『真夜中の4分後』(コニー・パルムクイスト)

物語が始まるのは、二十三時五十四分の病院。語り手は十二歳のニコラス。ニコラスの語りは少し口が悪いようにみえますが、その事情はすぐにわかります。

その部屋で、ぼくのお母さんは、せっせと死にかけている。死んでもいいかと、ぼくの許可も取らずに。みんな、まずはわが子に許可を取るべきだ。子どもに決めさせるべきなんだ。

これは、子どもがどんな悪態をついても許される状況です。最悪の瞬間を前に、ニコラスは犬の動画を延々と眺めて現実から逃げることしかできません。
こういう状況にある子どもは異界に導かれるものです。ニコラスはエレベーターで「終点」に降り、奇妙な地下世界で列車に乗りこみます。
パトリック・ネス&シヴォーン・ダウドの『怪物はささやく』と同様に目を背けたくなる題材ですが、この作品はニコラスの皮肉の効いた独特の語り口や地下世界の不思議さで読ませてくれます。
受けいれがたいことを受けいれるには語ること物語化することが重要であるとする点で、2作は共通しています。これは、文学の力に対する信頼によるものでしょう。

『わがしやパンダ』(香桃もこ)

和菓子屋の子のはるとが笹の葉を採るために裏山に行くと、夕日を背に巨大な黒い影が見えました。そこにいたのは、人語を解する旅のパンダ。はるとはパンダをお店に連れていきたくなりますが、食べ物屋なので動物を入れるのはダメだといつもきつく言われています。でも、パンダをお風呂に入れてお父さんに会わせたところ、お父さんは「きゃーっ、パンダー!」と叫んでパンダに抱きつきました。このあと、なにか厄介ごとがあってもすべてパンダの魅力で流されるというギャグが続きます。
本の見開きに描かれている和菓子の質感がすばらしくて、すぐに作品の世界に引きこまれます。お約束のギャグが続きながら騒動が拡大していくさまを手堅く描いているので、するする読み進めていくことができます。それにしても人をおかしくさせるパンダの魅力は度を超えているので、法律で規制した方がいいのではないか。

『ポケットの中の赤ちゃん』(宇野和子)

第12回講談社児童文学新人賞受賞作*1で1972年に刊行され1980年に青い鳥文庫にも収録された作品が復刊ドットコムから復刊されました。昭和児童文学の奇妙な薄暗い怖さ、これぞ復刊ドットコムの味という感じの作品です。
幼稚園児のなつ子は、ママのエプロンのなかでうごめくものを発見します。それは小さな女の子で、言葉を話し自分は「ムー」であると名乗ります。なつ子とムーちゃんが一緒にいたたった三日間の冒険が語られます。
ママのポケットは何でも出てくる魔法のポケットのようで、そこから不思議な存在が飛び出すのには説得力があります。なつ子とムーちゃんはおままごとのようなささやかな遊びもしますが、やはり目を引くのは夜の大冒険です。
横になって天井の蛍光灯を見たなつ子は、それがドアのように思えました。そのことをムーちゃんに告げると、「なっちゃんがそうおもうなら、あれはドアだよ」と言い、そこに歩いて行くように指示します。そんなことは無理だと思いますが、ベッドが壁だと思えば自分はいま立っていることになるから上方向に歩いて行けるのだと超理論を展開します。
さて、蛍光灯のドアをくぐると、壁からいろんなお菓子が出てくる長い廊下がありました。しかし、いい夢は長くは続きません。「はなしがしんだあ。はなしがしんだあ」という意味不明な声が聞こえてきて、お棺を担いでいる葬式の人々のような集団が現れます。逃げだそうとしたなつ子の足は重くなり全然動かなくなります。このあたりに悪夢の世界としてのリアリティがあります。
二度目の冒険は、前回とは逆に床下に潜っていきます。なつ子はふだんから、自分の部屋にあるものがよくなくなってしまうことを不思議に思っていました。それを探すために潜ると、人のものを盗んで収集する「とりこみや」というおばけのようなものを見つけます。こいつの怖いこと怖いこと。本の見返しのイラストでは「とりこみや」や冒険の様子が描かれています。これが、子どもの絵のように平面的に配置されているため、想像力が刺激されます。
奇妙な理屈と悪夢的世界の連撃を浴びせられ、最後の別れと追想はしっとりと余韻を刻みつけられる。これは記憶に残る作品になるはずで、復刊ドットコムに熱い要望がたくさん来たのもうなずけます。

