『窓のまどかさん』(戸森しるこ/作 クリハラタカシ/絵)

「もしかして、まどかさんは、窓か?  なんちゃって」
「そうなの。わたし、窓なのです」

『ねぎのねぎしくん』に続く、「不思議なイキモノガタリ」シリーズ第2弾。前作のねぎとはと違い捕食関係はないので、あまりおびえる必要はなさそうです。捕食関係で読者をおびえさせる児童文学作家ってなに!?

真凜が体育館の戸締まりをしていたところ、窓に話しかけられます。窓のまどかさんの話によると、学校のすべての窓がまどかさんなのだとのこと。転生するねぎに対して、遍在する窓。学校のほとんどの場所でまどかさんの監視から逃れられないと考えると、かなり怖いです。
まどかさんは人間のふりをするのが楽しいらしく、ボールがぶつかると痛くもないのに痛ーいと言ってみたりします。あるいはトイレではありえないデリカシーのない話題を真凜にぶつけ、異次元のコミュニケーションを挑んできます。ただ、トイレのエピソードのオチなどをみると、まどかさんは人間の気持ちがわかっているのに(あるいは、すでにある程度習得しているのに)、あえてわからないふりをして真凜をからかっているようにも思えます。
窓の寓意は明らかで、真凜はまどかさんとの関わりを通して新たな視点を得ます。そういう意味では、くせ者の戸森しるこにしては素直に教育的なお話のように受け取れます。一方でまどかさんは、内側しか見ることができないという皮肉な設定上の縛りを与えられています。まどかさんは外の世界と接続することができるのか、ここが終盤の注目ポイントです。

『しょうがっこうの、いやなところ… 』(山本悦子/作 佐藤真紀子/絵)

『しょうがっこうが、きらいです!』とか『しょうがっこうの、いやなところ… 』とか、おとなから嫌がられそうなタイトルの本こそ、子どもは手に取りたくなってしまうものです。
小学一年生のかりんは、ママと赤ちゃんがふたりきりで家にいることが気になって、登校した瞬間から家に帰りたくなってしまいます。とにかく学校が嫌で、嫌なことは即座にななつ挙げられます、最初に挙げたのがこれ。

一年のきょうしつにいる子って、一年生ばっかり。

いきなり本質を突いてしまいました。一年生は自分のことも満足にできないしすぐ泣くし自分の好きなことばかりしゃべって会話が成立しないし、なかよくなれそうな要素がありません、
そんな感じであまり積極的に人と関わろうとしないかりんですが、隣の席のたかとくんのことはちょっと気になっていました。たかとくんは他の男子と違って騒いだりせず、休み時間に掃除用具ロッカーと壁のあいだにはさまって出られなくなったりといった変わった行動をします。最初は庇護対象としての興味でしたが、それがやがて友情に変わります。
こんなにも小学一年生な一年生たちがだんだん社会性を獲得しておとなになっていくのは、驚嘆すべきことです。その驚くべき成長の芽をゆるやかに描きだしたところに、この作品のよさがあります。

『ルギーはさけぶ』(山中恒)

1969年学習研究社刊。1976年偕成社文庫版刊。偕成社文庫版には盟友佐野美津男の解説が収録されています。山中恒の生い立ち、職歴、文学活動、作家論がコンパクトに的確にまとめられていて、児童文学のあるべき理念も示されています。この解説も必読です。

おとなが読めばつらい部分も少なくないけれど、子どもが読めば圧倒的におもしろい部分の多い本。これが山中恒という作家の著作のすぐれた特徴といえましょう。
(佐野美津男解説より)

主人公のルギーは、〈平和の森〉と呼ばれるジャングルのなかの小さな村で暮らしている少年。ルギーの父のイッカムは村一番の狩りの名人でしたが、村の有力者である占い師の老婆ブーバに目をつけられていて、なにかといたぶられています。ルギーとブーバの知恵比べが、物語前半の軸です。
佐野美津男も指摘しているように、山中作品では老婆は名悪役として活躍します。老婆は敵ではなく連帯すべき弱者ではないかという批判もなされていますが、狡猾な敵役としての魅力は捨てがたいものがあります。

はっきりいって、子どもの敵はやはりおとなです。そのことを、自分自身がおとなであるにもかかわらず、子どもたちに向かって伝達していかなければならない。これはあまり楽な仕事ではありません。自分で自分を告発しているようなものですから、つらいこともあるのです。だが山中恒は、そのつらい作業をやりつづけています。もちろんこの本も、その作業の一つです。
(佐野美津男解説より)

