうちに持っていた牛乳をかぶってしまうと、今度は牛乳のにおいに釣られたウシのお母さんがやってきて、またも自分の息子だと思いこみ拉致に及びます。
まったく異なる判断基準で行動する人々の怖さがいい具合に描かれています。ウシと口論しているうちにうっかり口が滑って「だから、ぼく、フミオじゃなくて……」と言ってしまい、ウシを満足させてしまう場面などは、恐ろしさとギャグの配分が見事。高畠邦生も恐怖寄りに仕事をしていて、フミオくんが牛乳瓶に閉じこめられている場面などはぞっとさせられます。
第2話「がいこつおじさん」は、あまりの暑さで体を脱いでがいこつだけになったおじさんとプールに遊びに行く話です。脂肪がないから浮くことができずプールの底に沈んでしまうなど、がいこつならではの失敗が楽しいです。フミオにとっておじさんは一緒に遊んでくれる大好きな人ですが、一方でお父さんはおじさんと違ってまともな人でよかったとも思います。こういう子どもらしい無邪気で残酷な選別も笑えます。

『いいたいことがあります!』(魚住直子)

いいたいことがあります!

いいたいことがあります!

小学6年生の陽菜子は、家事の手伝いを自分だけに押しつける支配的な母親に不満を募らせていました。ある日、母親のふりをして塾に欠席の連絡を入れようとしていたところ、家のなかに「幽霊でも泥棒でもない」見知らぬ女の子が出現します。彼女は陽菜子に大人のふりをするための大人語をレクチャーし、ウソの電話を成功に導きます。陽菜子はその後、女の子が忘れていったと思われる手帳を拾います。そこには親に対する批判の文章と、〈スージー〉という署名がありました。陽菜子は〈スージー〉の言葉を頼りに、母親への反抗を開始します。
このタイミングで現れる謎の女の子の正体は、児童文学を読み慣れた大人であれば容易に想像できることでしょう。そのファンタジー設定自体はありふれたものです。では、この作品の特色はどこにあるか、それは〈スージー〉の言葉の強さにあります。

わるい親は、子どもを見ていない。
見ていても、外がわだけだ。心は見ていない。
見ていないくせに、自分がさせたいことを押しつける。
しかも、それを自分で意識していないから、たちがわるい。
(中略)
親は、自分が絶対に正しいと思いこんでいる。
自分の子どもだから、絶対にわかりあえると信じている。
でも、正しさはひとつじゃない。
わかりあえるのも、相手の気持ちを大事にしたときだけだ。それは他人同士のときと同じだ。
わたしは、親に支配されたくない。わたしは、わたしの道を行きたい。
(p34-35)

「親が子どもに向かって『悲しくなる』っていうのは、子どもに罪悪感を感じさせてだまらせるずるい言いかただよ。子どもは親が好きだから、悲しませたくないでしょ。親はそこにつけこむんだよ。」
(p62)

〈スージー〉の言葉にはレトリックがありません。飾らない言葉だからこそ力を持つのです。
現実の子どもの前に〈スージー〉が現れることはありません。しかし、言葉を届けることはできます。それが、児童文学の重要な役割です。
見逃してはならないのは、この作品の主要なテーマはジェンダーの問題「ではない」ということです。陽菜子は、男だけではなくおばさん(母の妹)も家事をしていないということを観察しています。この作品はジェンダーとは別の根深い問題にも踏みこもうとしているのだいうことは、きちんとおさえておく必要があります。

『ガムじいさん、あんたサイアクだよ!』(アンディ・スタントン)

ガムじいさん、あんたサイアクだよ!

ガムじいさん、あんたサイアクだよ!

