『こそあどの森のないしょの時間』(岡田淳)

だれにも いわないけど わすれられない
ひとりで いたから かんがえた
そんな物語を みんな もってる……

「こそあどの森」の短編集。短編というより掌編といった方がふさわしいとても短いお話も入っています。冒頭の、こそあどの森の住人とその家を紹介するイラストページを見ると、すぐに作品の世界に戻っていけます。それだけこそあどの森の世界は、読者のなかに実在感を持って存在しています。この作品集のなかから、特に好きな作品を2作紹介します。
スミレさんのないしょの話「「ひなたぼっこ」はだれとしているのか」は、スミレさんがふと「ひなたぼっこ」という言葉の不思議さに気づいてしまうというだけの、わずか3ページほどのエピソードです。「ぼっこ」の「こ」はかけっこやにらめっこの「こ」に似ているので、「ひなたぼっこ」も本来は複数人でする営みなのではないかと、スミレさんの思考はとりとめなく広がっていきます。スミレさんは小説家のトワイエさんと同等かそれ以上の文学的感性の持ち主ですが、トワイエさんのように作品というかたちで出力はしません。個人で自足し完結するあり方も肯定するところに、こそあどの森の多様性があります。
ミルクのないしょの話「〈連続しりとりステップ〉でどこまで行けるか」は、ふたごがミルクとシナモンと名乗っていたときのお話です。〈連続しりとりステップ〉とは、しりとりをしながらその言葉の数だけ階段を降りていくという遊びで、言葉を言い終えたあとすぐに次の言葉を言うことができれば同じ人がいつまでも自分のターンを続けていいという特殊ルールがあります。その日のミルクは絶好調で、巻き貝の家のらせん階段を1階まで降りきってもしりとりが続き、外にまで飛び出してしまいます。この解放感と躍動感がたまりません。「フングリコングリ」に代表されるように、子どもの遊びを楽しそうに描く岡田淳の腕は、やはり超一流です。
しかししりとりはいつまでも止まらず、やがて赤い靴の呪いのようなホラーになってしまいます。そこでミルクを救ったのは、××でした。正確にいえば、ミルクが××に救われたと解釈しただけで、それは錯覚かもしれません。でも大事なのは、自分のなかに    を宿すことができるということです。