『ルール!』(工藤純子)

中学生たちが理不尽な校則を変えようと運動する話です。ブラック校則見直しは時代の流れで、人権侵害に当たるような校則はただちに廃止すべきだということは論を俟たないでしょう。しかしわたしは、校則よりもこの作品の方向性に息苦しさを感じてしまいました。
有志の生徒たちが必要な校則と不必要な校則を精査する第7章の冒頭で「あいさつをするとか私語をつつしむとか、当たり前のことだから、わざわざ生徒手帳に書く必要はないと思うんだ」という意見が出て、全員が同意します。つまりここでは、あいさつくらい当たり前にできるレベルの子どもしか存在が許されていないのです。当たり前とされることを本当に誰もが当たり前にできるのであれば、教育も福祉も必要なくなります。
健康に関することは家庭で管理すべきで校則に記述すべきではないという意見も出ます。ここでも、健康をきちんと管理する余裕のない家庭の子どもは不可視化されます。この作品では、理想化された子どもしか存在しないことになっています。マイノリティに配慮したルールづくりをするような体を装いながら、背後には強固な排除の論理が隠されています。
『あした、また学校で』で顕著にみられたような工藤作品の権威主義も気になります。平の教員より校長のほうがものわかりがよく、それよりもPTAや地域の代表者のほうがものわかりがよいという幻想。地位と徳性が比例するという幻想は、社会変革の妨げにしかなりません。悪事を働いているのは下っぱなのだから地位が上の者に直訴すれば現状は改善されるはずだという工藤作品の社会観は、あまりに幼いです。社会派っぽい作品をたくさんものしている著者がなぜこのような幻想に囚われているのか、不思議でなりません。
また、ドイツ在住経験のある生徒の「ドイツでは」「ヨーロッパでは」という出羽守発言は作中で常に無批判に真理のように扱われています。ここにも、ヨーロッパが上で日本は下という権威主義差別意識がみられます。
校則の変革は時流に乗ったテーマなのでふつうにこしらえれば大方の同意を得られる作品になるはずなのにどうしてこうなってしまうのか、理解に苦しみます。

『月さんとザザさん』(角野栄子)

性格のねじくれたおばあさんザザさんについに愛想を尽かした家のスミコさんは、足を生やして家出しようとします。ザザさんはのこぎりを持って追いかけ、スミコさんの足を切ろうとします。そこに仲裁に現れたのが、月さん。月さんはザザさんに楽しいお話をしてやると約束してくれました。しかし月さんの方もなかなかいい根性の持ち主で、性格最悪のザザさんと月さんの愉快な煽りあいが始まります。
という冒頭部分からフリーダムにぶっとんでいます。家が家出するってどういうことなの? 月さんはかつて、絵かきにお話をしたこともあるのだと言います。たしかに月は一体しかいないのだからその月もこの月であるというのは理屈なんですが、場合によっては冒涜的発言と受けとられかねません。作品は素直に枠物語にはならず、ザザさんが月さんに激からカレーを食わせたりといったいじわる合戦も繰り広げられます。ザザさんが月さんのお話に興味を持ってくると、月さんは登場を遅らせてじらせたりします。その様子は

月さんは、その夜は、いつもよりゆっくり、あわられました。わざとです。

と記述されます。読点を多用してタメをつくったうえで「わざとです」を繰り出す地の文も、いい性格しています。
イラストは角野栄子? とかいうあまり聞いたことのない名前の画家さんなんですが、カバーイラストの月さんのゲス顔だけですばらしいセンスの持ち主であることがわかります。かえるやなめくじが大量発生する悪夢的場面も、実に気持ち悪く描いてくれています。
老人は結局幼年に導かれるという、童話として王道のしっとりした方向に物語は落ち着いていきます。しかし、登場人物の性格の悪さからそこに至るまでのギャグの濃度が尋常ではなく、非常に笑える作品になっていました。
それにしても、あの名作に好き放題落書きするなんてのは、国際アンデルセン賞作家様でなければ許されない暴挙です。