主人公のルギーは身体能力が高く知恵も回る、やや現実離れしたヒーローとして造形されています。しかし、ルギーの知恵で救われた父親がそのために倒れてしまうといった皮肉な悲劇性もあり、娯楽活劇として読ませます。
やがてルギーはブーバに敗北し、村を追われます。小悪党が支配する村は、ある意味では外の世界から隔絶された守られた空間でもありました、外の世界に出たルギーは、ブーバをはるかに上回る邪悪、人間狩りをする白い悪魔との対決を余儀なくされます。
ラストの一文があざやかです。ルギーは少し現実離れした超人ですが、それが現実に接続されます。実際に人は抵抗のために困難なたたかいに挑むことができるのだという、力強いメッセージ性を獲得しています。

思想的ということと、かたくるしいということは、同じではありません。文学にあって思想的とは、とりもなおさず人間的ということでもあり、それがすぐれているというのは、人間がいきいきと描きだされていることではないでしょうか。
(佐野美津男解説より)

『プライド 風魔小太郎忍法帖』(小前亮)

「土地と守ること、民を守ること」を信条とする忍者の一族・風魔の里が、武田家に仕える甲州透破に襲われ壊滅します。まだ若い小太郎が一族の頭になり、甲州透破、そのなかでも腕利きとして知られる甲州三鬼への復讐を、生き残った少数の仲間とともに誓います。
時代ものエンタメは、小前亮に任せておけば間違いありません。まず、キャラ配置がうまいです。物語の中心になるのは、スピード自慢の小太郎と火・爆破系の忍術を使えるツバキ、隠密行動が得意な影人の若手三人組。そこに、若手を支える魅力的なベテランの忍者が配置されます。若手の教育係の椰木は、両目に古い刀傷があり眼帯をしている、風格漂う見た目もかっこいい女忍者で、戦力としても精神的支柱としても頼りになります。さらに、ライバルの忍者集団の人間でありながらなにかと助力してくれたり稽古をつけてくれたりするトリックスター的なおいしい立ち位置の強い忍者も登場します。もちろん復讐相手もくせ者揃い。里を裏切った兄弟子に師を殺されるというお約束もあり、復讐心が燃えたぎります。
忍術のファンタジー度は中の下程度に設定されていて、派手さと緊迫感がちょうどよい塩梅です。炎上する城を舞台としたラストバトルは、それはもう盛り上がります。復讐を完遂した後の下巻は、物語のトーンが少し変わります。時が過ぎ若手三人組もおとなになって責任が重くなり、それぞれの信念も分かたれていきます。また、豊臣秀吉の支配が強まり時代も暗くなっていきます。そもそも風魔一族は北条家と手を組んでいるので、はじめから負けは確定しています。
作者があとがきで「また負ける話を書いてしまった!」と嘆いているのは笑えます。でも、わたしも子どものころに読んだ時代ものの児童文学では負ける話が印象に残っていますし、子どもも滅びゆく者の美のようなものは感じられるはずです。
負けは確定しているものの下巻のラストバトルも激しいボスラッシュで盛り上がり、結局主人公側はある面でいいとこ取りして終わるので、悲哀はありながらも物語としての収まりはよいです。

『アッホ夫婦のおとなりさん』(グレッグ・ジェームズ&クリス・スミス)

ロアルド・ダールが生み出した不潔で邪悪ないじわる夫婦物語の二次創作。イギリスで2024年に刊行されました。いや、あの夫婦って最終的に消滅して世界は平和になったのでは? しかし、悪は何度でもよみがえるものなので……。いじわる夫婦の隣に、ラブリー一家が引っ越してきました。ラブリー一家はとってもラブリーで、歯の浮くような「ラブリールール」を守って生活していました。

いつでも だれにでも ラブリーであれ
あらゆる人びとに ラブリーな 1日を 
あらゆる人びとの 心の中は みなラブリー!

この理念を実現するため、ラブリーバスにラブリーな発明品をたくさんつめこみ、みんなにラブリーな1日をプレゼントする活動にいそしんでいました。絶対に関わりあいになりたくない。もちろんラブリーといじわるがなかよくできるはずなく、激しい抗争が始まります。
「バケモンにはバケモンをぶつけんだよ!」メソッドで、新たなとんでもない怪物が生み出されてしまいました。ダールオマージュなので、ドタバタしっちゃかめっちゃか、食べものも粗末にして、大騒ぎになります。
人間の本質はやはりラブリーではなく憎悪なのでしょうか。ラブリー一家もいじわる夫婦に耐えられなくなると信念を捨て、憎悪に走ります。
ただし、この戦いがラブリー一家といじわる夫婦だけの戦いではなく、ラブリー一家を含む群衆といじわる夫婦の戦いに発展してしまうと、様相は変わってきます。こうなると、数の暴力を正義と信じる多数派が少数派を叩き潰す構図になります。どっちにも消えてもらいたいけれど、どちらかというといじわる夫婦に同情したくなってしまいます。結局、人類を支配するのは数の暴力と憎悪なのでしょうか。でも、希望はあります。だって、悪は何度でもよみがえるのですから。

