『チェリー・シュリンプ』(ファン・ヨンミ)

チェリーシュリンプ わたしは、わたし

チェリーシュリンプ わたしは、わたし

韓国の児童文学。ダヒョンはクラス替え時の席替えで最悪の席を引いてしまったため、落ちこんでいました。周囲にあまり打ち解けようとしないウンユの隣になってしまったのです。ダヒョンはウンユに憎しみを向けつつ、今後の学校生活を憂えます。
ダヒョンがウンユを憎む理由は、なかなかみえてきません。そして、その理由が判明すると、この作品の鬱の方向性がわかってきます。ウンユは、ダヒョンの所属する仲良しグループで嫌われていたというだけで、ダヒョン個人にはまったく憎む理由がなかったのです。しかし、ウンユと親しげなそぶりみせると、ダヒョンのグループ内の立場が悪くなってしまいます。こういうたちの悪いの同調圧力のあり方、われわれのよく知っているやつによく似ています。
案の定、ダヒョンとウンユはグループ学習で同じ班になってしまい、行動を同じくする機会が増えてしまいます。ダヒョンは元々自己主張が強く知識をひけらかす傾向のある子で、そのため痛い目をみていまでは自分を隠すようになっていました。しかしその班は向学心の強いメンバーがそろっていて、ダヒョンはありのままの自分を出せるようになり、ウンユともだんだん親しくなっていきます。
人が自分らしく生きていけるかどうかは、所属する集団の質に左右されます。足を引っ張り合うグループよりお互いを高めあうグループの方が、ダヒョンにとっては居心地のいいものでした。しかし、所属するグループは自分で選べるものではなく、偶然性に左右されがちなものであることが、世のままならないところです。ダヒョンはたまたまグループ学習という強制された集団が水に合っていましたが、それは偶然でしかないのが難しいところです。
本の学校の地獄感と似ているところが多いので、日本でも共感を呼びそうです。

『Mガールズ』(濱野京子)

Mガールズ

Mガールズ

COVID-19は終息したがARSウィルスという新たな疫病が猛威を振るっている近未来を舞台にしたディストピアSF(だということにしたい)。分断された世界の子どもたちがストリートダンスという趣味を通して世界を広げようとする物語です。
ということで、本格的なアフターコロナの児童文学を発表した一番乗りの作家は、濱野京子だということになりました。濱野京子は現役の社会派児童文学作家のなかでは間違いなく五指に入る作家ですから、妥当な結果といえましょう。
『すべては平和のために』(2016.新日本出版社)のようなディストピアものを出している濱野京子なので、このテーマはお手のものです。Mガールズ世界では富裕層はエリアAに住み貧困層はエリアB・エリアCに住むといったように、居住地まで分かれてしまうくらい格差が進みもはや身分社会になっています。上級国民ならぬ上級市民なる言葉も人口に膾炙してしまっています。エリアCの人口が増えているのにエリアAは少なく、それなのにエリアAの学校だけ学力が突出しているというのがエグいです。エリアAの大人は自宅勤務できますがエリアBやCはそれが許されない職業ばかりで、主人公のミリの母親は内勤ができない看護師をしていました。もはや世界は戦場のようになっていて、戦場で殺される層と安全地帯で命令する層が完全に分断されているのです。
ただし、エリアAに住んでいるからといって幸福とは限りません。ダンスチームのメンバーになるエリアAのマドカの父親は、外ヅラは人権派弁護士で家庭内ではDVクズ男でした。富裕層であっても家族・家庭の問題から逃れられないというのは、昨年の『with you』(2020・くもん出版)でも取り上げられている問題です。
そんな分断を乗り越えて友愛や恋愛によって人はつながれるのかという問いも、濱野京子が繰り返し語ってきたテーマです。
アフターコロナという最新のトレンドを扱っているようで、実はこの作品は、いままでの濱野作品の成果の変奏であり進化形でもあるのです。このことは、社会を見つめる濱野京子の視点の先見性を証明しています。

『見た目レンタルショップ 化けの皮』(石川宏千花)

