児童文学蔑視言説の一例

 東京新聞9月12日夕刊の匿名文芸批評コラム「大波小波」があまりにひどかったので、メモしておきます。
 内容は、『「児童」文学でいいのか』と題し、松浦寿輝の「川の光」がもてはやされている現状を批判しつつ、文学界が匿名氏の言う「児童」文学に流れていくことを危惧するものでした。確かに「川の光」は愚作です。しかし、その原因はこの作品が児童文学を模しているからではありません。単に松浦寿輝の力量が足りなかっただけです。一作品の問題を児童文学全体の特性によるものだと誤解しているために、このコラムはまったく的はずれなものなっています。

松浦のこの作品はあまりにもベタすぎないだろうか。批評家たちは、実験的な純文学の主流が本当に「児童」文学になってしまってもいいと思っているのだろうか。

 匿名氏はこのように批判していますが、ベタなのは「川の光」であって、児童文学というジャンル自体がベタなわけではありません。それに児童文学が実験をしていないというのもまったくの誤解です。これは「児童文学」の部分を「SF」にしても「ミステリ」にしても「ライトノベル」にしても同じことが言えますが、実験は純文学の専売特許ではありません。そもそも全然実験をしない文学ジャンルなど考えられるでしょうか。

今を生き、未来の表現を開いていくはずの現代の日本の書き手たちが雪崩を打って「児童」文学に群がっていこうとするのはいかがなものだろうか。退嬰と言われても仕方がないのではないだろうか。

 「退嬰」とまで言われてしまいましたよ。匿名氏が何千冊児童文学を読んだのかは知りませんが、どうして児童文学が過去に閉じている文学だという確信を持つに至ったのか、ぜひ理由をうかがってみたいものです。