『つの笛がひびく』(堀直子)

1982年刊行のトラウマ児童文学。イラストは長谷川集平。鬼に取り憑かれた優等生の身体が変容しメンタルも蝕まれ、最終的に学校が炎上して……という、まったく救いのない物語です。
主人公は浦和市*1の中学校に通っている不良少年の仁。彼が南浦和駅前でタバコを吸っている場面から物語は始まります。彼は亡くなった祖父が住んでいた空き家に友人と行き、酒盛りをしようとしていました。その途中で狛犬を破壊したりといろいろやらかし、仁たちの一族をずっと前から呪っていた鬼の封印を解いてしまいます。仁は自分を呪おうとする鬼を言いくるめて、仁のいとこで埼玉県一の名門校にも合格間違いなしといわれている優等生の章に取り憑かせます。このあと仁は、鬼の呪いで章が転落していくさまを冷ややかに見つめます。
犯罪に手を染めている仁に対し、ほぼ落ち度のない章が一方的にひどい目に遭わされるのが理不尽です。さらに理不尽なのは、あとがきの書きぶりから作者が章を憎んでいて、罰を与えているかのようにみえるところです。
あとがきでは競争社会批判がなされていますが、作者は勉強をがんばっているだけの章があたかも非人間的な加害者側に立っているかのように扱っています。あとがきには仁が人間らしく生きていけることを願う文面はありますが、章については……。
ここで思い出されるのは、福永令三の『クレヨン王国 白いなぎさ』(1984年)です。この作品では百点マシンというニックネームを持つ勉強のできる子どもが、実質的に人格を奪われるという罰を与えられていました。建前としては、児童文学は子どもの側に立つべきであるはずです。しかし、昔の一部の児童文学作家は、勉強ができるという属性を持つ子どもに憎しみを向け罰を与えようとしていたかのようにみえます。これはなかなか興味深い現象であるように思われます。
作品の話に戻りましょう。章に絶妙なタイミングで恥をかかせて精神的に追いこんでいく展開がいやらしいです。まずは、英語の授業で奇声を上げさせます。呪いのせいで勉強ができなくなった章は、水泳大会で活躍して名誉挽回しようとします。ところが、せっかく1位でゴールしたのに、このタイミングで胸に鬼のような毛を生じさせて、嘲笑の的にします。
親指から薬指までを鬼に乗っ取られた章は、最後に残った小指を頼りに勉強を続けようとします。これは、なんとか人間らしさをとどめようとする哀切な思いにみえます。しかし、作中での評価はこうなってまで受験にしがみつく妄執であるとされます。
タイトルに「ひびく」とあるように、音が作中で重要なモチーフになります。絶望した章が拾ったハモニカを吹いて夕焼けに自分を仮託して心中を吐露する場面も哀切です。

「ジン、夕焼けはね、そのとき、ぼくの目の中に始まるんだ。なんて大きな夕焼けなんだろう。空がまっ赤で大地もまっ赤で、ぼくまでまっ赤に染まるんだ。じんじんとぼくの血が歌いだし、夕焼けと同じ色になって、ああ、早く、ぼくもまっ赤に燃えつきてしまいたいって、ぼく、ほんとうにそう思うんだ。すると、決まって涙が出てくる。」

クライマックスの炎上のシーンも、笛とたいこの音が響くなかで赤い炎が燃えさかるイメージが、恐ろしくも美しくて読ませます。さらにこのあと、回想と幻覚がまじりあった、幼いころのふたりが雪のなかで遊ぶシーンが続きます。この、火の赤と雪の白の対比がまたエモくて、それだけにたちが悪いです。
技巧的なうまさを持つ作品であるだけに、いっそう救いのない凄惨さが際立ちます。これを読まされた小学生は、さぞや強烈なトラウマを刻みつけられたことでしょう。

*1:まださいたま市は誕生していない時代。

『お江戸豆吉3 風雷きんとん』(桐生環)