いかにも英国紳士らしいクソユーモアセンスを持った新人作家が登場。著者のアンディ・スタントンはオックスフォードを中退したのちコメディアンとなり、この作品で作家デビューしたそうです。
町の嫌われ者のサイアクじじいガムじいさんは、最近ジェイクという犬に庭を荒らされるようになっていらだっており、ジェイクを殺害しようと悪巧みを画策します。町の人気者のジェイクを守ろうと9歳の女の子ポリーが立ち上がり、全面戦争が始まります。
食べ物をおもちゃにするとか現実では絶対やってはいけないことを楽しめるのはフィクションの特権。イギリスらしい度を超した下品ギャグ、バイオレンスギャグがよく利いた作品になっています。作中人物がいま自分が登場している本を読んで先の展開を探るズルをしようとするなど、メタなギャグも当たり前のように展開されます。
自重しない語り手も、いかにもイギリス作品らしいです。ある新キャラが登場する場面で、読者の楽しみのためにこの人物の正体は伏せておこうと口先でいっておきながら、すべてその場でしゃべってしまうというフリーダムさ。語り手の構ってちゃんぶりには閉口させされますが、どうか最後までつきあってあげてください。

『その先には何が!? じわじわ気になる(ほぼ)100字の小説』(北野勇作)

その先には何が!?じわじわ気になる(ほぼ)100字の小説

その先には何が!?じわじわ気になる(ほぼ)100字の小説

SF作家北野勇作Twitter上で展開している「ほぼ百字小説」が書籍化されました。本は真四角になっていて、文章も読点句点ごとに改行されているので四角くみえます。このため、短い物語がかたまりとしてぐわっと迫ってくるという、珍しい読書体験を得られます。
web上でも公開されている「使用上の注意」と題された序文には、こうあります。

 この本には、すごく短い小説が130話入っています。読んでみると、なんだかもやもやしたり、すっきりしないと感じたりするかも。きちんとした解決や結末はありません。どういうことだったのか。このあとどうなるのか。読んだだけではわかりません。でも、小説はクイズでも試験問題でもないので、正解は必要ないんです。
 正解があると人間は安心しますよね。逆に正解がないと言われると、落ち着かない。なんとなく不安になります。そんな気持ちを楽しむ。これはそういう小説です。
 不安なんて、普通は嫌ですよね。でも小説でなら、そんな宙ぶらりんで頼りない気持ちを楽しむことができる。なぜ小説(そしてフィクション)にはそんなことできるのか。じつは、小説を書いている私にもよくわかりません。でも、小説の中の不安はなんだかおもしろい。それは知っています。
 ちょっと子供には難しい楽しみかたです。
 いや、本当を言うと、大人にだって難しい。
 どうですか? 楽しめそうですか?
https://kitanoyu.hatenablog.com/entry/2018/08/24/235000

この挑発は、子ども読者に対する信頼の裏返しなのでしょう。
作中にある不安の質はさまざまです。第61話の自分が川を流れる話などは、粗忽長屋的な実存の不安。世界の蓋が開いたから気温が下がったという第38話などからは、なにか巨大なものや世界そのものに対する根源的な不安を意識させられます。第11話の痛覚のない魚の話や第68話の抜け穴の話、本書には収録されていませんがバケツリレーの話*1などは、時局への不安を背景にした痛烈な社会風刺にもみえます。
収録されている作品のなかでいちばん好きなのはこれです。現象に対する不安。語り手に対する不安、あらゆる不安がねじれてぶっとんでわやくちゃになる感じがたまりません。

*1:

その他今月読んだ児童書

城の王 (講談社文庫)

城の王 (講談社文庫)

文庫化はもちろんありがたいのですが、なぜ『ぼくはお城の王様だ』というセンスのいい邦題を変更してしまったのでしょうか。スーザン・ヒルの『ぼくはお城の王様だ』とシャーリィ・ジャクスンの『ずっとお城で暮らしてる』をセットで他人におすすめするのが悪い外文読みのお約束だったのに、これでは釣り合いがとれなくなってしまいます。
チャルーネ

