『海のなかの観覧車』(菅野雪虫)

菅野雪虫が長編でファンタジー要素のない現代リアリズムをものすのはこれが初めてではないでしょうか。菅野雪虫はデビュー以来ファンタジーのかたちで社会派児童文学を書き続けてきました。ただし短編では、カルト二世を主人公にした「マッチ売りの少年」*1、女性の究極のジェンダー逸脱を描いた「いつかアニワの灯台に」*2といった衝撃的なリアリズムの問題作を世に問うていました。ですから、著者にとっては珍しいリアリズム長編が発表されるということで、読者の期待は高まっていました。そして登場したのは、期待を超える社会派児童文学の新たな金字塔でした。
主人公の透馬は地方の有力企業の社長を父に持っていましたが両親は離婚してしまい、経済的な不安はそれほどないもののメンタルが不調になりがちな母親のヤングケアラーとして生きていました。5歳の時の記憶がはっきりしないことや、身体の不調はないのに定期的に医者に通わされていることなど謎を抱えている透馬でしたが、15歳の誕生日に運命が動き出します。誕生日に透馬の健康を祝福する手紙が届き、それにビニール袋に入った黒い粉が同封されていました。その手紙と麻疹による熱がきっかけで、透馬は5歳の時に魔法使いたちと遊園地で遊んだ記憶を思い出します。
透馬の運命は、15歳で眠りにつくことを予言された『野ばら姫』と重ねあわされます。童話の世界との重なりあいや、水中に沈む観覧車などがある記憶の遊園地の光景などから、序盤は幻想性で読ませてもらえます。しかし、その幻想性と現実の落差の残酷なこと。物語は社会派リアリズムとして、謎解きの娯楽性も駆動力とし加速していきます。
著者らしい社会を見つめる視線のシニカルさがそこかしこに光っています。透馬の前で奪う側の論理を振りかざす社長秘書の城田さんの言葉には、ムカつかされることばかり。「爆発ではなく、(中略)爆発的現象」などという物言いには、この国の権力者の態度が思い出されて乾いた笑いしか出てきません。
闘争は情報戦として描かれます。企業側は復興を願うという名目で桜を植えますが、真の目的はそれで事故の実態を覆い隠すフラワーウォッシングでした。また、企業に抵抗する側も、自分をアイドル化するイメージ戦略をとります。
さらに、〈災害ユートピア〉は一瞬で消え去るはかない夢であることも冷静に見つめます。菅野雪虫の透徹した分析力は、同時代の社会派児童文学作家のなかでは抜きん出ています。
視点の置きどころをみれば、社会派児童文学作家の資質はわかります。『野ばら姫』の物語において姫でも王子でも王や妃でもなく、姫の巻き添えになって眠りにつかされた側や糸車を必死で守り抜いた側に立つ菅野雪虫は、信用してよい作家であると判断できます。
社会派として確かな作品であることはいうまでもありませんが、同時に真面目に通俗娯楽を貫いているところにも好感が持てます。情報を開示し物語を動かすタイミングが絶妙ですし、謎めいた双子といったベタなキャラクターの運用もうまく、ページをめくる手が止まりません。間違いなく社会派児童文学史に残る作品です。