『はじまりは一冊の本』(濱野京子)

濱野京子があかね書房から出している本の物語も、いつの間にか長いシリーズになっていました。今回の主人公は、図鑑を読んだり調べ物をしたりすることが好きな少年柊斗。しかし柊斗の父親は脳筋タイプで、近所に住む柊斗の同級生のサッカー少年文哉のことが気に入っていて、柊斗の同意を取ることなく一緒に文哉の試合の応援に行く約束をするといった勝手な行動を繰り返していました。間違った家庭に生まれてしまった子どもという、ロアルド・ダールの『マチルダ』を思わせるいやな設定です。スポーツが好きであろうと図鑑が好きであろうと、趣味に貴賎はありません。ただし、親であるという権力を利用して子どもに趣味を押しつけるのは迷惑です。
柊斗は文学には興味がなく知識の本を好むという、本好きのなかでもマイノリティでした。そんな彼が、『わたしたちの物語のつづき』の主人公たちが作成した『妖精リーナの冒険』に出会います。柊斗は物語にはほとんど関心がなく、本というかたちのある物体をつくったことに感嘆します。柊斗は『妖精リーナの冒険』をつくった碧衣たち前でそれをはっきりとはいわないデリカシーを持っていましたが、彼女たちが柊斗の本心を知ったらがっかりするのは間違いないでしょう。
柊斗はここから、製本や本の歴史に興味を広げていきます。興味の広がりとともに世界が広がっていく楽しさを描き、さらに他人の見え方も変わっていく様子を堅実に描いているところに、この作品のよさがあります。

『彗星とさいごの竜』(今井恭子)

山奥で静かに暮らしていた竜の男の子の元に、騒がしい人間の女の子が訪れます。亡くなったママから人間には気をつけるように言い聞かされていた男の子はおびえてしまいます。女の子の目的は男の子と空を飛んで地球を滅ぼそうとしている彗星を止めることでした。しかし、男の子に飛び方を教える前にパパも亡くなっていたので、それも叶いません。男の子が空を飛べるようになるよう、女の子は特訓を施します。
女の子がにぎやかで、佐竹美保のイラストもたっぷり入っているので、滅びを前提とした寂寥感と楽しさの同居した不思議な読み味の作品になっています。しかし考えてみると、このふたりはなかなかの格差カップルです。女の子はエリートの家系で、しっかりした教育を受けています。一方の男の子は親を早くに亡くして教育を受ける機会を失しています。そんな女の子が男の子をある種の心中に巻きこむのは、ひどい搾取のようにも思われます。
ただし、自己犠牲で世界を救えるという女の子の考えは、幼さゆえの全能感によるものです。それが打ち砕かれ、男の子と対等な友情を結べるようになるのは、よい方向性です。

『サインはヒバリ パリの少年探偵団』(ピエール・ヴェリー)

1960年にフランスで刊行されたジュブナイルミステリの邦訳が登場。富豪の養子のノエルが身代金目当てに誘拐され、少年たちがさまざまなアイディアを出しあって捜査します。
神話に出てくるヘラクレスみたいな大男が学校周辺に現れます。彼は盲目でしたが、よりによってそんな男の前で子どもたちが目隠し鬼をしてぶつかるという発端は、現代の児童文学ではできそうにありません。しかし、学校周辺に不審者が出没するところから非日常に導かれていく発端は魅力的です。子どもたちは親切心で帰宅する男の道案内をしますが、男は嘘の住所を教えていました。ここから男への疑惑が深まっていきます。
どうしても、被害者になるノエルの不憫さに目がいってしまいます。彼は学校でも家庭でも侮られていて、いつも鬼ごっこで鬼役を押しつけられていました。誘拐が発覚すると継母は自分の産んだ息子がさらわれたのではととりみだし、被害者がノエルであったことがわかると何事もなかったかのように平静にもどります。この継母の態度はひどすぎて、逆に笑えてくるくらいです。しかし、その不憫さゆえに、彼が犯人グループのひとりの男と奇妙な友情を結んでいくさまが輝いてきます。
少年グループはものすごい切れ者というわけではありませんが、失敗しても次々にアイディアを出して行動していくバイタリティが持ち味です。そこに、訳者あとがきで紹介されている犬・自動車・米軍といった当時のパリの文化や情勢が絡んでくるところも、現代の視点で読むとおもしろいです。