見た目レンタルショップ 化けの皮

見た目レンタルショップ 化けの皮

読売中高生新聞連載作。狐の力で人々に容姿をレンタルする店に訪れる顧客たちの物語です。第1話では、自分の容姿に自信のない女子五月が美少女の容姿を借りて、おしゃれなショップに行きます。こういう店では容貌の劣る自分は店員から塩対応されると思っていた五月ですが、本来の自分の容姿と入れ替わっている同伴していた狐が店員にちやほやされているのを目撃しています。そして、見た目ではなく内面が美少女であることが大切なのだと悟ります。
現実に、容姿による差別・ルッキズムは厳然と存在します。しかしこの作品は、個人の心がけの問題にすりかえています。
石川宏千花は、おそらく善人なのでしょう。善人であるがゆえに、努力は報われるはず、報われないのは本人の自己責任とする公正世界信念に陥っているようです。この誤謬に陥っている人には、差別や社会の構造悪は見えません。ゆえに、弱者に対しておそろしく冷淡になってしまいます。
この話を読んで、わたしが石川宏千花に苦手意識を持っている理由がだいたいわかったような気がしました。

『町にきたヘラジカ』(フィル・ストング)

町にきたヘラジカ (児童書)

町にきたヘラジカ (児童書)

かつて学研から1969年に刊行された『町にきたヘラジカ』*1徳間書店から復刊。訳は瀬田貞二先生なので、良質であることは請け合いです。
ミネソタ州のビワビクという寒い町が舞台。ワイノとイバールという少年がヘラジカを狩る空想をしながら帰宅すると、うまやに本当にヘラジカがいました。そこから町中を巻きこむ騒動が起こります。
いちばん大きい牛よりはるかに大きいというヘラジカのスケールは、想像しやすくてちょうどいい感じです。体は巨大ですが、くっちゃ寝しているだけで身体的な危害を加えられるような脅威はあまり感じられません。ただし大人が読むと、ヘラジカがむさぼっている草はタダではないということを考えると顔が真っ青になってしまいます。
ふたりから話を聞いた父親は、まさかそんなことあるまいと思ってヘラジカに遭遇して驚愕、次に呼ばれた駐在さんも冗談だと思っていたのにヘラジカと顔を合わせて戸惑います。こんな天丼ギャグが繰り返されるうちに騒動が拡大していくさまが愉快です。
町は雪に覆われていますが、作中人物たちも作品世界の空気ものんびりとしていて心地よいです。ゆったりとした時間を楽しめる良作です。

*1:原書の刊行は1935年。

『わたしのあのこ あのこのわたし』(岩瀬成子)

傷はつけられたのだ。それをなにもなかったように思うことなんてできない。胸の中にしこりのようなものがあった。しこりがゆるしたがらなかった。そのしこりをどうしたらなくすことができるのかわからなかった。わたしはもともととてもいじわるな子なのかもしれなかった。(p87)

主人公の曽良秋は、結婚式場で働く母親とふたり暮らし。母親と父親の道夫くんはそもそも結婚しておらず、はじめから別々に生活する選択をしています。秋はクラスの持沢さんと友だちになりたいと思い、手紙を出してつきあいがはじまりました。しかし持沢さんの弟が過失で道夫くんからもらったレコードに傷をつけてしまったことから、ふたりの仲は少し険悪になります。
秋と持沢さんが交互に語り手を務める形式になっています。こうした手法自体は珍しくありませんが、岩瀬作品なので繊細さは飛び抜けています。秋は毛布の中で目を閉じて小さい穴にすっぽり収まる空想をし、持沢さんはお風呂の中でここじゃないどこかのことを考えると、それぞれ逃避の手段を持っているところなど、いかにも岩瀬作品の主人公という感じがします。
作品は、人の感情の制御のできなさをみつめていきます。秋は持沢さんのことが好きですが、同時に意地悪な感情もおさえることができません。秋は理詰めで持沢さんの落ち度を指摘していきます。この様子を秋は「わたしのくちからはどっかできいたことのある大人の言葉が出る」と表現しています。自分の感情にも層があり、それはさらに他人の言葉に憑依されもするという複雑さをわかりやすく解き明かしています。
その切り分け、割り切り方は、生き方を楽にする知恵にもなります。道夫くんにはひとりでいることが大事であることを知っている母親は、結婚制度に乗るという選択肢に縛られずお互いにとって生きやすい道を選びます。それでいて、結婚式の運営を職業とし、「式っていうのは、あれはあくまでセレモニーだから。結婚式を挙げることと結婚生活はまた別のことなの」と言ってのけます。