けんかっぱやい若旦那とふたりで菓子屋を切り盛りする少年豆吉の物語第3弾。豆吉はお使い中に、激突して金を奪うタイプの荒っぽいスリに遭遇してしまいます。お駒ちゃんの協力で犯人を捕まえますが、犯人は訳ありの子どもで、豆吉や若旦那やけんか仲間たちはその処遇に悩みます。
大金をなくしてしまった豆吉はさすがに若旦那に激怒されるのではないかとおびえます。でも若旦那は豆吉の心配をするばかりで全然豆吉を怒ろうとしません。若旦那は、「職人の大事な利き手にケガをさせた」ことに激怒します。修業中の豆吉のことも職人として尊重してくれる若旦那。若旦那の株の上がり方はとどまることを知りません。他のけんか仲間も、どんどん株を上げていきます。もめ事をおもしろがっているようなそぶりで集まりながら、おいしい食べ物の差し入れも忘れない気配りのうまさ。このシリーズに登場する大人たちは人間ができすぎていて、ちょっと気後れがしてしまうレベルです。
クライマックスの泣かせどころは、もう何回も見ているパターンではあるのですが、それをうまく盛り上げて最高のかたちで料理してくれます。そして、最後の締めに出てくる若旦那のお菓子が、男男の関係性をテーマにしたものでめちゃくちゃエモい。粋というのはこういうことなのだと教えてもらえます。
落語世界の人情噺風の枯れたエンタメとしてのうまさが、このシリーズの最大の長所です。しかし、それと同時に最先端の児童文学でもあるという面も見逃すことはできません。
作品の隅々に、ジェンダー配慮が行き届いています。たとえば豆吉は、同世代の女子と比べても腕っ節の強さで大敗する子ですが、「絶対勝てないし、勝たなくていい」とし、彼の「気が弱くて、まじめで、ひたすらまっすぐな」長所をたたえられます。
そして、今巻の中心となるスリの子の扱い。考えすぎるタイプの豆吉はその子への接し方、考え方に思い悩みます。もちろんそこは豆吉のよいところなのですが、作品はどんどんその先に進み、変幻自在な性のあり方を提唱します。
如月かずさの『スペシャルQトなぼくら』もそうでしたが、日本の児童文学ははっきりと線引きをすることに疑義を呈する方向に進もうとしているのかもしれません。これも重要な論点であるように思います。

『フードバンクどろぼうをつかまえろ!』(オンジャリ Q.ラウフ)

困窮家庭の子どもネルソンは、いつもおなかをすかせています。ネルソンが大好きなのは、学校の朝食クラブと、フードバンク。しかし、フードバンクの食料がなぜか減ってしまいます。どうやら泥棒がいるらしいと知ったネルソンは、仲間とともに泥棒を捕まえようと奮闘します。
この作品、子どもたちの勇気が悪い泥棒を倒した、めでたしめでたしで終わらせていいのでしょうか。わたしはこの作品に、不気味な不自然さを感じました。
それは、看護師としてフルタイムで働いているネルソンの母親が一家を食わせるだけの収入を得られないことに、誰も怒りも疑問も感じないということです。いや、働いていようがなかろうが、人が貧困で飢えるなどということはあってはならないはずです。この作品では、貧困は当然存在する自然現象であるかのようにあつかわれていて、それを生み出す構造的問題に目を向けることはありません。
この作品はあくまでフードバンクの啓発を目的としたものであって、対象年齢がそう高くないことも考えれば貧困の本質的問題を描くことまで求めるのは筋違いであるという擁護は、可能でしょう。しかしこの作品は、あまりにもそれが徹底しすぎています。
全国フードバンク推進協議会代表理事による解説でもそれは徹底されています。解説では日本の子どもの貧困率が約7人に1人であることには触れられていますが、ここでもそれは自明の自然現象であるかのように流されています。その状態でフードバンクの説明だけがなされるので、日本に貧困がある原因はフードバンク制度の普及が遅れているからで、その解決策はフードバンクの推進しかないかのように受けとられかねません。まるで、子どもの頭をつかんで強制的にフードバンクの方に目を向けさせ、貧困の根本的問題は目に入らないようにしているかのようです。
もちろん、著者にも解説者にも悪意はないのでしょう。しかし、この本を子どもに読ませることで格差を温存しておいたほうが都合がよいと考える人々に与する結果になりはしないかという懸念は拭えません。