『恋愛相談 「好き」だけじゃやっていけません』(森川成美)

進学校の同じクラスだけどあまり接点のなかった三人が、恋愛相談の場をつくります。きっかけは、文化祭で人生相談の企画をしたこと。そこで三年生から恋愛の相談を受けますが、結局のろけ話を聞かされただけのかたちで終わります。ところがその後そのカップルが刃傷沙汰を起こしてしまいました。このことからきちんと恋愛相談をできる場をつくろうということになります。
校内で刃傷沙汰という発端にはなかなかインパクトがあります。三人組の恋愛相談の場では、相談者には仮名を使わせ関係者の性自認や性指向は問わないという点では配慮が行き届いています。しかし、そこに来る相談は発端の事件に負けないほどくせもの揃いで、一筋縄ではいきません。フィクションと現実の区別ができているのか怪しい子であったり、成人の交際相手がストーカーのようになってしまった子であったり、大変なケースばかりです。その一方で、デートがめんどくさい、交際に関わる経費が高校生には負担であるといった、いやに現実的な悩みにも踏みこんでいきます。
恋愛においては倫理は関係ないし、誠実さや清廉さが報われるわけではありません。そういう夢をぶち壊すようなことばかりを語りつつ、オチはいちばんヤバそうだったやつがああなるという気の抜けたものになります。語り手は恋愛相談を受ける理由を「そういう人の心の不思議な部分を、もっと知ってみたい」からだとしています。これはゲスな好奇心をそれらしくきれいに言い換えているものでしかありません。しかし、そういう意味不明な人の心を検証するのが文学の一面ではあるので、ある意味では真剣に文学している作品だといえるかもしれません。

『5分で本を語れ チームでビブリオバトル!』(赤羽じゅんこ)

読書部に所属する中学生童夢は、自信満々で挑んだ校内のビブリオバトルで特に本好きでもない放送部員のさくやにまさかの大敗を喫します。さくやは学校代表として出版社主催の中学生ビブリオバトル大会への出場権も得ます。出版社の規定通りのビブリオバトルで5回チャンプ本に選ばれれば大会への出場権を得られるというルールを頼りに、童夢は敗者復活を目指します。
様々な人の助力を得ながら童夢が本の魅力を人に伝える技術を磨いていく努力の過程がみどころです。真っ先に現れる協力者が落語少年だというのは著者の趣味がですぎているような気もしますけど。
さらに注目すべきは。裏主人公としてのさくやの動向です。さくやは先生受けはいいけれど横の人望が全くないタイプの子どもでした。本に興味がないのに勝ってしまったことにモヤモヤする彼女も、真剣にビブリオバトルに取り組もうとします。みんなに助けられながら進む童夢と独立独歩で進むはぐれ者のさくや、正反対のあり方をどちらも肯定しているところが、この作品の特徴です。
物語が進み、読書好きのライバルたちと切磋琢磨していくと、自然とビブリオバトルは楽しいものになっていきます。そもそも、物語の発端の校内ビブリオバトルで失敗したのは童夢ではありません。読書を楽しむ集団を育てていないなかで、大勢の前で話すための最低限のレクチャーもせず、全校生徒の前でビブリオバトルをさせてしまった学校側が失敗しているのです。ビブリオバトルで重要なのは「場」と「人」であることがわかっていないと、学校でビブリオバトルをやるのは難しいです。