『ルキとユリーカのびっくり発明びより』(如月かずさ)

ルキとユリーカのびっくり発明びより

ルキとユリーカのびっくり発明びより

びっくりしやすい小4女子大戸ルキは、どらやき屋で白衣を着てヤギに乗ってる金髪の女子に出会います。ユリーカ・ヒラガ・エジソンと名乗る金髪少女は、わざわざアメリカから来たとのこと。しかしルキの番で売り切れになってしまったため落胆していました。かわいそうに思ったルキはユリちゃんにどらやきを与えてしまいます。ユリちゃんはお礼に写真に撮った場所に瞬間移動できるドーナツ型のカメラでルキをアメリカまで連れて行ってくれました。しかし日本に帰る手段がなく、ルキはドーナツカメラであちこちとばされて、思いがけないおどろき大冒険を繰り広げることになります。
ということで、天才発明少女とそれにふりまわされる女子のコメディが4話収録されています。ルキとユリちゃんの出会いのエピソードでは、二つのレベルの状況の変化が描かれています。ひとつは、次々に世界中を移動するという状況の変化で、めまぐるしい観光要素で楽しませてくれます。そして、移動するたびに日本に帰れる見込みが薄くなって危機が深まってくるという状況の変化も並行して訪れます。この状況が、ふたりの絆を強固なものにしていきます。
その後ユリちゃんはルキの家の隣に引っ越してきて、さっそく建造した地下のひみつ研究所に案内してくれます。発明に地下の秘密基地と、小学生の好きなものを惜しみなく出してくれます。しかも、ユリちゃんの発明品は必ずスイーツ型になっていて、ひみつ研究所もスイーツ要素のギミックが盛りだくさん。キラキラマッドなスイーツ空間がこの作品ならではの特色になっています。

『ある日、透きとおる』(三枝理恵)

ある日、透きとおる (物語の王国2)

ある日、透きとおる (物語の王国2)

  • 作者:三枝 理恵
  • 発売日: 2019/10/19
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

木の葉が風に乗ってきて、自分をとおりぬけていった。
それで気がついた。自分には姿がないんだと。
そこは町の上空だった。上には青空、下には町が広がっていた。

まさに浮遊感のある、謎めいた書き出しが目を引きます。主人公は意識だけの存在のようで、現代の日本の社会常識は持っているものの記憶がなく自分が何者なのかがわかっていません。主人公と読者はともにわけのわからない世界に投げ出されます。
主人公は中学校に迷い込み、吹奏楽部の部員たちを眺めて「『知ってる』感じ」を抱きます。その後生物部のボランティアをしている美波信と名乗る男性に存在を認識され、彼の自宅に招かれることになります。
この作品、みんな大好き吹奏楽部地獄小説でもあります。その吹奏楽部には、自主的な退部を促すために顧問につくられた足手まといチームがありました。そんな部内で、人間関係がギスギスしないわけはありません。過激化した部活動は教育とはまったく無関係だということがよくわかるエピソードです。
さて、美波は高層マンションの上階に住んでいて、マンションを転売して生活している人物でした。金持ちではあっても浮世離れしていて、どこか欠落を抱えているようにみえます。彼はそんな生き方を「空中生活者」であると言い、「きみこそ、本物の空中生活者だね」と笑いました。浮遊し欠落を抱えたもの同士の運命的な出会いが美しいです。


謎めいた物語なのでその真相を詳しく述べることはできませんが、このテーマは児童文学やYAで繰り返し語られるべきものであるということは断言できます。似たもの同士のようで対照的でもある主人公と美波の交流は、なかなかさわやかな結末を導きます。

『この海を越えれば、わたしは』(ローレン・ウォーク)

この海を越えれば、わたしは

この海を越えれば、わたしは

『その年、わたしは嘘をおぼえた』のローレン・ウォークの第2作。2018年のスコット・オデール賞受賞作。
舞台は1920年代のエリザベス諸島。主人公のクロウは生まれてすぐに海に流され、オッシュと呼ばれる画家の男に育てられていました。オッシュは社会性にやや欠けるものの愛情深くクロウを養ってくれていましたが、島民の多くはクロウを避けていました。かつてハンセン病患者を隔離していたペニキース島からクロウはやってきたのではないかと恐れていたからです。12歳になったクロウは、ペニキース島で燃える火を目撃したことをきっかけに自分の過去を知ろうと行動を始めます。
ハンセン病をテーマにした重厚な社会派児童文学を期待してこの本を手に取った人は、肩すかしを食らうかもしれません。ハンセン病はあくまで出生の秘密というロマンの味付け程度にしかなっていません。ただし、物語のロマン性という点では満点です。出生の秘密・隠された財宝・悪党との戦いといった枯れた素材がうまく料理されていて、コンサバティブなエンタメとしてよくできています。
しかし、あえて物語的な快楽を抑制している面もあります。生き別れの兄を巡るエピソードや、育ての親の秘密を巡るエピソードには明快な決着が与えられず、やや消化不良な印象も残ります。主人公が自分の誕生や現状を肯定するというテーマは、そのままならなさを残しておくことによって、かえって強度が増されています。

