「大人のための児童文学講座」(ひこ・田中)

大人のための児童文学講座
大人のための児童文学講座」(ひこ・田中

「大人のための児童文学」講座

 このタイトルはダブルミーニングではないかと。すなわち、「大人のための『児童文学講座』」と「『大人のための児童文学』講座」です。「大人のための児童文学」と定義できるような作品がいくつの紹介されていますが、それに対するひこ・田中の見解は辛辣です。
 では、どのような作品が「大人のための児童文学」なのか?たとえば彼は「小公子」のセドリックを「児童文学の中でもっとも不幸な子ども」と評しています。なぜかといえば、セドリックが「無垢のかたまり」であり、「美しさも汚さも両方存在する本当の世界を知ることを求められてはいないし、知ってはいけない存在」だからだといいます。そして「彼は、近代の大人社会が作り出した、『理想の子ども』という悲しいモンスターなのです。」と締めくくります。
 このように、子供に無垢でピュアで無邪気であることを強要するたぐいの作品を「大人のための児童文学」といえるのではないかとわたしは思います。児童文学の定義はいろいろあるでしょうが、わたしは児童文学とは「子供のための文学」だと思っています*1。だから「大人のための児童文学」とか「大人のための童話」なんてものは言葉として意味をなさないうさんくさいものだと思っています。ありもしない「(大人にとっての)理想の子供」の物語を読んでいやされる大人の姿はあまりかっこいいものではありません。このような態度は子供に対する搾取であるともいえます。
 ひこ・田中がセドリックの同類にあげているのは、ハイジ、「汚れなき悪戯」のマルセリーノなどです。でも彼らはまだいい方です。なかには「子供のピュアさ」を保存するために、子供の内に殺されてしまう子供たちもいます。「フランダースの犬」のネロ、「車輪の下」のハンス、星の王子さま。彼らは「幻想の子供」を求める大人たちの欲望によって殺されたともいえます。こういう物語を求める大人は、子供の立場で考えれば気持ちいい存在ではないでしょう。

潜在的カリキュラムとしての児童文学

 児童文学に限らず子供の対象にしたあらゆるものは潜在的カリキュラム(隠れた教育課程)の要素を隠し持っています。ひこ・田中の「理想の子供」を批判する論調から、児童文学のこんな面が見えてきます。うがった解釈をすれば子供を大人の思い通りにするための洗脳。よく言えば子供への願い、未来への希望が表現されていえるともいえます。
 潜在的カリキュラムとしての要素は、「理想の子供像」の押しつけだけではありません。「女の子は小さな婦人たれ」とか「男の子はマッチョたれ*2」とか。児童文学を見ているとその時代時代で子供にどんな役割が期待されていたかがわかります。児童文学のこういった面を暴いて見せたことが、この本の一般向けの児童文学入門書としてのおもしろいところだと思います。もちろんこういった並べ方をするということは、ひこ・田中自身の児童文学観、児童文学史観を露呈することになります。この本の最後に最近の日本の作品を二つ、「「うそじゃないよ」と谷川くんはいった」(岩瀬成子)と「宇宙のみなしご」(森絵都)を挙げていることが、ひこ・田中の考える児童文学のあるべき方向性を指し示していると思います。現在の日本の作家は、これが子供のあるべき姿だと確信を持っていうことはできなくなっています。でもそれは、今の作家が子供に無理な「理想の子供像」を押しつける子供にとって有害な存在になっていないということでもあります。

 ところでひこ・田中はもう小説は書かないのでしょうか。評論家としては確固たる地位をかためていますし、なにより児童文学書評という巨大サイトを主宰していることで児童文学界に大きく貢献しています。でも、1ファンとしては小説の新作を見せてもらいたいです。

*1:この点は児童文学を「『子どもが読めて理解できる』という、独自の手法で書かれた文学」と定義するひこ・田中とは意見が異なりますが。

*2:ひこ・田中星の王子さまもマッチョな男性であると論じています。