「おじいちゃんのカラクリ江戸ものがたり」販売中止事件について

月刊 たくさんのふしぎ 2010年 02月号 [雑誌]

月刊 たくさんのふしぎ 2010年 02月号 [雑誌]

福音館書店の月刊絵本「たくさんのふしぎ」2010年2月号として発売された「おじいちゃんのカラクリ江戸ものがたり」が、「たばこを礼賛している」との抗議を受け販売中止になりました。非常にデリケートな話題なので、誤解のないようにまずわたしの見解を明記しておきます。
まず、仮にこの作品が「たばこを礼賛している」内容だったとしても、販売中止という措置は適切ではなかったと思います。そういう意図があったとしても、子供にはそれを見抜いて無視し、作品のおもしろいところだけを楽しむ能力があるからです。楽観的に思われるかもしれませんが、そういう意味でわたしは子供を信頼しています。
ただし、この作品が「商品」として天下の福音館書店に期待される域に達していたかについては疑問が残ります。定期購読という形を主として流通している本なので、水準に達していない作品を送りつけたとしたら消費者の信頼を裏切ることになります。消費者がクレームを付けるのは当たり前、その権利は守られなければなりません。

喫煙を礼賛しているのか?

とりあえず現物をみて、この作品が本当に喫煙を礼賛しているのか検証してみます。もう書店では手に入りませんが、公共図書館では読むことができます。
現物をみる前に、参考のためこれが「喫煙礼賛ではない」とする立場の意見を紹介しておきます。福音館書店の対応を批判しているひこ・田中の見解を引用します。

パイプたばこ好きのおじいちゃんというキャラクターを作者がたてているだけです。
作品が、子どもにたばこを勧めているというならともかく(それでもおじいちゃんというキャラクターだけがそうであるなら可です)、パイプ姿がおじいちゃんを表しているわけで、逆に言えばそれなしにこの物語は成立しないとも言えるものです。(ひこ・田中のサイト「児童文学書評」より

ひこ・田中はおじいちゃんのキャラ付けのための小道具としてたばこを捉えています。
では、現物をみてみます。確かにそういう役割を持った小道具であるという読解は可能です。しかし、他のものでも代替可能な程度の小道具に過ぎず、あえてたばこでなければならない必然性はありません。「それなしにこの物語は成立しない」というほど作品のアイデンティティの根幹に関わるような重要な小道具であったとは読み取れませんでした。ひこ・田中が問題にした部分をみる限りでは、たばこを礼賛しているわけではないが、たばこが登場する必然性はあまりない作品であるといえます。
作品を批判する観点からみれば、重要なのは福音館書店社長が指摘している部分であると思われます。

『おじいちゃんのカラクリ江戸ものがたり』は、主人公のおじいちゃんがタバコ好きという設定になっており、おじいちゃんがパイプをくわえ喫煙したまま孫たちと同席している場面も複数描かれています。これは、過去と現在をわかりやすい形で関係づける小道具として使用したものであり、喫煙を推奨したり、子どもたちの受動喫煙を肯定したりする編集意図はまったくありませんでした。(福音館書店公式サイトより

遅くなりましたがここで物語のあらすじを紹介します。発明家のおじいちゃんが二人の孫に、自分が発明した機械で江戸時代の景色をみせるというストーリーです。そこで登場した喜助さんという人物がおじいちゃんと同じくたばこ好きという設定になっています。実は喜助さんは彼らのご先祖様でした。福音館書店社長はおそらくおじいちゃんと喜助さんにたばこ好きであるという共通点があることをもって、たばこを過去と現在を関連づける小道具として解釈しているのでしょう。しかしさらに文脈をみてみると、この小道具は「過去と現在をわかりやすい形で関係づけてる」だけではないとする読みも可能です。
喜助さんが自分たちの先祖だと明かされるシーンは、明らかに孫たちに感動を与えています。その文脈の中で著者は孫にこのような発言をさせています。

「ぼくらのご先祖さまの話だったとはね!そういえば、おじいちゃんも喜助さんも、たばこ好きだもんね」

たばこは「過去と現在をわかりやすい形で関係づけてる」だけではなく、先祖と自分たちのつながり、絆を象徴する小道具にもなっています、孫たちの感動はこの絆の発見に裏付けられています。この文脈でたばこを小道具として使ってしまうと、たばこに対しても肯定的なメッセージを発しているという読みを誤読とするのは難しいでしょう。
結論としては、たばこを礼賛しているとまでは言い切れないとしても、たばこに対して肯定的と捉えることのできるメッセージは確かに存在しているということになります。もちろんこの読みは唯一絶対のものではありません。多様な読みの可能性の中でそういう解釈もあり得るという事実を指摘しているだけに過ぎません。なお、たばこを肯定しているからどうだという、「表現」としての価値判断にまではここでは踏み込まないことをお断りしておきます。

「商品」としての絵本

では、この作品がたばこを肯定しているという読みが可能であるということを確認したところで、表現の自由とか表現規制とかいう大仰なテーマは脇においてしまい、絵本は「商品」であるという観点からこの問題を考えてみたいと思います。
絵本という「商品」の特徴は、実際の享受者は子供で、金を出して買うのは大人であるという二層構造にさらされていることです。ですから、大人に魅力ある作品だと思わせなければ、商品を売ることはできません。子供に本を届けるためには、まずは大人をだます必要があるわけです。
ここで、この商品を購入する層を考えてみます。わざわざ金を出して月刊絵本を買おうというのですから、おそらく教育熱心な層なのでしょう。そういう層なら、子供の人権にも敏感なはずです。子供が受動喫煙にさらされているシーンがあり、喫煙を肯定しているかのように読み取れるような絵本をみせられれば、そういう層の人々が不快に感じるであろうことは容易に想像できます。こういう購入者像が全然みえていなかったことが、福音館書店の最大のミスです。つまりこの作品は、「表現」とか「芸術」とかいう以前の問題として、「商品」として失敗していたということです。