『妖怪コンビニ 店長はイケメンねこ!』(令丈ヒロ子)

拾ったばかりのねこのうめ也とママとのふたりと一匹での新生活を始めたばかりのアサギは、趣味のコンビニクッキングのため、近所のコンビニ探査に出かけます。近所にコンビニは3軒だけだったはずなのに、うめ也についていくと「ツキヨコンビニ」という4件目のコンビニに到達します。中に入ると、人間サイズになって二本足で立っているうめ也に捕獲され、イートインコーナーに座らされます。うめ也の説明によるとここは本来生きている人間は入れないはずの人外専用のコンビニで、自分はここの店長をしているとのこと。うめ也はアサギの身を案じて人外コンビニに関わることを推奨しませんが、コンビニの社長秘書の巨大うさぎ玉兎さんの許可が出て、アサギはコンビニに出入りするようになります。
2021年刊行の『妖怪コンビニで、バイトはじめました。』から派生した作品です。掃除が得意なスライム型妖怪の店員もちこちゃんや、バナナ型妖怪の常連客ばなにーさんなど、個性的なおもしろ人外を次々と繰り出して読者を楽しませる手腕の確かさは、令丈ヒロ子なので安定しています。
料理が物語の大きなテーマになり、工夫を凝らして客をもてなす喜びを描いているところは、若おかみシリーズを彷彿とさせます。しかし、高級旅館の春の屋の料理とコンビニで買えるものを使ったお手軽料理では方向性が全く異なり、若おかみシリーズとは一風変わった楽しさを提供してくれます。
もともと料理が苦手だったアサギのママは、新生活を機に料理を放棄し、冷凍食品や出来合いの惣菜ですませるようになります。アサギは人には得手不得手があるのだからと、ママの選択を全肯定します。2021年の『クルミ先生とまちがえたくないわたし』もそうでしたが、令丈ヒロ子は女性は家事ができなければならないという旧弊的な価値観に正面からケンカを売っています。
この作品のテーマのひとつに、家父長制との戦いがあるようです。パパとおばあちゃんがいた以前の生活についてはあまり具体的には語られませんが、かなり重苦しいものであったようです。また、時にうめ也がみせる過保護なふるまいも、批判的に描かれています。
とはいえ、基本は令丈ヒロ子らしい一級の娯楽作品です。おもしろ人外たちが今後どのような騒動を繰り広げていくのか、続きが楽しみです。

『ロンドン・アイの謎』(シヴォーン・ダウド)

カーネギー賞受賞作『ボグ・チャイルド』やパトリック・ネスが書き継ぎ映画化もされた『怪物はささやく』などで知られるシヴォーン・ダウドの久しぶりの邦訳が登場。シヴォーン・ダウドはわずか2作を発表しただけで2007年に47歳で亡くなり、早世が惜しまれている作家です。2007年刊行のこの『ロンドン・アイの謎』は、生前に発表された貴重な2作のうち最後の作品ということになります。
主人公は12歳の少年テッド。姉のカットといとこのサリムと連れ立って超巨大観覧車ロンドン・アイに行きました。ところが、姉弟とは別のカプセルに乗っていたサリムが行方不明になってしまいました。物語は、テッドが探偵役となってこの謎を探るミステリになります。
観覧車という密室からの人間消失という、シンプルかつ美しい謎でつかみは完璧です。
テッドはトランポリンと気象学が好きな少年で、なんらかの症候群で高機能型のやつだということです。『真夜中の犬に起こった奇妙な事件』(2003年)や「名探偵アガサ&オービル」シリーズ(2005年シリーズ開始)など、当時はASD(であるらしい)子どもが登場する児童向けミステリの波があったようです。
テッドはサリムの消失についていくつかの仮説を立てます。その中には人体の自然発火やタイムワープというのも含まれていますが、これは韜晦でも悪ふざけでもなく、テッドは大真面目に主張しています。
一方、定型の姉はテッドには理解しにくいボディランゲージなどの手がかりを見つけ、謎解きに貢献します。テッドと姉が衝突しながらも足りないものをお互いに補いあって、探偵役として最高のバディとなる過程が見どころです。
テッドの物語には2作目の構想があり、ロビン・スティーヴンスが書き継いで2017年に刊行されました。こちらも邦訳が出る予定だとのことで、楽しみです。