『ンビリの王子、旅にでる』(作・長江優子 絵・fancomi)

カタカナ大陸には「ア」から「ヲ」で始まる名前の45の王国がありました。「アッケラカン王国」「イカンガル王国」「ウンパカ王国」「エンヤコラ王国」などなど。ただし物語の主人公は大陸の者ではありません。大陸のはなれ小島の「ンビリ王国」のライオン王子ンパオです。ンパオ王子は「アッケラカン王国」にある各国の王族の子どもが通う学校で学んでいましたが、この学校ではなんでも名前の順。「ンビリ王国」の「ンパオ」はいつも最後になることに不満を持っていました。父王が亡くなったためンパオ王子は国に呼び戻され、即位の式をするようヌーのしつじに指示されます。しかし、各国の王族を招くとまたビリ扱いされるのではないかという不安に悩まされます。そこでンパオ王子は、ンビリをビリにしないための妙案を思いつきます。

「ンビリ王国では、『ん』のつく言葉は、なんでも『ん』からはじめるというきまりにする。パンは、『パ』をとってン。ダンゴムシは、『ダ』をとって、ンゴムシだ!」

このきまりを国中に知らしめるために、ンパオ王子は旅に出ます。
とにかく遊べる要素が多く、Eテレの構成作家でもある長江優子がその手法を児童文学にダイレクトに取りこんだような作品に仕上がっています。
序盤の見開きでは、各国の名前と王族の顔を紹介したカタカナ大陸の地図が提示されています。これをみてどの王国に住みたいか考えるだけで無限に時間が過ぎていきます。やっぱりコアラ王の「クッチャネン王国」かな、それとも謎の「ハンバーガ王国」かな。
ンパオ王子から新しいきまりを命じられた国民は、理不尽な命令なのにみんなノリノリで歌い出します。フルーツショップを営むインドゾウ改めンドゾウは、

リンゴは?
「ンゴー」
マンゴーは?
「ンゴー」

と。このパターンのもの以外にも作中には10もの歌があり、巻末には楽譜もついていて、しかもQRコードを読むとYouTubeで実際の曲を聴くことまでできます。そこまでサービス満点で本当にこの値段でいいんですか?
このきまりによって同音異義語が増殖し、当然コミュニケーション不全も起きます。これも、「んじゃで んじゃが んでった」などと、リズム感よく陽気に展開されます。
優れた児童文学は、あざやかに価値観を転倒させてくれるものです。終盤に明かされる「ンビリ王国」の正体によって、世界は一気に風通しがよくなります。

『秘密のフリンドル・ファイル』(アンドリュー・クレメンツ)

現代アメリカを代表する児童文学作家のひとりアンドリュー・クレメンツの遺作。いたずらの天才ニックがみんなでペンを「フリンドル」と呼び言葉を乗っ取ろうといういたずらを思いつき騒動が拡大していった『合言葉はフリンドル!』の続編です。今回の主人公は、プログラミングが得意な少年ジョシュ。ニックがグレンジャー先生に立ち向かったように、ジョシュはN先生という国語教師に挑みます。
N先生は格好はいつもアロハシャツでラフなのに、授業は超保守的。デジタル機器は一切使わず、1959年に改訂増補版が出た『英語文章ルールブック』をバイブルのように扱い、それをもとに手書きで作文を書くように強要しています。幼いころからスマートフォンやパソコンに親しんでいるジョシュたちからすれば、N先生のアナクロぶりは頭痛の種でした。あるとき、ジョシュは反撃のチャンスを得ます。N先生の姿がフリンドルを発明したニックとそっくりであることを知り、N先生の正体を探ろうと悪巧みを始めます。
序盤から中盤は、ジョシュとN先生の息詰まる心理戦で読ませます。まずジョシュは「フリンドル」と書かれたペンをN先生に拾わせ、揺さぶりをかけます。明らかに動揺した表情を見せたことから、N先生はニックだと確信を深めます。しかし、N先生もこのクラスに秘密に気づいている者がいることを知ってしまっているので、犯人を探ろうと授業の課題に罠を仕掛けます。どちらも抜け目なく策略を練るので、ふたりの攻防から目が離せなくなります。やがてジョシュは、真に戦うべき敵の存在を知ります。
『合言葉はフリンドル!』の時代から、子どもたちをめぐる環境は大幅に変化しています。しかし、作品の核にはどんなに時代が変わっても価値を失わない確固たるものがどっしり構えているので、安心感があります。それは『英語文章ルールブック』であり、『シャーロットのおくりもの』であり、E・B・ホワイトであり、そしてなによりもグレンジャー先生です。
アンドリュー・クレメンツは遺作をデビュー作の続編とし、時代の変化と世代交代を描き、普遍の不変の価値あるものも描ききりました。ここまで華麗にキャリアを完結させた作家も珍しいのではないでしょうか。