はじめに
本稿の目的は、伝統的なジェンダー規範を子供に学習させる役割を果たしてきたとされる児童文学において*1、性の越境がどう描かれてきたかを検証することです。現在では性を「男/女」に二分できるという考えは無効になっています。身体的性、社会的性、性自認、性指向という4つの軸を導入するだけでも、無数の性のあり方が考えられます。
しかし現在の日本の児童文学で、インターセックスなどの性的マイノリティに触れている作品はほとんどみられません。かろうじて事例があるのは、「異性装」をテーマにした作品です。そこで今回は、性の越境としての「異性装」、特に「女装」の、児童文学における扱いを検証することとします。なお、ここではTS、TJ、TVの厳密な区別はせず、外面的に「異性装」をしている人をすべて「異性装者」と呼称することをお断りしておきます。
1 超常現象による入れ替わり・性転換
はじめから本筋と離れてしまいますが、日本の児童文学には超常現象による入れ替わりや性転換がテーマになっている作品が多数あります。まずは、これを広義の「異性装」として、超常現象による入れ替わりや性転換が登場する児童文学を振り返りたいと思います。
男女が入れ替わる児童文学としては、おそらくサトウハチローの『あべこべ玉』(後に『あべこべ物語』と改題)が始祖であると思われます。まだ正確な書誌情報を調査できていないのですが、ウィキペディアでは1932年の作品とされています*2。魔法の玉によって兄と妹が入れ替わる物語です。この段階ではまだ性の違いは髪をとかすのがめんどくさいというレベルでしか取り上げられておらず、ギャグを展開するための状況設定の域を出ていません。性の問題に正面から取り組んだ本格的な始祖は、やはり山中恒の『おれがあいつであいつがおれで』*3であると理解すべきでしょう。女の体に入れ替わった一夫は、親や教員からの説教を受けたり、性暴行被害に遭いかけたりすることで、女であるだけでいかに抑圧を受けるのかを身をもって知ることになります。
女の子というものは、ものすごく不便だ。いつもからだを清潔にしていなくちゃいけない。パンツいっちょでひっくりかえっているわけにはいかない。月に一度は神妙にしていなくちゃならないときがある。しょっちゅうヘアブラシをかけなくちゃいけない。やたらに台所の仕事をさせられる。やたらに愛想をよくしろといわれる。それにふと気がつくと、いつも男どもにじろじろ見られている。(理論社山中恒よみもの文庫版、p191)
さらに、男の体になった一美も男子の集団から性暴行を受けます。ホモソーシャルがジェンダー規範から外れた男を排斥するさまと、隠蔽されがちな男児に対する性犯罪までも描いてみせた山中恒の先見性とバランス感覚には、瞠目せざるを得ません。
山中恒はこの作品で、入れ替わりという設定をセクシュアリティとジェンダーの問題を料理する手法として確立させました。
児童文学作品ではありませんが、児童文学作家の上野瞭は1989年の『アリスの穴の中で』*4で男を妊娠させ、やはりセクシュアリティとジェンダーの問題に取り組みました。
まず主要登場人物を整理してみます。晴彦と真樹は事情があって同居している幼なじみで、真樹は晴彦に片思いしている模様。そこに中学から仲良くなった志麻子 が絡んできて、どうやら晴彦と志麻子はお互い憎からず思っているような雰囲気を漂わせています。
ここで、志麻子の乳房が真樹に移動したことから話はやっかいになります。晴彦は真樹が持つ乳房に欲情します。この場面からは、性欲は器官に支配されていると読み取れそうです。しかし後藤みわこは、別に同性愛者の少年を登場させており、性欲は器官にだけ支配されているわけではないという明確なメッセージも打ち出しているのです。
後藤みわこは、乳房のみを入れ替えさせることで、問題をセクシュアリティに絞って入れ替わりテーマを先鋭化させました。
最近では、濱野京子が『竜の木の約束』*6で、超常現象によって性転換する少女を描いています。
超常現象による入れ替わり・性転換は、これからもセクシュアリティとジェンダーを考えるための伝統ある手法として、これからも児童文学界で続いていきそうです。(続く)