『ゆうれいがいなかったころ』(岩本敏男)

昭和アングラ児童文学界でもひときわ異彩を放っている岩本敏男による創作民話集。1979年、偕成社刊。死者が登場する作品が多数収録されています。作中のセリフは「」でくくられておらず、語り手と作中の死者や生者の声がとけあい響きあっているようです。
第一話「鬼がむかえに」では、人が死んだら鬼が走って迎えに来て黄泉の国に連れていかれるという設定になっています。根別という樵が死んだとき、三日経っても鬼は現れず根別は目をあけて声を出したので、両親は根別が生きかえったと喜びます。そこへ鬼がやってきて、両親の抗議もきかず根別を背負って黄泉の国に向かって走り出します。黄泉の国の閻魔は根別は死んでいないと裁定し、帰るように命じます。しかし帰りは鬼に送ってはもらえず、十万億土をひとりで歩いて帰ったので家に着いたら力尽きて結局死んでしまいます。こんな理不尽許されるの?
この作品における死者は霊魂のような実体のない存在ではなく、生身の肉体も意思も持っているように描かれることもあるのが特異です。上野瞭の解説は、「死を人生の終焉とみる物理的人間観に対して、きわめて日本的発想でとらえられた他界の表現」であるとし、折口信夫の『民族史観における他界観念』を引いてこの作品における死者の世界は「未完成の霊魂の留まる地域」であるとしています。
表題作「ゆうれいがいなかったころ」での死は、死者が自分でお墓を抜けて三途の川まで歩いていくものとされています。治平さんは三途の川の渡し賃が一文足りなかったので、村まで戻って一文をくれる人を探し回ります。
第八話「とぶ首」は、首をはねられた悪党たちが自分たちの悪事を語りあう話。自分たちが落ちる地獄を予想したりする様子には妙なユーモアがあり、日本犯罪界の大スターが唐突に颯爽と登場し首たちを救済するラストには呆然とさせられます。
第一六話「ちょうちん小僧」では、あるさむらいの日記という形式でちょうちん小僧という怪異による連続殺人のさまが語られます。淡々とした客観的な記述が恐怖を盛り上げていきます。その積み上げのうえで、さむらいが事件の中心地を訪れる日の記述の陰惨なポエジーが引き立っています。
斎藤隆介さねとうあきらの諸作に並ぶほどの日本の創作民話の大きな収穫として記憶されるべき作品です。