『かくまきの歌』(杉みき子)

「そりゃあ、学校へ毎日ぶじにかよっているうちは、ときどきは勉強をなまけたい気にもなったし、学校なんてなければいいと思ったことだってあったけど、そんな、学校へ行くのをぜんぜんやめちゃって工場へいくのなんて、いやだったわ。」
「ふうん、じゃ、勉強やめるのいやですって、みんなで決議して、工場なんかいかなければよかったのに……。」
「ほんとにね。でも、いまとちがって、上からの命令には、絶対にそむけなかった時代だから、仕方ないわ。」

国語教科書に収録されていることで有名な「わらぐつの中の神様」を含む作品集。この本に収録されている作品の多くは、過去を語るという形式のものになっています。その理由はいろいろ考えられますが、そのひとつに過去の暗黒時代が過ぎ去ったという感慨があるように思われます。
「屋上できいた話」は、デパートの屋上で娘が母から、屋上に上るのも命がけだった時代があったという思いがけない昔語りを聞かされる話です。学徒動員で働かされていたおかあさんは、まるで少女小説の主人公のような完璧な優等生の山本かず子さんに誘われ、工場の屋上(現在のデパート)へ上るという冒険に同行します。当時は高いところに上るだけでスパイであると見做される時代だったので、これはまさに命がけの冒険でした。
ふだんは接点のない優等生が悪事の共犯者として自分を選んでくれたというのは、おかあさんの記憶に生涯刻みつけられる百合体験となります。時代の不自由さと自由への希求の美しさの対比が光る作品です。
「地平線までのうずまき」は、幻想的な筆致で自由への志向を語っています。学校の運動場にうずまきを描いてその線に沿っておいかけっこをするあそびに興じていた「わたし」はある日早めに学校に行って思う存分大きなうずまきをこしらえようとします。うずまきを大きくするに従って「わたし」の意識は混濁し、運動場いっぱいになったかのような幻覚を見ます。しかし我に返ると思ったほどうずまきは大きくなく、失望してしまいます。
その1年後、線路の先のちょっと左に曲がって小さくなる汽車の姿が見えなくなるあたりがいつも気になっている「くもりと晴れとのさかい目」なのではないかと思った「わたし」は、歩いてその場所を目指す小冒険を決行します。子どもの想像力の及ぶ範囲に幻想的な異界への入り口を見いだすセンスが絶妙です。
そして、戦争が終わると、「わたし」は歴史の先生からうずまきの例え話を聞かされます。同じところを回っているように見えるうずまきも次の1周は前より進んだところを進んでいるように、「歴史はくりかえす」とはいっても実は進歩を遂げているのだと。

それからも、わたしのうずまきは、何度も何度も切れました。もっと広い世界にでていこうとするたびに。自分の心のなかに、もっと広い世界をつくりあげようとするたびに。たのたびに、かきなおしつぎあわせて、わたしのうずまきは、いま、どのくらいの大きさになっているのでしょう。
わたしは、いまでも、ときどき思うのです。青空の下のひろっぱに、何に邪魔されることもなく、大きな大きな、地平線までとどくようなうずまきを、力いっぱいかいてみたいものだ、と。

やはり児童文学は、自由や解放への素朴な夢を語るべきです。少し昔の作品を読むことで、そんな原点を思い知らされました。

『マイク』(アンドリュー・ノリス)

マイク: MIKE (児童単行本)

マイク: MIKE (児童単行本)

将来を嘱望されるテニス少年のフロイドは、元テニス選手の父の指導を受け頂点を目指していました。しかし、テニスコートにマイクと名乗るフロイドにしか見えない青年が乱入したことから、運命が狂っていきます。精神科医のピンナー医師の支援を受けながら、フロイドは自分の望む人生を探っていきます。
フロヤとかポンプヤみたいな主人公の名前をみれば、作品の意図するところは明白です。フロイドの親は、自分のしていることが教育虐待であるなんて夢にも思っていません。しかしフロイドの本当の望みは抑圧され、幻覚というかたちで姿を現すことになります。
そしてフロイドの人生は紆余曲折を経て本来の方向に向かっていきます。この紆余曲折がいい具合の温度なので、この作品はロマンチックな運命論を描いたものとして受け止めることができます。そもそも精神分析的な思想もロマンチックな運命論の産物といえなくもないので、この方向性は自然です。