*1:同期の受賞作は宇宙人とアトランティス人が戦うSF児童文学、上種ミスズの『天の車』だった。イラストは依光隆

『はなしをきいて 決戦のスピーチコンテスト』(マギー・ホーン)

主人公はミドルスクール二年生の地味女子ヘイゼル・ヒル。自身ががレズビアンであることを隠していることもあり、友だちがまったくいませんでした。ヘイゼルはスピーチコンテストに打ちこんでいて、昨年の覇者の人気者女子エラ・クインに対抗心を燃やしています。エラ・クインは元彼のタイラーから執拗なセクハラを受けていました。タイラーからよりを戻すよう迫られたので、自分はヘイゼルが好きだという嘘を言って断ろうとします。ヘイゼルははじめはエラ・クインのひどい嘘にショックを受けますが、正義感からタイラーに立ち向かおうとします。しかしタイラーは人気者で親が権力持ちだったので、学校側はヘイゼルの訴えを信じようとせず、かえってヘイゼルに処罰を与えようとします。
『はなしをきいて』という邦題*1は、子どもたちの置かれている困難な状況を的確に表しています。とにかく大人は、子どもの話を聞きません。ヘイゼルの親は育児書マニアというおもしろ趣味を持つ善良な人ですが、ヘイゼルがタイラーについて文句を言うと、ヘイゼルはタイラーのことが好きなのだと曲解します。ヘイゼルは女性校長のウェストに拒絶されると、「フェミニストっていうのは、こういうことがあったとき、女性を信じるものじゃないんですか?」と問いかけます。もし校長が良心を持ちあわせていたなら、この抗議は痛いはずです。しかし校長はこう突き放します。

「でも、あなたはまだ女性じゃありません。ほんの子どもでしょう。年齢にふさわしい行動をとっていれば、こんなことに煩わされずにすむんじゃないですか?」

まったく、弱者の口を塞ぐためなら理屈はいくらでもつけられるものだと、感心してしまいます。
しかし、個人の倫理観のみを追及すると、問題の本質を見失ってしまいます。作中には、女性校長のウェストやタイラーの母親など、女性でありながらセクハラ加害者の男性に荷担させられる女性が登場します。たかがチーズケーキ野郎ひとりがこれほどの力を持ってしまう構造的な悪に目を向けなければなりません。
こういうときに救いになるのは、やはり女子同士の連帯です。ヘイゼルはエラ・クインとその一番の親友のライリーについて、どうせスクールカースト上位女子と取り巻きその1であろうと、悪い先入観を抱いていました。その先入観はすぐに打ち砕かれます。エラ・クインはスピーチが得意なくらいですから知性的で、ライリーも母親とふたりで森のなかのログハウスに住んでいるという謎めいた強キャラっぽい設定持ち。もともとユーモアのセンスに優れているヘイゼルとこのふたりが打ち解けてわいわいやりだすと、とても愉快な空気になります。敵は強大ですが、ここに大きな希望もあります。

*1:原題は『Hazel Hill Is Gonna Win This One』

『ふでばこのくにの冒険』(村上しいこ)

文房具たちが動く話なので、佐藤さとるの『ぼくの机はぼくの国』のような楽しげな話を期待したくなりますが、あいにく著者は村上しいこです。
主人公は、男の子の姿をしたフィギュア。彼は3Dプリンターで修人という男子そっくりに作られたものでした。修人の部屋で目覚めた彼は、えんぴつなどの文房具に囲まれて「ふでばこのくに」のルールを説明されます。奇妙なのは、人ではないはずの彼が修人本人と同じ記憶や感情を持っていること。文房具の仲間から「ボーイ」という名前を与えられた彼は、つらい状況にいる修人を救おうと奮闘します。
修人の父親は精神を病んでいて、修人の母親に捨てられます。母親がすぐに新しい家庭を持って幸せそうでいることもあり、修人は荒れていました。精神を病んだ親は村上作品ではおなじみですが、それが父親であるのはあまりなかったような気がします。そもそも、児童文学全体を見ても精神を病むのは母親である例が多いように思われます。この作品は、精神を病む親という類型のジェンダー是正が試みられたケースと受け取れるかもしれません。
対象年齢が小学校中高学年くらいなこともあり、村上しいこのいつものYA作品よりは展開が甘いようにみえます。しかし、村上しいこならではの寒々とした世界認識はそこかしこにみられます。すべてがうまくいったかのようにみえたあとに、あえてボーイがブラックの悲しい運命に言及するところとか。
特に興味深いところは、ボーイが修人の母親の新しい娘に「ふでばこのくに」について説明したセリフです。

