主人公は浦和市*1の中学校に通っている不良少年の仁。彼が南浦和駅前でタバコを吸っている場面から物語は始まります。彼は亡くなった祖父が住んでいた空き家に友人と行き、酒盛りをしようとしていました。その途中で狛犬を破壊したりといろいろやらかし、仁たちの一族をずっと前から呪っていた鬼の封印を解いてしまいます。仁は自分を呪おうとする鬼を言いくるめて、仁のいとこで埼玉県一の名門校にも合格間違いなしといわれている優等生の章に取り憑かせます。このあと仁は、鬼の呪いで章が転落していくさまを冷ややかに見つめます。
犯罪に手を染めている仁に対し、ほぼ落ち度のない章が一方的にひどい目に遭わされるのが理不尽です。さらに理不尽なのは、あとがきの書きぶりから作者が章を憎んでいて、罰を与えているかのようにみえるところです。
あとがきでは競争社会批判がなされていますが、作者は勉強をがんばっているだけの章があたかも非人間的な加害者側に立っているかのように扱っています。あとがきには仁が人間らしく生きていけることを願う文面はありますが、章については……。
ここで思い出されるのは、福永令三の『クレヨン王国 白いなぎさ』(1984年)です。この作品では百点マシンというニックネームを持つ勉強のできる子どもが、実質的に人格を奪われるという罰を与えられていました。建前としては、児童文学は子どもの側に立つべきであるはずです。しかし、昔の一部の児童文学作家は、勉強ができるという属性を持つ子どもに憎しみを向け罰を与えようとしていたかのようにみえます。これはなかなか興味深い現象であるように思われます。
作品の話に戻りましょう。章に絶妙なタイミングで恥をかかせて精神的に追いこんでいく展開がいやらしいです。まずは、英語の授業で奇声を上げさせます。呪いのせいで勉強ができなくなった章は、水泳大会で活躍して名誉挽回しようとします。ところが、せっかく1位でゴールしたのに、このタイミングで胸に鬼のような毛を生じさせて、嘲笑の的にします。
親指から薬指までを鬼に乗っ取られた章は、最後に残った小指を頼りに勉強を続けようとします。これは、なんとか人間らしさをとどめようとする哀切な思いにみえます。しかし、作中での評価はこうなってまで受験にしがみつく妄執であるとされます。
タイトルに「ひびく」とあるように、音が作中で重要なモチーフになります。絶望した章が拾ったハモニカを吹いて夕焼けに自分を仮託して心中を吐露する場面も哀切です。
「ジン、夕焼けはね、そのとき、ぼくの目の中に始まるんだ。なんて大きな夕焼けなんだろう。空がまっ赤で大地もまっ赤で、ぼくまでまっ赤に染まるんだ。じんじんとぼくの血が歌いだし、夕焼けと同じ色になって、ああ、早く、ぼくもまっ赤に燃えつきてしまいたいって、ぼく、ほんとうにそう思うんだ。すると、決まって涙が出てくる。」
クライマックスの炎上のシーンも、笛とたいこの音が響くなかで赤い炎が燃えさかるイメージが、恐ろしくも美しくて読ませます。さらにこのあと、回想と幻覚がまじりあった、幼いころのふたりが雪のなかで遊ぶシーンが続きます。この、火の赤と雪の白の対比がまたエモくて、それだけにたちが悪いです。
技巧的なうまさを持つ作品であるだけに、いっそう救いのない凄惨さが際立ちます。これを読まされた小学生は、さぞや強烈なトラウマを刻みつけられたことでしょう。