『ぼくらのスクープ』(赤羽じゅんこ)

イダッチと魔王は、5年1組のたったふたりだけの新聞係。イダッチは社会科見学で出会った新聞記者に感化され、学級新聞にすごいスクープを載せようと意気込んでいました。魔王はいつも「魔王」という文字がプリントされたシャツを着ているためそんなあだ名をつけられた変わり者で、新聞係に立候補した動機はなにか、やる気があるのかどうかも判然としないキャラです。こんなふたりの活動が順調に行くはずもなく……。
最初のエピソードは、イダッチが近所のパワハラじじいからピンポンダッシュ犯だと決めつけられ、汚名を晴らすために真犯人を捕まえようと張り込みをするというものでした。ところが逆に近くの商店から不審者扱いされ学校にクレームを入れられ、頓挫してしまいます。その後も、クラスの子が作文の盗作疑惑をかけられる事件や、中学生に自転車ではねられる事件の取材をしますが、どれもうまくいきません。
この作品、なかなか読者をスカッとさせてくれないので、読むのにストレスはかかります。盗作疑惑事件では、そもそも盗作とはなんなのかという定義から突き詰めていき、交通事故ではそもそも道が整備されていないのが悪いのではという問題も浮上してきて、単純な解決を許してくれません。そのうえ相棒の魔王は、いつもイダッチに反対意見ばかり出して足を引っぱっているかのようなふるまいばかりみせるのです。
しかし、イダッチが世界の複雑さを受け入れ、魔王のパーソナリティーを理解するようになると、読者の目に映る景色は一変します。そこから、最終ページに完成した学級新聞を掲載するという仕掛けがうまくはまっています。学級新聞の細かいところにいかにも小学生がやりそうな悪ふざけが入っているのが好きです。

『ミシシッピ冒険記 ぼくらが3ドルで大金持ちになったわけ』(ダヴィデ・モロジノット)

時代は1904年のルイジアナ州。天性の冒険野郎テ・トワ、シャーマンのエディ、決して泣かない少女ジュリー、内に輝かしい知性を秘めたティト、この仲良し四人組が主人公を務めます。遊び場の沼地で3ドルを拾った子どもたちは、カタログでピストルを注文します。3ドルは家族の生活を支えるために使えばかなりの助けになる大金、それを無駄遣いしたことでこっぴどく怒られます。しかも届いたのはほしかったピストルではなく古びた懐中時計でした。ところがその懐中時計がヤバいブツであったらしく、四人組は大金を求めて丸木舟でミシシッピ川を旅し、大都会シカゴを目指します。
さまざまな問題を抱えた子どもたちが船出するので、日本の悪い児童文学読みは『ぼくらは川へ』とか口走りたくなるところです。しかし船出は出発点で、その後は思いがけない冒険が待っているので心配はいりません。タイトルに「大金持ちになった」という結論は明示されていますから、ハッピーエンドは確約されているようなものです。
内容やテーマに関しては、あまり先入観を与えそうなことは述べない方がいいでしょう。怪しい懐中時計やらなんやら冒険小説としてのフックはたくさんあるので、特に何も考えず物語の流れに身を委ねれば問題ありません。
物語だけではなく、本のデザインも楽しいです。カタログや新聞記事の図版がたくさん入っていて、20世紀初頭の空気感を想像させてくれます。最近の岩崎書店の翻訳児童文学は重厚な作品でもソフトカバーで出てるのが目立ちましたが、モノとしての魅力の強いこの本はハードカバーで出してもらえてよかったです。

『イナバさんと雨ふりの町』(野見山響子)

ちょっとぼんやりしているため不思議な世界に迷いこみやすい体質のイナバさんを主人公とする『イナバさん!』の続編。イナバさんは今回もみっつの奇妙な世界と遭遇します。
第1話の「イナバさんと雨ふりの町」は、雨が続いて毛皮が湿気でだめになってしまうので出不精になり冷蔵庫を空にしたイナバさんが、2階しかないはずなのにどこまでも上昇するスーパーマーケットのエレベーターで、あるはずのない屋上遊園地に到達する話です。イナバさんの体質が雨に閉ざされた世界のメランコリーを高める序盤と、屋上の解放感の対照が楽しいです。
第2話「イナバさんと福引き券」では、夏祭りの縁日という非日常空間からさらなる非日常空間にいざなわれます。
出色なのは第3話の「イナバさんと電話ボックス」です。福引きで当てた旅行券で秘境駅の温泉宿に行くことになったイナバさんですが、電車が遅れたため電話ボックスに入って宿に電話しようとします。するとどうした弾みか、電話ボックスからまたも奇妙な世界に迷いこんだイナバさんと無事に温泉宿に着いたイナバさんが分裂してしまいます。よくわからないうちにジオラマに閉じこめられて競売にかけられるという大ピンチに陥った電話ボックスのイナバさんは、宿のイナバさんに電話をかけ、なんとか元に戻ろうと知恵を絞ります。
電話ボックスは狭く閉鎖されていながら世界をつながっているという奇妙な心細い空間で、怪談の舞台にもなりやすいです。児童文学では、小野康裕の『少年八犬伝』の砂のなかの電話ボックスという奇想が思い出されるところです。そんな不安と怖さがイナバさん世界のSFみとあわさって、独自の不条理空間がつくりあげられています。
イナバさん世界にはさまざまなパラレルワールドが存在します。ただし、今回の3話に共通して登場した鼻の長い貿易商は、それらの世界の上位のレイヤーの存在のように思えます。自分たちより上位の知性に観察されもてあそばれているかのような不気味さも、イナバさん世界にはあるようです。
SFと不条理の濃度とバランスがすばらしく、近年まれにみる高レベルのメルヘンになりそうなので、ぜひ長くシリーズを続けてもらいたいです。

