「勇太と死神」(立石彰)

勇太と死神 (文学の扉)

勇太と死神 (文学の扉)

 第45回講談社児童文学新人賞受賞作。転校生の勇太は病弱で不登校気味の真の面倒を見る係に任命されてしまいます。真はたまに学校に来たかと思うと、教員をでもしか教師呼ばわりしてトラブルを起こす厄介者で、勇太も手を焼きます。やがて勇太は、真の病気が命に関わる難病で、死神にまでとりつかれていることを知ります。勇太は死神から真を守るために奮闘します。真がピアノが得意であることを知った勇太は、真に生きる力を取り戻させるために学校の合唱コンクールでピアノを弾かせることを思いつき、教師やクラスメイトと交渉をするというあたりが山場か。病弱美少年がピアノが堪能だという設定はすばらしくベタ。
 まあ、難病ものなんですが、どうも世界に善意があふれすぎていて嘘くさいというのが率直な感想です。勇太いい子すぎ。どうしてあんなくそ生意気なガキのために一生懸命になれるのか不思議でたまりません。真にピアノを弾かせるために勇太がクラスメイトを説得する場面のセリフに、この作品の問題点が象徴されています。

たのむ、みんな、聞いてくれ。あいつは病気なんや。そやからみんなとうまいこと友だちになれんのや。もし自分があす死ぬかもしれんような病気になったらどないする。みんなと同じように学校いけへんようになったらどないする。バレーもサッカーも合唱もできんようになったらどないする。あいつは、ほんまはええやつなんや。ただうまいこと友だちになれんだけなんや。そやから、みんな、あいつを助けてやってくれ、たのむ。

 勇太はこういって、クラスメイトの前で土下座して見せるという茶番まで披露します。ここで読者が勇太の発言に同調できればいいのですが、「あいつは、ほんまはええやつなんや。」という発言の根拠がそれまでの作中で全然描写されていないのが大問題です。それまでの積み重ねができていないために、この発言がまったく説得力に欠けた嘘くさいものにしか見えなくなってしまいます。
 しかしながら、勇太のこの提案はごく短時間でクラスに受け入れられます。さて、真にピアノを演奏させるためには、真の発表時間を確保するためにクラスが自由曲の発表を放棄しなくてはなりませんでした。それはコンクールへの参加をあきらめることを意味します。合唱コンクールは伝統ある学校行事で、みんなは懸命に練習をしていました。真にピアノを弾かせるためには大きな犠牲を払わなければならないことになります。こんな重要な決断をたったの数時間で下すことは難しいはずです。勇太の発言は説得力0なのに対し、思い入れのある合唱コンクールのためにはらった努力を無駄にしたくないというクラスメイト達の主張には説得力があります。それが勇太が暴力事件を起こして教師に怒られていたほんのちょっとの時間のうちに覆されてしまいます。校庭を走らされていた勇太が教室にもどると、クラスメイト達から全員一致で提案をのんだと告げられます。この場面はベタで非常に感動的なんですが、勇太の主張の説得力のなさを考えるとこの展開には無理があるように思います。
 この作品は、部分部分で見るとうまくて感動的です。新人にしては筆力もあると思います。死神の戦いの場面もそれなりに盛り上がるし、勇太のいい子っぷりもその場その場では感動できたような気になりました。しかし冷静に全体としての調和を考えると、感動的なクライマックスに持って行くための積み重ねが不足しているので、うまさが上滑りしています。善意にあふれたすばらしい世界を描くのも結構なのですが、ある程度は説得力が求められるはずです。。
 講談社の煽り文句にあった「弾けた新感覚」ってのは一体どこにあったのだろうか?