『うみべの おはなし3にんぐみ』(ジェイムズ・マーシャル)

海辺で遊んでいたローリー・サム・スパイダーの3人組が、順番に自作のお話を語りあうという内容の絵童話です。
はじめのローリーのお話は、ねこと犬を見たねずみが「あ、ねこと犬だ」と言い、逆にねこと犬が「あ、ねずみだ」と言っただけで終わります。大人の文学オタクであればここから無理矢理寓意を読み取ることもできなくはないですが、率直にいってまったくおもしろくないです。ところが、2番目のサムのお話からどんどんクオリティが上がってきます。
サムのお話は、ねずみとねこという登場キャラは共通しています。しかし、ねずみがペットショップでねこに一目惚れして購入するという導入が一気に読者を引きこみます。店主も若干引き気味で「え? ほんとに ねこが ほしいんですか?」と確認しますが、世間知らずらしいねずみはそれに頓着せず購入を決定します。
当然読者は、ある予想をしながら今後の展開を見守ることになります。で、ねずみとねこの絶妙な問答が、自分の予想が当たるのかどうかドキドキワクワクしている読者をもてなしてくれます。ふたりの距離を縮めようとトークをするねずみは、「ねこさんのこうぶつは、なんです?」と、核心に迫る質問をしてしまいます。「ちょっといいにくいですね。」と言うねこは、なぜか「ふたりっきりになれる ばしょ」にねずみを誘います。どんどん盛り上がっていきますね。
イラストも、いい仕事をしています。横目でねずみを眺めるねこのいやらしい目つき、さりげなくねずみの肩に手をかける仕草。サムのお話は、読者の期待感を煽ることに特化したうまさをみせてくれます。しかし、お話が終わったあとスパイダーがオチの弱さを批評したとおり、弱点もありました。そして、海から現れたかいじゅうが進撃するという最後のスパイダーのお話が、それを克服してみごとにトリの役目を果たしてくれます。
シンプルにおもしろい、良質な絵童話です。また、お話をつくるという遊びの指南書としても優れています。

『マスクと黒板』(濱野京子)

2021年2月に近未来ディストピアSF『Mガールズ』を世に問い、児童文学界でいち早くアフターコロナというテーマに挑んだ濱野京子が、今度はコロナの休校開けの中学校を舞台にしたリアリズム作品を出してきました。
主人公は美術部に所属するメガネ男子立花輝*1。彼の通う学校には、ひとつ謎がありました。それは、昇降口にある黒板に制作者不明の黒板アートが施されていたこと。ささやかな謎をはらみながら、非日常の日常が続いていきます。
高踏的で余裕のある三人称の語りが特徴的です。どこかユーモアを湛えた語りは、かえってコロナ禍という状況の不気味さを引き立てます。たとえば、遠い世界のことだと思っていたコロナが近づいてくるという噂の語り方。はじめは「母の同僚の連れ合いの叔母さん」というほぼ他人というボケだったのが、「父の知人(友人)の知人(甥)」になり、やがて「知人の知人」になっていきます。都市伝説のFOAFのことであればそれが我がことになるのはありえませんが、切迫感がギャグから現実になるという状況が感染症の不気味さであると。
不気味な状況のなかで、子どもたちも不気味な側面を現してきます。「汚れた」マスクをする生徒が増えてくるという状況、マスクをしているため発言の主がわからなくなるという状況。マスクに隠された見えないところで生徒にさざ波が広がる状況は、見えない感染症が拡大する状況と似ています。
「マスク」は見えないもの、隠されたものの象徴です。一方で「黒板」は、制作者こそ隠されているものの、この作品では表現のためのキャンバスという役割を果たします。コロナ禍という状況のなかでこの作品が描き出しているのは、隠されたものと表現されたもの、隠されたことと表現されたことのせめぎ合いです。

*1:コロナをテーマにしている歌代朔『スクラッチ』も美術部メガネ男子が主人公なのだけど、疫病流行中は美術部メガネ男子がモテるの?