『プロクター博士のおならパウダー』(ジョー・ネスボ)

「意味のないおならブーブーを、いちばんよろこぶのは?」
「ふむ」博士が答える。「そりゃ、子どもだ。ついでに、ちょっと子どもっぽい大人も好きだろうな」

「ハヤカワ・ジュニア・SF」の第2弾が登場。第1弾は王道の冒険SFで、次が意味のないおならブーブーだという振れ幅。やはりハヤカワは信頼できます。
ノルウェーの首都オスロに住むリサは、親友が引っ越ししてしまったため落ちこんでいました。しかし、かつて親友が住んでいた家に引っ越してきたニリーという少年と親しくなったことから、騒がしくも楽しい日々を過ごすようになります。ニリーは控えめな体格だけとうんちく(デタラメも含む)を語り出すと止まらなくなる愉快な少年。そんなニリーは近所の「イカレ科学者」プロクター博士と仲良くなり、飲むとはるか上空に飛び上がるほど強力なおならを出すことができる「おならパウダー」という発明品の実験に参加、リサもつきあうようになります。ところがならず者の一家が博士の発明品を横取りしようと悪巧みをはじめ、リサやニリーはピンチに陥ります。
導入部の読者の期待感の煽り方がうまいです。まず4つの地図を提示し、ヨーロッパ、ノルウェーオスロ近郊、オスロ市庁舎周辺と、舞台に近づいていきます。本文では太陽が日本から西へ進みノルウェーに行って、物語の舞台の様々なものを順番に照らしていく様子を記述していきます。「死者の地下牢」と呼ばれる脱出不可能な牢獄、下水道に生息するアナコンダなど。読者はこういった舞台や役者がどんな役割を果たすのだろうと想像力を喚起されることになります。そして物語は、期待を裏切らずご機嫌に進行していきます。
ちょっと驚かされるのは、活字が大きいとはいえ300ページ以上あるこの本の対象年齢を「小学校低学年~」と設定していることです。ハヤカワは、おもしろいものを吸収したがる読者の貪欲さを年齢を問わず信頼してくれています。

『ぼくのがっかりした話』(セルジョ・トーファノ)

第一次世界大戦の時代のイタリアで雑誌連載された作品。カルヴィーノの『マルコヴァルドさんの四季』の挿絵なども手がけた著者自身による挿絵も雑誌掲載時のままで収録されています。
小学校の卒業試験に3回も落第したベンヴェヌートは、12人の家庭教師からさじを投げられます。13人目の家庭教師パルミーロ・メッザネッラはまったく勉強を教えずおとぎ話ばかりを語っていて、近所の子どもたちの人気者になります。ベンヴェヌートはパルミーロが持っていた7リーグ靴を盗んで家出をし、さまざまなおとぎ話世界を渡り歩きます。
タイトルのとおり、物語内では失望が繰り返されます。ベンヴェヌートは親や教師からがっかりされ、ベンヴェヌートが出会うおとぎ話世界の住人たちはベンヴェヌートにがっかりされます。
まずベンヴェヌートは、たくさんの子どもたちを養っている巨大な体躯の老夫婦と出会います。なぜかこの家では肉食が禁忌となっていて、その手がかりがきっかけでベンヴェヌートは老夫婦の正体を知ります。ベンヴェヌートからすればこれは命拾いなのですが、おとぎ話世界のスターとしての輝きを失った老夫婦の姿にベンヴェヌートはがっかりさせられます。
このように、英雄は落ちぶれ、幸せな結婚生活は破綻し、尊い自己犠牲は無駄死にに終わるといったがっかりを、ベンヴェヌートは何度も体験させられます。アンチ成長物語として、脱力のギャグとして秀逸です。
しかし、ベンヴェヌートが表明する怒りは本物です。それは第一次世界大戦中という時局への異議申し立てでもあるのでしょうが、現代にも通用する普遍性を持っています。ガッカリダケガ人生ダ。

「信じるって? 何を信じるの? あんたが約束した魔法はどこにあるのさ? あんなに魅力的だったあの輝きはどこに行ったの? あんたは見たの? 力は失われて、財産は消えて、偉大さや野心もなくなって、有名人は落ちぶれた。どこもがっかりすることばかり! 幻滅して、がっかりすることばっかりだ! どこも貧乏だし、真実はねじまげられているし、みじめな現実と、こけおどしや見せかけ、つまらないことだらけじゃないか!」