「国境も武器もないけど、共感しあえるひととなら、なかよくなれる」

この言い方を素直に受け取ると、国境や武器があることこそがなかよくなることの前提条件であると読めます。また、共感を重視する「ふでばこのくに」の住人の価値観にもいびつさはあります。国境や武器なんてないほうがなかよくなれるという理想論をいう方が簡単ですが、あえてその反対の道を突き進むあたり、やはり村上しいこは常人には真似できないことをするなと思わされます。

『シンデレラのおねえさん』(おくはらゆめ)

シンデレラが王子のハートを射止めた後のお話を語った絵童話。ヒマをもてあましたふたりの姉は、シンデレラの悪口を言いつつ将来の不安に襲われていました。

シンデレラのかーちゃん、でーべーそーって、わたくしたちのおかあさまと、同じだったわ。
https://www.mitsumura-tosho.co.jp/shoseki/tobunohon/book-th013

じいを巻きこんで「こんなシンデレラはいやだゲーム」をやっていたところ、おかあさまからシンデレラに嫌がらせをするためにバケツいっぱいに公園の砂場の砂を入れてくるよう命じられます。
ギャグ調で語られるのに姉やおかあさまの悩みは普遍的なものであったり、姉とおかあさまとじいだけ貴族っぽい装いをしているのに周囲はふつうの日本の庶民ワールドのようだったりと、チグハグさがおかしみを生んでいます。
じいが語ったおかあさまの悲しい過去は、劇でおひめさま役をしたかったのに一度も叶えられなかったというものです。その原因のいくつかはおかあさまの能力が高かったことにありました。そこに早く気づいていれば、いじわるな継母になどならなくてすんだのではないでしょうか。
姉に同じ轍を踏ませないように、公園ではかっこいい大人の女性との出会いが用意されていました。ハトにえさやりをしていた近所のおばさんは、選ばれる客体から選ぶ主体になれという最高のアドバイスをくれます。

どくしんも、気楽で楽しいわよ。自分で自分のことをえらぶの。くふふふふ

子どもには幼いうちから、多様なロールモデルを提示しておきたいものです。でも現実ではそうそう都合よくかっこいい大人が現れてくれるわけではないので、こういう作品の存在は重要です。
それにしても、本文では記述されないじいの動きが目を引きます。砂遊びをするために姉が外した手袋をうやうやしく持っていたり、姉が忘れた帽子を無言で拾ったり。細部まで目が離せません。

『木のロボットと丸太のおひめさまのだいぼうけん』(トム・ゴールド)

子宝に恵まれなかった王さまとおきさきさまは、それぞれ女性の発明家と魔女に依頼して子どもを作ってもらいました。爆誕したのは、木のロボットと丸太のおひめさま。丸太のおひめさまには、寝ると丸太に戻ってしまい魔法の呪文をかけてもらわないと人間の姿になれないという秘密がありました。ある朝、木のロボットが妹を起こすのを忘れてしまい、部屋の掃除に入ったメイドさんが丸太をゴミだと思って捨ててしまうという事件が起きます。木のロボットは妹を探すため冒険に出かけます。
想像力をかき立てる仕掛けが随所に施されています。発明家や魔女の仕事部屋には無数の道具があって、どんな役に立つのかと考えさせられます。木のロボットの歯車だらけの内部に虫の家族が住んでいるという細部にも楽しさがあります。冒険のフィールドはレトロRPGのマップ画面のようで、これも想像力を刺激します。冒険中に起こる細かいイベントは、「きょじんの かぎ」「びんに入ったおばあさん」などわずかな言葉とひとつのイラストの列挙のみで語られていて、読者に自分で物語をつくるように促しています。
いまの時代の物語なので、おうじさまがおひめさまを助けるという一方的な関係にはなりません。木のロボットはメンテナンスなしで長期の冒険をしたので、妹を見つけ出したところで力尽き、帰りの旅はおひめさまが主人公になります。でも、子どもだけで冒険を完遂させるのも酷です。クライマックスにはそこから救援が湧いて出るのかという驚きがあり、とんとん拍子にハッピーエンドに向かう心地よさを堪能させてもらえました。