「さらば、おやじどの」(上野瞭)

上野瞭の「ちょんまげもの」

  • ちょんまげ手まり歌」1968年
  • 「目こぼし歌こぼし」1974年
  • 「日本宝島」1976年
  • 「さらば、おやじどの」1985年

上野瞭は、「ちょんまげもの」と呼ばれる長編を四作残しています。どの作品にもさむらいが登場し身分制があるらしいことはわかるのですが、いつの時代のどこの地域の話かという情報は詳しくは明かされていません。なので、これらの作品を歴史小説とか時代小説とジャンル分けするのは不適当です。
ジャンル分けるするとするなら、ディストピア小説に分類するのが適切であると思われます。これらの四作のストーリー構成は、若者が残酷な犠牲の下に成り立っている社会や経済のシステムを知ってしまい、うっきゃーってなる話だと要約できます。
例としてデビュー作の「ちょんまげ手まり歌」の内容を紹介します。この作品では「なさけぶかい殿」が統治する「やさしい藩」の裏側が次第に明らかになる構成になっています。その実態はこうです。

  • 藩の産業は幻覚剤の原料である「ユメミ草」という植物の栽培であった。
  • 藩で養いきれない人間は口減らしのため殺される。このことは婉曲的に「お花畑にはいる」と呼ばれている。
  • 生かされている人間も、藩からの逃亡を防ぐために足に傷を付けられ、人々はみな「びっこ」になっている。

あまりに残酷な内容のため、有害図書として弾圧される栄誉も受けていたそうです。さて、今回復刻版が出た「さらば、おやじどの」も、これらの「ちょんまげもの」に共通する構成を持っています。さらにタイトルからわかるとおり、親子の関係も大きなテーマになっています。

あらすじ

まずは作品のあらすじを紹介します。主人公は御番所頭(犯罪者を裁く役職)の兵庫を父に持つ15歳*1の少年新吾です。彼は裸馬に乗って城下を暴走する若者の集団を偶然目撃してしまい、彼らのことを父親に告げ口しない証として、全裸で城下を走り回ることになります。全裸で野犬に襲われているところを七兵衛と名乗る薬売りの男に助けられ、彼から兵庫あてに「みまさかのおさばき、たのみます」という謎の伝言を託されます。
新吾は全裸で騒ぎを起こした罪で、お牢に入れられることになります。牢では無実の罪で囚われている杢兵衛という男と知り合います。やがて牢から出た新吾は、父親が30年前に美作村で起きた虐殺事件に関与していたと知り、さらに杢兵衛の件もそれに関わりがありそうだということに気づいていきます。兵庫は美作村の生き残りであった七兵衛に殺害され、新吾は国の御城代の美馬さまに面会を求め、事の真相を問いただします。
かつて美作村は国の方針で阿片精製のための罌粟を栽培させられていました。その上村人は人体実験の実験台にもされていて、阿片によって廃人になる者が続出していました。この事を隠蔽するために、表向きは野盗と化した村人を鎮圧するという名目で討伐隊が組織され、村を壊滅させたらしいということがおぼろげにわかってきます。
真吾は事の次第を暴走集団の若者たちに話します。国のやり方に納得できない若者たちは、全裸になり集団で騒ぎ回るという行動を起こし、物語の幕引きとなります。

溶解する社会

いままで家庭と塾の往復が世界の全てであった新吾は、父親の手でお牢に入れられることで新たな世界に接続することになります。さらに、おそらく真吾は父親の跡を継いで国の重要な役職に就くはずですから、彼にとって父親は自分と社会をつなぐパイプ役であるととらえることができます。しかし、父親が美作村で犯した罪の責任の所在を探る過程で、父親を仲立ちとして広がっていくはずであった新吾の世界の姿はどろどろに溶解してしまいます。
美作村虐殺事件の時兵庫は末端の兵士に過ぎず、討伐隊を指揮していたのは尾形伝右衛門という人物でした。彼に命令を下したのはその当時から御城代を勤めていた美馬さまでしたが、彼は美作村の村人を助けるように指示をしたつもりだったのを尾形伝右衛門が誤解して虐殺事件を起こしたのだと言い逃れをします。ここで責任の所在は宙に浮いてしまいます。さらに、美馬さまの上には御領主が存在しますが、御領主は政治の実務には関わっていないことになっていて、またも責任の主体があやふやになってしまいます。兵庫から伝右衛門、美馬さま、御領主と、責任の所在を追求すればするほどその実体は遠ざかっていき、ついには蜃気楼のように消え去ってしまいます。

機能不全に陥るイニシエーション

新潮文庫版の解説を担当した河合隼雄は、若者たちが最後に起こした全裸暴走という行動を成人のイニシエーションと解釈しています。ただし、それは伝承社会におけるイニシエーションより困難なものであるととらえています。少し引用してみましょう。

伝承社会の儀式は、何らかの「絶対者」の存在を仮定している。その点、新吾たちにとっては「絶対者」は居ない。大人たちが絶対であるかの如くに言うもの、たとえば、「御法」とか「御城代さま」とか、そんなものは見せかけに過ぎぬことを、本書の主人公新吾は身をもって知ったのである。(中略)偽の「絶対者」を見透かす醒めた目、偽の権威と戦う勇気は必要だ。しかし、そうなると、「絶対者」抜きのイニシエーションなど可能なのか、という問題が生じてくる。
(新潮文庫版下巻の解説より)

90年代からゼロ年代にかけて森絵都魚住直子らが、子供が自分で通過儀礼を捏造する話を書いていたことは記憶に新しいです。森絵都の「宇宙のみなしご」(1994)「つきのふね」(1998)、魚住直子の「象のダンス」(2000)「リ・セット」(2003)がそれに当たります。彼女らの問題意識の源流は「さらば、おやじどの」にあったのかもしれません。

*1:数え年だとすると16〜17歳か