『予測不能ショートストーリーズ  文化祭編』(にかいどう青)

『恋話ミラクル1ダース』に続く、にかいどう青のショートストーリー集。Y市立未良来中学校の文化祭期間の物語が12編収録されています。現在の児童文学界でもっとも物語を愛している作家であるにかいどう青らしく、さまざまな趣向で読者をもてなしてくれます。戯曲形式であったり、選択肢で分岐して本の上下段で別のストーリーが展開される形式であったり、そもそも最初の作品が小説ではなくまんがであったり、多種多様な驚きを与えてもらえます。そのなかから特に好きな話をいくつか紹介します。
「OTG☆☆☆」*1は、文化祭で上演された中学生のオリジナル脚本の劇という設定の戯曲です。おとぎ話パロディの話ですが、この作品のよさは本当に中学生がノリと勢いだけでつくったという感じがうまく再現されているところにあります。冒頭の登場人物紹介をみればその空気が伝わると思うので、少し引用します。

シンデレラ…くいしんぼう
魔女…………かぼちゃは専門外
佐藤さん……だれ?
ケルベロス…地獄の番犬

「浮遊感覚スカイウォーカー」は、空気が読めず学校で浮いているために体も浮き上がるようになった少年の物語。かんべむさし中井紀夫のSF短編にも類例のあるネタですが、お約束の結末の悟りきった叙情性には感嘆させられます。
わたしが最も好きなのは、「ビー玉メモリーズ」。先生に告白してふられるたびに薬でつらい記憶を消してもらい、また告白してふられることを繰り返す女子の物語です。何度試行しても報われない恋の美しさと気高さに圧倒されます。
「ビー玉メモリーズ」もそうですが、この作品集では記憶喪失にタイムスリップに選択肢型のAVGに未来予知と、手を変え品を変えループもののような趣向が繰り返されています。試行を繰り返すなかで成功したりしなかったりする人生の歓喜と悲哀がこの作品集の味になっています。そんななかで輝きを放つのが、ろくろ首の一族なのに手首が伸びるようになった女子を主人公とする最後の短編「ろくろ首心化論」ですが、ネタばらし配慮のためこの感想は以下に白文字で記します。

TV版ウテナ最終回であったり、破であったり、手を伸ばすというクライマックスにわたしたちは何度も泣かされてきました。ですから、それをそのまま提供されてもそれなりには感動できるはずです。しかし物語の類型を知り尽くしているにかいどう青は、幾重にもひねくれてみせてその破壊力を極限まで上げました。
ループものの話を繰り返しながら最終エピソードは一発勝負にしたこと。それでいてきちんと完結していたはずの前のエピソードをひっくり返したこと。そこにろくろ首の手首が伸びるというおもしろ要素を入れたこと。落下する相手を引き上げるのではなく上昇する相手を引き戻すという転倒をみせたこと。これだけの布石を打ってから王道のクライマックスに到達させたのです。にかいどう青は、本当に油断のできない作家です。

*1:『恋話ミラクル1ダース』にも本作にも思春期のメンタル混乱が不思議現象につながるという世界谷っぽさがありますが、この「スリースターズ」というタイトルも梨屋アリエオマージュであるというのは考えすぎでしょうか?

『先生、感想文、書けません!』(山本悦子)

八月一日の登校日にひとりだけ宿題の読書感想文を書けなかったみずかは、「わたしには、感想文、むり!」と堂々と言い放ちます。帰り道に友だちのあかねと感想文が書けない理由を話し合ったみずかは、あかねが主人公の話をつくってその感想を書くという奇策を思いつきます。
担任のえりこ先生は、感想文は「思いを言葉にする練習」であると説きます。これはたしかに正論ですが、みずかの「むり!」を解消させる手助けにはなりません。しかし、あかねとの話し合いのなかで徐々に問題点が洗い出されてきます。
なかよしのふたりですが、話のなかでふたりの違いが明らかになっていきます。かなしい話が嫌いなみずかに対し、あかねは「こうふくの王子」を読んで「そういうのもいいな」*1と思ったりします。そして、あかねは作中人物の気持ちになって考えることができるのに対し、みずかにはそれが難しいことがわかってきます。その解決のために友だちを主人公にした話をでっちあげるというのは、理にかなった方策です、
この作品のおもしろさの中心はみずかとあかねの掛け合いにあります。理屈を積み重ねながら時に飛躍して物語をつくっていく過程が楽しいです。その過程のなかで、人と人とのあいだの断絶を想像力によって乗り越えられる可能性が探られます。
暴れ回るみずかとあかねの想像力に併走する佐藤真紀子のイラストもすばらしいです。特に、76,77ページの躍動感がたまりません。

*1:オスカー・ワイルドを読んで「そういうのもいいな」と思う感性、大事に育ててほしい。