チャルーネ

  • 作者: ホーコンウーヴレオース,オイヴィントールシェーテル,H〓kon 〓vre〓s,Oyvind Torseter,菱木晃子
  • 出版社/メーカー: ゴブリン書房
  • 発売日: 2018/07/01
  • メディア: 単行本
  • この商品を含むブログを見る
夜中にスーパーヒーローに変身していじめ加害者に復讐する話。イラストのゆるさにちょうど合っているいい温度の作品なのに、訳者あとがきの書きぶりがシリアスすぎるので、読者に余計な先入観を与える懸念が持たれます。
ケイゾウさんの春・夏・秋・冬 (わくわくライブラリー)

ケイゾウさんの春・夏・秋・冬 (わくわくライブラリー)

幼稚園に住むおいぼれにわとりケイゾウさんの物語第2弾。前作と同じく、園児に対するケイゾウさんのツンデレがユーモラスに描かれている、ほほえましい作品になっています。この作品の初出は「母の友」2001年11月号とと2002年2月号。それがいまになって本になる気の長さは児童文学の美点ではありますが、もうちょっと早く出してもよかったのではないかとは思います。
スパイガールGOKKO: 温泉は死のかおり (ノベルズ・エクスプレス)

スパイガールGOKKO: 温泉は死のかおり (ノベルズ・エクスプレス)

ベテランの作品で、主人公が3人組なので、どうしてもズッコケ三人組みが感じられてしまいます。富安陽子の新シリーズ。鬼灯京十郎という不吉な名前の転校生が、オバケ関係の厄介ごとを引きこんできます。今回の相手は影の妖怪なのですが、その退治法にあれを使うのかというところに驚かされます。

『南西の風やや強く』(吉野万里子)

南西の風やや強く

南西の風やや強く

東大卒のエリートの父を持つ伊吹、スナックを経営する母に育てられ暴走族ともつながりを持つ多朗、境遇のまったく違うふたりの少年の12歳と15歳と18歳のエピソードを切り取った連作短編です。
最初の「12歳」編は、受験勉強のストレスからかもともと性格がねじくれていたためか、伊吹が神社の木の枝に結ばれていたおみくじを夜中に破るという暗い遊びに興じている場面からスタートします。単にただで占いをするために枝のおみくじを引いていた多朗は、伊吹も同じことをしているのだと思い、気軽に声をかけてきました。ふたりはおみくじの指示に従い、夜に小学生ふたりで南西を目指して歩くという小さな冒険をすることになります。これは皿海達哉風のリアリズム短編になっていて、非常にいい雰囲気の作品でした。
この作品の特徴は、物語的なお約束を外してくれるところにあります。それを、病気というままならないものを道具にしてくるのが、なんとも嫌らしいです。エリートの父には息子の壁となる役割が期待されるところですが、病気でそうした役割から外れてしまいます。そしてもうひとり伊吹の身近な人が難病になり、みんな大好きなああいう展開になりそうになりますが、現実はそううまく美談にはならないだろうというところに落とされます。18歳の伊吹は大人向けの雑誌に現実を少し脚色した文章を投稿することを趣味としていました。虚構をもてあそぶ少年ですから、こういうままならなさにはねじくれたかたちのダメージを受けるはずです。
しかし、そういうままならなさを描きながらも、超越者である作者は自分は物語をコントロールしているんだぞというところをみせてきます。病の兆候は伊吹にきちんと目撃させていますし、おみくじというかたちで露骨に作中人物に指示を与えてもいるのです。吉野万里子は本当に性格が悪くてすばらしいですね。
そういう意地悪な作品ですから、趣味の悪い妄想もできます。伊吹は多朗に悪い感情を持っていませんが、実は多朗は重要な局面で伊吹をひどい目に遭わせているんですよね。「12歳」では伊吹を危険な目に遭わせています。「15歳」では、伊吹が憎からず思っていた女子が伊吹のことを好きなのではないかというそぶりを見せますが、ああなるわけです。「18歳」では、父親がプロの女性を相手にあんなことをするという、息子としては絶対みたくないような場面を、多朗が手引きして目撃させます。実は多朗は伊吹のことを憎んでいて、裏からいろいろ仕組んでいたのではないかと邪推することもできそうです。