- 作者: 木地雅映子
- 出版社/メーカー: ジャイブ
- 発売日: 2006/11
- メディア: 文庫
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さて、わたしも杉子の帰還を喜びたいのは山々なのですが、まずはまさに今出るべくして出てしまった新作「オルタ」について語りたいと思います。
そんな種類のこどもたちが、体を張って切り開いてきた道。屍累々たる……といっても、おそらく過言ではない、(比喩ですらない)、苦しい、孤独な道。
それらの細い道筋が、何千本も、何万本も寄り集まって、今ぼんやりと、光を出し始めているような気がするのです。(「オルタ追補、あるいは長めのあとがき」206ページ)
くしくもこの本が刊行された現在、学校で新たな屍(比喩ですらない)がどんどん積み上げられています。そんな今、子供たちに語るべき言葉が、この作品の中に詰め込まれていました。さらに、本気で子供を守りたい大人が子供にどう接するべきかが示されているマニュアルにもなっています。
この作品のあらすじは至って簡単です。隣の席に座っている貴大くんから日常的に暴力を受けている小学一年生の少女オルタが、学校を止めることを選択するまでの物語です。
語り手はオルタの母親である「わたし」。作中で多くは語られていませんが、「わたし」は大変な困難を抱えながらも学校の中で生き延びてきたサバイバーのようです。彼女の語りは穏やかで明晰で、的確に学校の抱える問題を見つめていきます。
「わたし」がオルタの置かれている状況を担任の教員に伝えた時、彼女はこんな言葉を投げつけられました。
「読んだり、書いたり、計算したり……それだけが勉強だとは、私は思っていません。いろんな子どもがいて、笑ったり、泣いたり、ぶつかったり、そうやって人として学び、成長していくのだと思っています。」(128ページ)
ここで「わたし」は、自分がよく知っていたはずの学校の独特の文化に改めて直面することになります。
これがあの、大きな四角い建物の、内側の世界の価値観だ。オルタが味わったこのストレスは、こども同士の「笑ったり、泣いたり、ぶつかったり」の範疇なのだ。こどもが、人として成長するために、経験してしかるべき、人生勉強とでも呼ばれるようなもののうちに、含まれるのだ。(130ページ)
学校の中では、子供は暴力から守られるべきだという当たり前のはずの価値観が通用しません。子供が毎日暴力の恐怖におびえ、非人間的な生活を余儀なくされていたとしても、それは人生勉強であり乗り越えるべき試練だと片づけられてしまいます。こうした学校の価値観が非常にいびつなものであるということを、まずはっきりさせておかなければならないでしょう。
「わたし」は迷うことなくオルタに学校を休ませました。そのあと「わたし」が、ソーシャルワーカーのF先生の言葉をオルタに伝える場面が印象的です。
「かわいそうに、オルタちゃん、どんなに怖かったでしょうね。」(162ページ)
この言葉はオルタの心に届き、オルタを安心させることになります。
そうだ、自分は怖かったのだ。夢でもまぼろしでも、一人勝手な思いこみでもない。あれは、たしかに、怖い目に遭わされていたのだ……(164ページ)
学校で消耗している子供は、なにもかも自分が悪いのだと思わされています。ですから大人のはたすべき役割は、子供が「怖い」思いをしていたことに共感を示し、それが本人の落ち度のせいではないまったく理不尽な体験であったことを教えることです。
オルタに自分の考えを話し尽くした「わたし」は、オルタに選択を求めます。オルタは景気よく「がっこうやめる!」と答えました。理由は実に明快です。
「学校に戻るのと、このままおうちにいるのとでは、どちらがより、かしこいおとなになれると思いますか。」
「おうちにいるほう。だって学校にいたら、ゼンゼンべんきょうできないんだよ?」(193ページ)
学校に通っていては勉強ができないとは笑い話にもなりませんが、こんな状況が日本中の学校で放置されているのが現状です。
結論は簡単。今早急に大人がしなくてはならないことは、学校を止めるという選択肢の存在を伝えることです。
本当を言うとね。
おとなになるのはね。別に、毎日学校に通わなくたって、ちゃーんとなれるんだよ。(190ページ)