『イナバさんと夢の金貨』(野見山響子)

あまりにぼんやりした性格のため自他の境界が曖昧になり不思議な世界に迷いこみやすい体質のイナバさんを主人公とするシリーズの第3弾。SF度の高いところがこのシリーズの童話としての稀有な特長ですが、今回は宇宙が主な舞台になったのでそのよさがさらに増しています。
イナバさんは、深夜のコインランドリーから宇宙に入ります。丸い扉の並ぶコインランドリーが宇宙船の窓のようだという連想から舞台が移るロジカルさが愉快です。ここでイナバさんは、無数のコインを排出する装置のある部屋に閉じこめられ、コインに押しつぶされて圧死という命の危機にさっそく陥ってしまいます。
宇宙に行ってからの冒険も楽しいですが、イナバさんが深夜のコインランドリーに赴くに至った理由が語られる発端のエピソードもいい具合です。イナバさんは、「何の予定もない休日を、それはもうなんにもせずに心ゆくまでなまけてすごしました」と、最高に幸福な1日を味わっていました。ところが、その締めくくりにミルクコーヒー片手にベッドでマンガを読もうとしたところ、思いもしなかった悲劇が訪れます。この場面のイラストでは、θなどの記号を使用し放物運動の様子が図示されています。もちろん本来の読者の小学生の多くには初見のものとなるはずですが、こういう演出にすっとぼけたかっこよさは感じられるものです。
なんやかんやあってイナバさんは、記憶がはっきりしない状態で月面に投げ出されます。身体まで透けている状態や「ういろうくらいの不透明さ」に変容し、不安定です。ここでイナバさんは、実存的な不安に直面します。月にいるうさぎなのでモチつきをすることを期待されたときの叙述などは、不安定さが振り切れていて恐ろしいです。

(おモチつき……モチツキ……)
イナバさんは、だんだん自分が何を探しているのか、よくわからなくなってきました。キネとかウスとか口のなかでつぶやく言葉がほどけてくずれて、意味をなくした呪文のようになっていきます。

このシリーズは、ルイス・キャロル寺村輝夫のような道理寄りの不条理童話の系譜にあるようです。同時にSF要素もあるので、かんべむさし山野浩一の観念SFのような印象も受けます。いまの児童文学界にはあまりない味のする作品なので、長く続くシリーズになってもらいたいです。