『となりのきみのクライシス』(濱野京子)

小学六年生の葉菜のクラスでは、保護者や先生が加害者となる事件が続発します。カバー袖の紹介文にある例を挙げると、「父親の家庭内暴力、学校でのセクハラ、母親からの過干渉、女子を見くだす祖父」と、多様なクズ大人が登場します。これって物語を作るための都合で過大に扱っているだけで、ひとつのクラスでこれだけの問題が起こるのはありえないんじゃないのと現実逃避をしたくなりますが、ひとクラス分の人数がいればこの量は多いとはいえないでしょう。葉菜が学校で起きたことを親に話すと、「日本の子どもの七人に一人は貧困って言われているものね」などと知識を与えられ、葉菜のみる世界はどんどん地獄みを増していきます。
個人的にもっとも地獄だと思ったのは、急に担任が交代されてから起きた事態です。保護者のひとりが担任交代の後は学級崩壊しやすくなるからと扇動し、数名の保護者が毎日授業の様子を監視に来るようになりました。常に背後に親の目があったら授業に集中できるはずがありません。子どもにとって学校は、家庭から解放される場所でもあるはずです。
新しい担任は、児童に子どもの権利条約の話をします。これを糧として葉菜たちが主体的に行動を起こす直球の流れは、現代トップレベルの社会派児童文学作家である濱野京子らしい力強さがありました。
物語が進むに従って、読者は葉菜の親に疑念を抱くように誘導されます。安全な場所からわかったようなことを偉そうに論評するこの大人はなんなんだと。そこそこに裕福でそこそこに意識の高い保護者の暗黒面にも、作品は踏みこんでいきます。
『となりのきみのクライシス』というタイトルの「きみ」は、読者のことだという解釈もできそうです。だとすれば、読者は逃れることができなくなります。