『四つ子ぐらし 5 上 初恋の人の正体』『四つ子ぐらし 5 下 お母さんとペンダントのひみつ』(ひのひまり)

二鳥の初恋の人がアイドルデビューすることになり、姉妹みんなでフェスの会場に行ったところ、なぜか元自称母の四ツ橋麗と遭遇。思いがけず四ツ橋家の闇の核心に迫ることになります。
相変わらずこのシリーズは、貧困の描き方の解像度が異常に高いです。もうすぐ夏休みという時期ですが、姉妹の心配事は給食がなくなるということ。ただでさえ生活が大変なのに、昼食分の食費と手間がさらにのしかかってくるのは、彼女たちにとっては重すぎる負担です。学校が休みになるということは、少なくない人々にとって、ライフラインが断たれるということを意味するのです。
そして、大人のクソさの描き方も徹底しています。4巻は二鳥の養家の親が最低で、養子に対する差別心や、子どものいる前で軽はずみに他人の死を願う発言をしてしまうクズさなどにリアリティがありました。
今回は四ツ橋家という超大金持ちの大人の生態が明らかにされます。完全に子どもを所有物・道具扱いしている四ツ橋家の大人たち。その悪辣さは、じゃんけんで子どもの運命を決めてしまうような、ギャグとしてしか描けないような域にまで達しています。
次回への引きがエグく、あとがきでも気になる煽りがなされているので、娯楽作家としてのひのひまり先生への信頼度がどんどん上がってきます。
ただ、ひとつだけひのひまり先生に疑念があるんですけど。3連続で二鳥が曇る担当にされていて、ひとりだけ曇らされる回数が多いような気がするんですけど、気のせいですよね。

『〈死に森〉の白いオオカミ』(グリゴーリー・ディーコフ)

いいか、ワシーリーをかみ殺したのは、ただのオオカミじゃない。森の魔物じゃ。背丈は仔牛ほど、毛は真っ白で、眼は赤く、やりだろうと、鉄砲玉だろうと、はじきかえしちまう。

ロシアの田舎の村、ヴィソツコエ村の人々は、古老の警告を聞かず川の向こう岸まで開発を進めようとします。そして、森に住む凶暴なオオカミたちとの戦いを余儀なくされることになります。
と紹介すると、開発への懐疑や環境保護メッセージが語られるお説教くさい話であるかのように思われてしまうかもしれませんが、その心配はありません。この作品は、人類対どうぶつのガチバトルを描いた上質な娯楽読み物になっています。羆嵐! 魔王! 進撃のオオカミ!
ヴィソツコエ村は柵塁に囲まれた村で、殺したオオカミの皮を剥いでそこに干して敵を威嚇したりしていました。しかし最終的にはその防壁も破られ、絶体絶命の危機に陥ることになります。
こういう状況では、有能な助っ人がほしいところですが、そんな期待にも応えてくれます。町でコサックのイカサマ賭博で身ぐるみを剥がれそうになっていたドイツ人のガンマン・ヤコフがスーパーヒーローとして登場します。その出会いの場面も魅力的です。村の天才少年エゴルカがその現場に居合わせ、イカサマを見抜いて逆にサイコロ勝負でコサックたちを打ち負かし、ヤコフに恩を売ることに成功します。
ヤコフは村人たちに銃の使い方を教え戦闘訓練を施し、決戦に備えます。ここらへんは、『マグニフィセント・セブン』(『七人の侍』)みたいで、先の展開に対する期待感がどんどん高まってきます。 
この作品の魅力は、オオカミと銃で戦うといった現実的な要素と、神話や民話的な要素がうまく溶け合っているところにあります。ヤコフにも実は秘密があって、はじめは銃で戦っていたのに最終的には刀と鉄の棒の二刀流で狼を狩る鬼神と化します。
訳者あとがきによると、この作品は現代の作家グリゴーリー・ディーコフが、ロシア革命時代の架空の亡命作家「グリゴーリー・ディーコフ」という仮面をかぶって出版したものなのだそうです。作外の仕掛けも凝っていて、一筋縄では読み解けなさそうな作品になっています。