『シンドローム』(佐藤哲也)

シンドローム (ボクラノSFシリーズ)

シンドローム (ボクラノSFシリーズ)

福音館書店のSFレーベル〈ボクラノSF〉初の書き下ろし作品『どろんころんど』が刊行されてから4年半ほど過ぎ、誰もがレーベル打ち切りを覚悟していたころ、書き下ろし第2弾『シンドローム』が発表されました。これを読まされたら、もう福音館書店に文句などいえません。『どろんころんど』『シンドローム』のレベルを維持するなら、5年に1冊しか本を出せなくても仕方ありません。
著者の佐藤哲也は、『どろんころんど』の北野勇作と同じく初期の日本ファンタジーノベル大賞出身作家です。奇想天外なホラや独特のまわりくどく理屈っぽい文章が魅力です。
『シンドローム』は、非常に理屈っぽい高校生の少年の語りで、天から謎の火球が落ちてきてから変容していく街の様子が記述される作品です。作中で流れる時間は七日間。七日間あれば天地を創造することもできるらしいので、世界を滅ぼすにも十分な時間といえます。
火球が落ちてから街のあちこちが陥没していったり、触手のような宇宙生物っぽいものがうごめいたりと、いろいろと非日常的なことが起こりますが、少年にとって優先度の高い関心事は片思いの相手久保田との距離のことです。少年は自分のことを「精神的な人間」であると規定していて、恋のライバルであるらしい同級生の平岩が非精神的な迷妄にとらわれた行動をして自分を出し抜こうとするのを軽蔑しています。彼の考えを少し引用してみましょう。

ぼくは久保田を久保田と呼ぶ。久保田を久保田と呼ぶことで、久保田を抽象化しているのかもしれない。久保田を久保田と呼んで抽象化し、言わば非精神的な要素を排除することで久保田とのあいだに距離をたもち、安定させているのかもしれない、とぼくは思った。つまり久保田は精神的な存在だった。その範囲で久保田に肉体はなかった。しかし抽象化をやめれば、久保田は非精神的な存在になるに違いない。そのとき、距離はどうなるのか。暗黒の領域を手探りで進めば、距離を誤ることになるだろう。暗黒の領域には罠が多い。そこでは現実と迷妄を見分けることができなくなっている。すべてが非精神的な期待と願望に還元される。期待と願望に正体を求めれば、自分をゆがめることになるだろう。期待と願望が真実をゆがめて迷妄を呼び出し、精神的な人間を非精神的な人間に変え、非精神的な人間は迷妄の亡者となって闇の中をさまようのだ。気をつけなければならない、とぼくは思った。(p53)

なんと厄介な少年か。彼は宇宙生物によってパニックが起こる終盤もこんな調子で理屈をこね、あらゆる非精神的なもの・愚劣なものへの憎悪を表明していきます。愚劣な教師たちにも、迷妄に支配されてヒロイズムに走ろうとする平岩にも、暴虐な宇宙生物にも、こんなことであっけなく崩壊してしまう世界にも、彼は等しく憎悪を向けます。この理屈で武装された激情、これこそがまぎれもなく青春です。
さて、本をパラパラめくってみると、この作品は視覚的効果を意識して文章が練られていることがわかります。1行の文字数をそろえてテンポよく話を進行させたかと思えば、次のページではほとんど改行をせず怒濤のように理屈をこねまくるといった具合。文字がすかすかのページと文字で真っ黒になったページの対比により、語り手の思考の密度が視覚的にも理解しやすくなっています。
圧巻なのが、142ページから150ページにかけての、少年と久保田が昼食をとるために川原に歩いていく場面です。このページでは1行の半分にも満たない会話文が交互に繰り返されて、下の余白にはふたりの足のイラストが描かれています。ふたりの台詞の文字数ははじめは安定しませんが、147から150ページになると14文字にそろいます。同時に、はじめは久保田が先に行っていた足が、最後になってそろうのです。このとき少年の脳内でなにが起こっていたのか、それは視覚によって一目瞭然です。会話の内容自体は料理の話題でまったくどうでもいいものですが、それなのにこの部分は至高の恋愛詩になっています。この作品は、文学は視覚芸術でもあるということを、強烈に意識されてくれます。
そして、本は視覚や触覚も含まれた総合的な芸術です。装丁は『どろんころんど』と同じ祖父江慎+鯉沼恵一。『どろんころんど』と同じくカバーにはでこぼこがついていて、触ってみても楽しい本になっています。街が陥没するという設定に合わせて、日が進むと文字の位置を陥没させるなど、いろいろな仕掛けが施されています。