「文芸誌「海」子どもの宇宙」(中公文庫編集部/編)

文芸誌「海」子どもの宇宙 (中公文庫 (Z6))

文芸誌「海」子どもの宇宙 (中公文庫 (Z6))

 文芸誌「海」一九八二年臨時増刊号「子どもの宇宙」の復刻版。さまざまな文筆家が自らの児童観・児童文学観を披露している興味深い本でした。
 話の枕にアリエスの「子供の誕生」を持ってくる人が多いのは当時の流行を表しているのでしょうか。気になった部分をいくつか引用します。

 異文化としての子どもという存在に、散文を書く芸術家は気がついていたということになると思うんですけどね。
 しかし、それは子どもにとって幸せなことであったか、不幸であったかという問題がありますね。芸術にとっては幸せであったけれども、子どもにとっては不幸の始まりであるという、両義的な出来事であったんじゃないかという感じがしますね。アリエスなんかも、子どもは本来異物であった、それが無理矢理組み入れられ、組み込まれる歴史として、子どもを描いているわけです。まあ似たようなことは、日本においても、柄谷行人が、近代文学の成立の過程において、小川未明によって、子どもが文学の制度として発見され、組み込まれるということを、言っているんですね。だから、芸術の幸運は子どもの不幸せという逆説的な状態において、子どもが出現してきているかもしれない。(p80-p81山口昌男

 「子供」とは、死にいたる病いそのものなのである。つまり、「子供」とは、自分が永遠に「子供」でいることはできないと自覚しているがゆえに誰よりも「死」を意識した存在なのである。「子供」は「生」を「歪形」し、「死」に変容してしまうメディアなのだ。(p173川本三郎

 岸田秀はこうした児童を特別視する見方から一歩引いて、どうして「児童」が見いだされることになったのかを分析しています。

 本能にも神にも依らず、人為に依る秩序を維持するためには、あますところなくすべての人間が完全でなければならない。そこで、近代理性人は、自分と同じような理性を持っておらず、参加させれば社会の秩序を乱しかねないものとして、子ども、異常者を発見し、教育や治療によって彼らを理性人に変えるまで社会から排除し、隔離したのである。(p179岸田秀

 かたい話はさておき、一番おもしろかったのは田村隆一の文章です。彼は日本の民話の特徴に関して鋭い指摘をしていました。

 ぼくの童話のヒロインは、みんな、意地悪婆さんばかりだ。舌切りスズメに出てくる欲張り婆さんが大好きだ。
 そこへいくと、狸にだまされて、狸汁にされてしまうおばあさんにはヒロインの資格がまったくない。(p269田村隆一

 わが愛する日本の昔噺は、小さな島の小さな土地にしがみついている農耕民族のやせた夢だから、せいぜい、おばあさんを狸汁にしてくれた狸だけが、ヒーローということになる。
 鬼が島の赤鬼よ、青鬼よ、桃太郎なんかに降参しないでくれたまえ。
 大江山の大酒飲みの赤鬼よ、酒呑童子よ、永遠なれ!(p272田村隆一