「葡萄色のノート」(堀内純子)

葡萄色のノート (あかね・ブックライブラリー)

葡萄色のノート (あかね・ブックライブラリー)

 政治的な意味では2002年最大の問題作。古田足日はこの作品を「戦後六十年近くたって現れた、一種すぐれた文学性をもつ作品なので、僕はこの作品はもしかしたら日本の戦後児童文学のある意味での到達点、苦い到達点を示しているのかもしれないという気さえしてきます。(日本児童文学を斬る)」と評しています。
 1992年、この年14歳になる少女梢は、祖母の高見ユキから韓国旅行と葡萄色のノートを贈られます。このノートは梢の曾祖母から始まり、曾祖母の子孫の娘達が14歳の時に記録を書き継いできたものでした。ノートの内容はというと、曾祖母の夫、高見ユキの父親に当たる人物高見太郎の業績をたたえつつ、戦時中の朝鮮で生きた一族の歴史を記述したものでした。
 さて、問題は高見太郎の業績がどういうものかということですが、朝鮮で植林事業に従事していたとのことです。そういうわけでこの作品では、一見中立的な立場を装いつつも、「日本はよいこともした」式の主張がメインテーマとなっています。
 ノートを書き継いできた5人の純粋な少女によって、高見太郎の業績が強引に聖化されていく構成は非常に巧妙です。しかし「純粋」な「少女」の語りを装っているのが実は狡猾な大人であることに気づいてしまうとぞっとします。
 ただわたしは、この「少女」の聖性を利用しようとしたことが逆にこの作品を失敗に導いてしまったような気がします。この作品、なんとも古くさい少女小説文体で書かれているんですよ。すくなくとも1992年の14歳の少女の語彙に「ダー」というものがあるとは思えません。それにいくら戦時中のエピソードとはいえ、「マロニエの伯父さま」って呼称はどうよ。すでに陳腐化してギャグにしかならない少女小説風の描写は、現代の読者を引かせる効果しか持たないと思います。
 いちいちあら探しをするときりがないのですが、ひどいのはこの一節。

わたしは、自分の祖父母のことを弁護したいのではない、と思う。自分の国を、そんなに悪い国だと思いたくいないのだ。もっといえば、人間を信じたいのだ。ほんとうに悪い人なんていないと思いたい。

 「人間を信じたい」……。美しい言葉ですが、これを加害者の側にいる人間が言ってしまうのは傲慢でしかありません。
 この作品についてはweb上ではきどのりこの批評がくわしいので参照してください。