『羊の告解』(いとうみく)

羊の告解

羊の告解

なんでもない1日のはじまりになるはずだったある朝、中学3年生の涼平の家に警察が訪れ、父親に任意同行を求めました。警察に行った父親はすぐに知りあいを死なせたことを認め、涼平の一家は突如として「加害者家族」という立場に立たされてしまうことになりました。
最近では吉野万理子の『赤の他人だったら、どんなによかったか。』(講談社・2015)という例があるものの、加害者家族という題材の作品は他にあまり思い浮かびません。難しい題材に挑んだ意欲作です。
警察が来てからの息をつかせぬ急展開に目が離せません。綿密に取材したらしく、任意同行から逮捕・勾留・弁護士への依頼といった流れにリアリティがあり、読ませます。
作品の結論は、「ゆるし」が大事だというところに落ち着きます。では、その結論に説得力を持たせるためにどのような方法をとるのか。いとうみくは、「ゆるし」の前提にあるはずの罪から逃避し、罪を軽く見せかけることで「ゆるし」に到達するという方法をとったようです。
父親の犯した犯罪の全貌はわからず、被害者の姿は全然見えてきません。かろうじてわかるのは、借金トラブルが原因で父親は金を貸した側であったということだけです。主人公に同情的になっている読者は、どうしても被害者側が悪質な債務者であったのではないかと想像してしまいます。加害者家族にとっての被害者家族は、裁判に有利だからという弁護士のすすめて謝罪の手紙を送る相手でしかありません。実務的なレベルで抽象的な存在にされているので、被害者側の痛みには想像力を及ぼしにくくなっています。また、のちに涼平の友人になる女子も加害者家族で兄が痴漢をしたことになっているのですが、これは冤罪が問題になりやすい犯罪で、作中でもその可能性が示唆されています。まるで、加害者側に都合のいい想像がしやすいように作中の情報が操作されているようです。
とはいえ、加害者家族が罪を追及されるのは理不尽ですから、そこには目をつぶってもいいかもしれません。ただし、主人公の涼平自身が犯した罪は見逃すことができません。児童文学作品において、性暴力という犯罪はそんなに簡単にゆるされていいものなのでしょうか。
いとうみくの長所は作品に昭和感があるところです。たとえば『車夫』のような昭和風美談は比較的安心して読むことができます。ただ、作品によってはこの人は昭和の時代から倫理観がアップデートされていないのではいかと疑われるような要素も散見されます。「ゆるし」をテーマにしつつ性暴力を簡単にゆるしてしまうこの作品などは、デートDVという概念がまだなく、男の暴力を受け入れ堪え忍ぶことが女の美徳であるとされた旧時代の産物なのではないかと錯覚されてしまいます。
時系列をいじる構成や煽り方はうまく、するする読めてしまうので、読後にはいい話を読んだ感は残ります。エンターテイメントとしてはそこそこの出来です。でも、シリアスなテーマを扱った児童文学として本当にこれでいいのでしょうか。