『強制終了、いつか再起動』(吉野万理子)

強制終了、いつか再起動

強制終了、いつか再起動

私立中学に転校したばかりで学校になじめていない加地隆秋は、家庭教師の大学生のすすめで大麻に手を出してしまいます。そこに、隆秋をYouTubeの動画の素材として使いたいと思っている同級生の伊佐木周五、親戚に麻薬取締官がいるという同級生の麻矢夕都希がからんできて、3人で動画作成をすることになります。
周五は隆秋を素材として利用しようとしています、また周五が夕都希に接近した理由は、夕都希の親が自分の親の仕事上の取引相手だからというビジネス目的。人と人がつながる理由は打算だけというゲスさが、吉野作品らしいです。
ある作中人物は、薬物に手を出した人を包摂すべきであるという思想を語ります。おそらくこれは著者の思想の代弁なのでしょう。現状日本の薬物乱用防止教育は「ダメ。ゼッタイ。」、つまり一度でも薬物に手を出したら人生終了であるという脅しが主流です。それに対するアンチテーゼを出すことには、一定の意義はあるのかもしれません。しかしこの作品は、それが極端から極端にいきすぎて、薬物の怖さが全然みえてこないのが問題です。
同調圧力により薬物を断れなくなる怖さは、描かれています。これは吉野万理子の特性にあっています。ただし、薬物自体の怖さはほとんど伝わってきません。むしろハイになって楽しそうというところばかりで、心身に与える影響の深刻さの描写に具体性が足りません。また、薬物使用者がクリエイター層や裕福なインテリ層に設定されているところも、むしろ薬物への憧れを抱かせるのではないかという危惧が持たれます。
それ以前の問題として、犯罪者を隠匿してなあなあですませようとする姿勢が倫理的にどうかということも疑問です。
わたしは吉野作品を語るとき、毎度のようにゲスさが特色であると述べています。そこに一定の文学的価値を認めています。しかしこの作品の場合は題材が題材なだけに、文学性より教育性を重視して評価する必要があります。その視点で考えた場合、この作品を子どもにすすめられるかと問われたならば、躊躇すると答えざるをえません。

『妖怪コンビニで、バイトはじめました。』(令丈ヒロ子)

妖怪コンビニで、バイトはじめました。

妖怪コンビニで、バイトはじめました。

カバーイラストがいいですね。なんか足が変なアヒル(?)、ドアに入ろうとしている人々はサイズがおかしい。眺めれば眺めるほどSAN値が減りそうです。
主人公のイズミは、人外さんや人間の本質を見ることができる霊感体質の少年。父親とふたり暮らしでしたが、新しい母親ができたことが悩みの種でした。イズミはインドア派でおとなしいタイプだったのに、新しい母親は善人だけど性格が明るすぎて相性が合いません。イズミは柴犬頭の男が店長をしている人外さん向けの薄暗いコンビニに迷いこんで、そこでホラー系ユーチューバーの女子やイケメンダンサーの幽霊男子と出会い、騒動に巻きこまれることになります。
イズミは物事をシステマティックに理解することを好んでいて、さまざまな人外さんに対応した商品や棚の配置に興味を持ちます。他の主要登場人物も感情より合理で動く人間ばかりで、妖怪アイテムを使わないと感情を爆発させることはありません。
合理性を重視する一方で、情緒を描くことにも長けているのが、令丈ヒロ子の天才性です。妖怪アイテムをきっかけに感情を加速させ、死ぬ気でやってやるというやけっぱちの情動と怪奇現象の狂騒が展開されます。そして、悲哀に近い幸福感をしっとりと描いていきます。